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6・甘い楔(くさび)と苦い逃亡
真摯な言葉と静かな熱
しおりを挟む(結局全部準備してもらってしまったわ……)
あの後ロールキャベツを運んできた雨宮が、飲み物を取りにもう一度キッチンに入ろうとしたため、千紗子は『今度こそは』と立ち上がりかけたが、またしても雨宮に素早く制されて、結局キッチンに入ることは叶わなかったのだ。
自分で作ったロールキャベツを口の中で咀嚼して飲みこむ。水の入ったグラスを持ち上げながら、千紗子は何となくいつもの食事よりも美味しく感じることに気が付いた。
(自分が作ったものでも、こうして誰かがよそってくれただけで、いつもよりも格段美味しく感じるのね……)
自分で作って自分で盛り付けて自分で食べる。
いつものルーティンワークの途中過程が変わっただけなのに、驚くほど食事の感じ方が違うことに心の中で感嘆してしまう。
ここ数日は精神的な落ち込みのせいで、食事があまり美味しく感じられずに量も食べられなかったけれど、こうして『美味しい』と感じることが出来るようになったということは、心の傷も少しは回復しているということだろう。
(やっぱり今が引き揚げ時なのよ―――)
自分の取った行動が間違いではなかったと、千紗子は心を固めた。
「今日の千紗子の料理もすごく美味しい。ロールキャベツは柔らかいし、クリームシチューはコクがあるのに食べやすい。千紗子の和食はすごく美味いけど、こういう料理もいいな。どっちにしても千紗子の料理はホッとする味だ」
「そんな…簡単なものばかりなんですよ…手の凝ったものなんて作れないから…」
「十分手が凝ってるよ。ロールキャベツなんて俺からしたら魔法みたいだ」
「魔法って……」
「だってそうだろ?どうやったらこんなふうに肉がキャベツの中に入るのか……魔法使いが作った料理だと、子どもの頃は信じてたんだぞ」
「魔法使いが、……ふ、ふふっ、やだっ、うふふふふふっ、…ははっ、おかしっ、ふふふっ」
雨宮が真剣な表情と、その突飛な発想が可笑しくて、千紗子は笑いを堪えきれなかった。
食事中に笑うなんてお行儀が悪いと思いながらも、一度ツボにはまってしまうと中々抜けられず、どうにか笑いを収めた時には、千紗子の目じりに涙が溜まっていた。
「す…すみません。食事中に大笑いしてしまって」
目じりを拭いながら顔を上げると、向かいに座る雨宮と目が合った。
彼ははひどく優しげな顔をして、こちらを見て微笑んでいる。ブラウンフレームの奥の瞳には温かな光が灯っていて、千紗子はさっきまで声を上げて笑っていたことも忘れて、その光に吸い込まれてしまう。
「やっぱり千紗子は笑ってる方がいい」
雨宮が静かに言った。
「今みたいに、何にも遠慮しないで笑って欲しい」
雨宮の言葉が、千紗子の胸に落ちる。
ポツリと落ちる雨垂れのようなその言葉は、静かにそっと心の割れ目に沁みていく。
降り出したばかりの柔らかな雨が、乾いた地面を潤し、凪いでいた水面にさざ波を立てるように。
「君の笑顔をずっと守りたい」
真摯な言葉とは逆に、その瞳には静かな熱がこもっている。
千紗子の足元から正体不明の震えが這い上がってきた。
細い糸がピンと張ったような静寂が部屋に満ちていた。
「でも今は、千紗子の作った美味しい料理を食べるのが最優先だな」
軽やかな口調が、千紗子を縛る見えない糸を断ち切った。
何事も無かったかのように、雨宮が中央の大皿からクロワッサンを一つ取る。
「ここの下に入ってるブランジェリーのパン、千紗子も気に入ってくれたのか?」
「は、はい……」
たどたどしく返事をすると、雨宮が持っているクロワッサンをちぎりながら口に入れる。
「ここのクロワッサンは本当にうまいな。千紗子のシチューともすごく合う!千紗子も食べてみたらいい」
「はい」
進められて大皿からクロワッサンを手に取る。
朝のうちに買っておいたので焼き立てではないけれど、時間が経った今もサクッとした歯ごたえの後、バターの香りが鼻に抜ける。
「美味しいです」
「だろ?沢山買っておいてくれたんだな、ありがとう。ここのクロワッサンはすぐに売り切れるから、昼前にはなくなってしまうんだ」
「そうなんですね。良かった、雨宮さんの好きなものを買えて」
数ある種類のパンの中から、雨宮が気に入っているものを買えたことに安堵した千紗子は、ほっとして肩の力が抜けた。
そんな千紗子の様子を見た雨宮が、そっと息をついたことに、千紗子はまったく気付かなかった。
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