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5.お弁当とイレギュラー***
[4]ー2
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仕事のことかと思いきや、まさかの卵焼き⁉
そう言えば昼間そんな話をしていたなと、今になって思い出す。
「いえ、さすがにそれは……奥様もお忙しいことと存じますし……」
小さなお子さんがいて働いているのだから休みの日くらいのんびりしたはずだ。
「気兼ねしなくても大丈夫。彼女も乗り気になっていて、ぜひと言っている」
本当に彼女は卵焼きをレクチャーしてもいいと思っているのだろうか。彼女に取ったら私は一方的にひどい言葉を投げつけてきた相手なのだ。
「いいのか?『弁当おかもと』の出汁巻き卵は絶品だぞ」
「弁当おかもとの出汁巻き卵……」
一度だけ食べたことのあるその味を思い出した瞬間、口の中にじゅわりと唾液があふれた。あれは本当においしかった。ランチの配達を一度だけ頼んだときに、メインメニューが売切れてしまったからと言って店主が特別に焼いてくれたのだ。出来立ての卵焼きは、ひと口食べると中から出汁があふれてきて、卵のうま味と合わさって最高だった。家の近所にあれば毎日通いたいくらいだ。
「彼女は店主の孫娘だからな。ほかにもお弁当向けのメニューを教えてくれるだろう」
言われて昼間見た首席のお弁当を思い出した。彩りがよくて、パッと見ただけで栄養バランス満点だとわかるほどだった。
私もあんなお弁当を圭君に作ってあげたい。
『あんなお弁当』――私が数時間前に耳にしたその言葉には、憐れみと蔑みが込められていた。結城首席の奥様のお弁当とは正反対だ。
そんなふうに言われるような弁当しか作れない自分が情けなく、それを彼に持たせてしまったことも悔やまれる。彼が食べるときに嫌な思いをしたかもしれないと思ったら、胸が締め付けられる。涙がにじみかけたのをきゅっと眉を寄せてこらえた。
「いや、気乗りがしなければいいんだ。プライベートのことなのに、しつこく誘って悪かった」
申し訳なさをにじませた声に、ハッとする。
「いや違うんです。誘われたのが嫌とかじゃなくて、えっと……行きます!」
「え?」
「ぜひ行かせてください! 私においしい出汁巻き卵を伝授してください!」
突然前のめりになった私に、首席はまぶたを数回しばたたかさせてから、目元を緩めた。
「わかった。じゃあ、さやかにそう伝えておくよ」
「お願いします」
隣を歩きながら庁舎を出ると、外はほんのりと青みがかっていた。どうやら日没直後のようだ。夏本番がすぐそこに迫っているような熱気はあるが、照り付ける陽ざしがないぶん昼間ほどの暑さは感じない。
「首席こそ、今日はなにかお約束でも?」
私よりよっぽど多忙な彼が、こんなに早く帰るなんて珍しい。
「いや、約束というほどではないが……ここ数日は息子の寝顔しか見ていなくて。そのうえ、夕飯が妻の特製チキンカレーだと聞いたら、帰る以外の選択肢が思い浮かばなかったんだ」
至極真剣な表情で言われ、我慢しきれず小さく吹き出してしまう。
「それは早く帰りたくなりますよね」
息子さんへの溺愛はともかく、やっぱり胃袋をつかむのは大事なことだと証明された気がする。
「じゃあまた来週。お疲れ様」
「はい。お疲れ様でした」
駐車場へ向かう首席の背中を見送り、自分は門を目指して歩く。
やっぱり買い物して帰ろうかな。なにか簡単なものを一品くらい作ってみてもいいかもしれない。
そう思いながら門をくぐった瞬間。
「香ちゃん」
聞こえた声に反射的に振り向いた私は、両目を見開いた。
そう言えば昼間そんな話をしていたなと、今になって思い出す。
「いえ、さすがにそれは……奥様もお忙しいことと存じますし……」
小さなお子さんがいて働いているのだから休みの日くらいのんびりしたはずだ。
「気兼ねしなくても大丈夫。彼女も乗り気になっていて、ぜひと言っている」
本当に彼女は卵焼きをレクチャーしてもいいと思っているのだろうか。彼女に取ったら私は一方的にひどい言葉を投げつけてきた相手なのだ。
「いいのか?『弁当おかもと』の出汁巻き卵は絶品だぞ」
「弁当おかもとの出汁巻き卵……」
一度だけ食べたことのあるその味を思い出した瞬間、口の中にじゅわりと唾液があふれた。あれは本当においしかった。ランチの配達を一度だけ頼んだときに、メインメニューが売切れてしまったからと言って店主が特別に焼いてくれたのだ。出来立ての卵焼きは、ひと口食べると中から出汁があふれてきて、卵のうま味と合わさって最高だった。家の近所にあれば毎日通いたいくらいだ。
「彼女は店主の孫娘だからな。ほかにもお弁当向けのメニューを教えてくれるだろう」
言われて昼間見た首席のお弁当を思い出した。彩りがよくて、パッと見ただけで栄養バランス満点だとわかるほどだった。
私もあんなお弁当を圭君に作ってあげたい。
『あんなお弁当』――私が数時間前に耳にしたその言葉には、憐れみと蔑みが込められていた。結城首席の奥様のお弁当とは正反対だ。
そんなふうに言われるような弁当しか作れない自分が情けなく、それを彼に持たせてしまったことも悔やまれる。彼が食べるときに嫌な思いをしたかもしれないと思ったら、胸が締め付けられる。涙がにじみかけたのをきゅっと眉を寄せてこらえた。
「いや、気乗りがしなければいいんだ。プライベートのことなのに、しつこく誘って悪かった」
申し訳なさをにじませた声に、ハッとする。
「いや違うんです。誘われたのが嫌とかじゃなくて、えっと……行きます!」
「え?」
「ぜひ行かせてください! 私においしい出汁巻き卵を伝授してください!」
突然前のめりになった私に、首席はまぶたを数回しばたたかさせてから、目元を緩めた。
「わかった。じゃあ、さやかにそう伝えておくよ」
「お願いします」
隣を歩きながら庁舎を出ると、外はほんのりと青みがかっていた。どうやら日没直後のようだ。夏本番がすぐそこに迫っているような熱気はあるが、照り付ける陽ざしがないぶん昼間ほどの暑さは感じない。
「首席こそ、今日はなにかお約束でも?」
私よりよっぽど多忙な彼が、こんなに早く帰るなんて珍しい。
「いや、約束というほどではないが……ここ数日は息子の寝顔しか見ていなくて。そのうえ、夕飯が妻の特製チキンカレーだと聞いたら、帰る以外の選択肢が思い浮かばなかったんだ」
至極真剣な表情で言われ、我慢しきれず小さく吹き出してしまう。
「それは早く帰りたくなりますよね」
息子さんへの溺愛はともかく、やっぱり胃袋をつかむのは大事なことだと証明された気がする。
「じゃあまた来週。お疲れ様」
「はい。お疲れ様でした」
駐車場へ向かう首席の背中を見送り、自分は門を目指して歩く。
やっぱり買い物して帰ろうかな。なにか簡単なものを一品くらい作ってみてもいいかもしれない。
そう思いながら門をくぐった瞬間。
「香ちゃん」
聞こえた声に反射的に振り向いた私は、両目を見開いた。
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