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第五章

【アリッサの特別 03】

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「何をしている、イルザ」
 応接室に入ってきたのはイルザの夫であり、オーマン家の主人である老紳士だった。
 60歳近い年齢でありながら背筋は真っ直ぐで矍鑠としている。常に毅然としており洗練されたその姿は、ヒメカの街の誇りでもあった。
「渡しなさい」
 彼は年の離れた妻の前に立つと、静かに手を差し出した。
 基本的に権力を持つ年上男性に逆らうことが出来ないイルザは、震える手で誘引剤の入った木箱を渡した。
 その途端、白い頬を平手で叩かれる。イルザの体が床に倒れ込むのを、アリッサは驚いて見守った。
「妻が大変失礼な行いをしました。非礼をお詫び致します」
「い、いえ……」
 オーマンはすぐにアリッサに向き直ると、無礼な妻の代わりに深々と頭を下げた。
 この街の実質的な支配者が、一介の薬師相手にだ。
「イルザ。アリッサさんが作ってくれるこの薬は、ブドウ畑の維持のために必要不可欠なものだ。この薬が無ければあっという間に害虫に群がられ、収穫も出来ず、ワイン樽が満たされることもない。最悪の場合、解雇しなくてはいけない人も出るだろう。お前の意地と……」
 オーマンがアリッサを一瞥する。
 しかし何かしらの感情を、その目にも声にも、滲ませることはなかった。
「……未練の為に、街の人たちを巻き込むことは許されない」
 オーマンはあくまで淡々と、イルザに自分の行いを自覚させようとしている。
 床に伏せたままのイルザは呆然としていたが、やがてふて腐れたように目を逸らした。本当に子どもみたいだな、とアリッサは思う。
「お、お母様!」
 そのとき飛び込んできたのは、ロッゲンだった。
 状況を察した少年は急いで母の元に駆け寄り、庇うように父の前に立ち塞がった。
 細い足を震わせながら、それでも必死で、母の為に父と戦おうとしている。
 オーマンは厳格ではあるが、身内の非礼の為に頭を下げられる人物だ。確かに夫としては年齢が離れているが、見た目が悪いわけでもない。
 アリッサから見てもオーマンは敬愛に値する人物であるのに、イルザは何がそこまで不満だったのだろう。
 裕福な生活が約束されたこの人の妻に収まることは、イルザにとって悪い話ではなかった筈だ。彼女は自分で働くつもりなど、最初からなかったのだから。
 イルザはヒメカの街で働くことになったアリッサを追いかけるように、この家に嫁いできた。最初は何かと理由を付けて診療所にやって来たから流石にうんざりしていたのだが、妊娠したと聞いたときは安堵した。イルザは妻としての役割は果たしていたのだ。
 それなのに、まだ変わらない。
 状況も環境も変わっていく。アリッサがそうであるように、イルザの外見だって出会った頃と同じではない。
 それなのにイルザの精神だけが、まだあの頃のままなのだ。
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