36 / 68
5.お弁当とイレギュラー***
[4]ー1
しおりを挟む
***
セミナーが無事終了し本省へと戻った私は、課長に帰庁報告を済ませてすぐに報告書作成に取りかかった。
成果はまずまずと言ったところだろう。講演後の各部門に分かれた相談受付会では、私の担当する外務省ブースを含め、どのブースもひっきりなしに人が訪れていた。その中でもひと際賑わっていたのは、松崎法律事務所のブースだった。
そりゃあ、あの講演を聞いた後なら、間違いなく行きたくなるわよ。
圭君の――いや、〝朝比奈弁護士〟の講演はそれくらいすばらしかった。
〝法律事務所〟といえば敷居が高くお堅いイメージを持つ人も多いと思う。実際私も弁護士としてのスピーチは、アウトバウンドに必要な法務の話をメインでするのかと思っていた――が。
『それに関しては参考となる書籍を後ほどご紹介いたしますので、ここでは割愛いたします。ご質問などございましたら、講演の後ブースにお越しくださいね』
いつもの爽やかで親しみやすい笑みを会場に向ける。まるで敏腕営業部員の業だ。
自身の海外体験談を交えながら日本との法律の違いを語る。だれもがわかる語彙を使った軽快なトークに、多くの来場者が引き込まれていくのを、私は会場の片隅でひとり見惚れていた。
講演終了後に『彼の話をもっと聞きたい、相談に乗ってほしい』そう思った人が押し掛けたのも納得である。
顔を上げて課長席の後ろにある大きな掛け時計を見ると、定時を十分ほど過ぎている。
報告書の作成は先輩が途中まで作っていたものがあったため、比較的速やかに完成させることができた。代理業務は無事済んだが、本来業務がまだ残っている。今日は金曜日。週明けの業務開始をスムーズにするためには、今日中に片づけておくことがマストなものがある。
正直、今日はこの時間にしては集中力が足らない。いつもと違う神経を使ったからだろうか。
そういえば、今日は帰ったら料理の練習をしようと思っていたんだっけ。
そんなことをふと思い出し、どっと疲れが押し寄せた。
今日はもう無理だわ……。
今から帰って再び慣れないことを始めるのは得策ではない。おとなしく諦めて、冷凍庫にストックしてあるドリアでも食べることにしよう。こういう日は何もせず、お気に入りのアロマ入浴剤を入れた湯舟にゆっくり浸かるに限る。
そう決めたせいか集中力が増した私は、短時間で仕事を片づけ、荷物をまとめて席を立った。
退庁の挨拶をして課を出る。時刻は六時四十分。日が沈む前に退勤するなんて久しぶりだ。
茜色に染まる窓の外を見ながら廊下を進んでいると、室内から出てきた人と目が合った。
「あ……」
「北山。ちょうどよかった」
目が合うなりそう言ったのは結城首席だ。きちんとジャケットを羽織りカバンを持っているところを見ると、彼も退庁するところのようだ。
「なにかありましたか?」
首席が室長を務めるAPEC室とは、サミット関係で共同業務がある。急ぎの案件でも今ならまだ戻ってやれると一瞬でスイッチを入れたが、首席の口から出たのは思いも寄らない言葉だった。
「次の土曜、午後からは空いているか?」
「え?」
休日出勤の要請だろうか。それなら課長を通して通達されるはずなのだけど。
不思議に思いつつも頭の中にスケジュール表を思い浮かべる。明日からは海の日を含んだ三連休となっていて、その次の土曜日に予定は特にない。
「はい」と返すと、首席がふわりと表情を緩めた。
あ、珍しい。そんな顔をするなんて。
二年半ほど在米日本国大使館で一緒に働いていたときでも、今のような表情を見たことはない。物腰やわらかな人ではあるけれど、おそらく芯の部分はずっと〝外交官〟のままなのだ。彼が固く着込んだ外交官の鎧を外すのを、この外務省で見たことがある人はいるのだろうか。
「じゃあその日でいいか?」
「え?」
「卵焼き講習会」
「え!」
「さやかがその日なら空いていると言っていたから」
「ええっ!」
セミナーが無事終了し本省へと戻った私は、課長に帰庁報告を済ませてすぐに報告書作成に取りかかった。
成果はまずまずと言ったところだろう。講演後の各部門に分かれた相談受付会では、私の担当する外務省ブースを含め、どのブースもひっきりなしに人が訪れていた。その中でもひと際賑わっていたのは、松崎法律事務所のブースだった。
そりゃあ、あの講演を聞いた後なら、間違いなく行きたくなるわよ。
圭君の――いや、〝朝比奈弁護士〟の講演はそれくらいすばらしかった。
〝法律事務所〟といえば敷居が高くお堅いイメージを持つ人も多いと思う。実際私も弁護士としてのスピーチは、アウトバウンドに必要な法務の話をメインでするのかと思っていた――が。
『それに関しては参考となる書籍を後ほどご紹介いたしますので、ここでは割愛いたします。ご質問などございましたら、講演の後ブースにお越しくださいね』
いつもの爽やかで親しみやすい笑みを会場に向ける。まるで敏腕営業部員の業だ。
自身の海外体験談を交えながら日本との法律の違いを語る。だれもがわかる語彙を使った軽快なトークに、多くの来場者が引き込まれていくのを、私は会場の片隅でひとり見惚れていた。
講演終了後に『彼の話をもっと聞きたい、相談に乗ってほしい』そう思った人が押し掛けたのも納得である。
顔を上げて課長席の後ろにある大きな掛け時計を見ると、定時を十分ほど過ぎている。
報告書の作成は先輩が途中まで作っていたものがあったため、比較的速やかに完成させることができた。代理業務は無事済んだが、本来業務がまだ残っている。今日は金曜日。週明けの業務開始をスムーズにするためには、今日中に片づけておくことがマストなものがある。
正直、今日はこの時間にしては集中力が足らない。いつもと違う神経を使ったからだろうか。
そういえば、今日は帰ったら料理の練習をしようと思っていたんだっけ。
そんなことをふと思い出し、どっと疲れが押し寄せた。
今日はもう無理だわ……。
今から帰って再び慣れないことを始めるのは得策ではない。おとなしく諦めて、冷凍庫にストックしてあるドリアでも食べることにしよう。こういう日は何もせず、お気に入りのアロマ入浴剤を入れた湯舟にゆっくり浸かるに限る。
そう決めたせいか集中力が増した私は、短時間で仕事を片づけ、荷物をまとめて席を立った。
退庁の挨拶をして課を出る。時刻は六時四十分。日が沈む前に退勤するなんて久しぶりだ。
茜色に染まる窓の外を見ながら廊下を進んでいると、室内から出てきた人と目が合った。
「あ……」
「北山。ちょうどよかった」
目が合うなりそう言ったのは結城首席だ。きちんとジャケットを羽織りカバンを持っているところを見ると、彼も退庁するところのようだ。
「なにかありましたか?」
首席が室長を務めるAPEC室とは、サミット関係で共同業務がある。急ぎの案件でも今ならまだ戻ってやれると一瞬でスイッチを入れたが、首席の口から出たのは思いも寄らない言葉だった。
「次の土曜、午後からは空いているか?」
「え?」
休日出勤の要請だろうか。それなら課長を通して通達されるはずなのだけど。
不思議に思いつつも頭の中にスケジュール表を思い浮かべる。明日からは海の日を含んだ三連休となっていて、その次の土曜日に予定は特にない。
「はい」と返すと、首席がふわりと表情を緩めた。
あ、珍しい。そんな顔をするなんて。
二年半ほど在米日本国大使館で一緒に働いていたときでも、今のような表情を見たことはない。物腰やわらかな人ではあるけれど、おそらく芯の部分はずっと〝外交官〟のままなのだ。彼が固く着込んだ外交官の鎧を外すのを、この外務省で見たことがある人はいるのだろうか。
「じゃあその日でいいか?」
「え?」
「卵焼き講習会」
「え!」
「さやかがその日なら空いていると言っていたから」
「ええっ!」
2
あなたにおすすめの小説
課長のケーキは甘い包囲網
花里 美佐
恋愛
田崎すみれ 二十二歳 料亭の娘だが、自分は料理が全くできない負い目がある。
えくぼの見える笑顔が可愛い、ケーキが大好きな女子。
×
沢島 誠司 三十三歳 洋菓子メーカー人事総務課長。笑わない鬼課長だった。
実は四年前まで商品開発担当パティシエだった。
大好きな洋菓子メーカーに就職したすみれ。
面接官だった彼が上司となった。
しかも、彼は面接に来る前からすみれを知っていた。
彼女のいつも買うケーキは、彼にとって重要な意味を持っていたからだ。
心に傷を持つヒーローとコンプレックス持ちのヒロインの恋(。・ω・。)ノ♡
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない
彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。
酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。
「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」
そんなことを、言い出した。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~
葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。
「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。
小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
お見合いに代理出席したら花嫁になっちゃいました
ゆきりん(安室 雪)
恋愛
綾美は平日派遣の事務仕事をしているが、暇な土日に便利屋のバイトをしている。ある日、お見合いの代理出席をする為にホテルへ向かったのだが、そこにいたのは!?
財閥御曹司は左遷された彼女を秘めた愛で取り戻す
花里 美佐
恋愛
榊原財閥に勤める香月菜々は日傘専務の秘書をしていた。
専務は御曹司の元上司。
その専務が社内政争に巻き込まれ退任。
菜々は同じ秘書の彼氏にもフラれてしまう。
居場所がなくなった彼女は退職を希望したが
支社への転勤(左遷)を命じられてしまう。
ところが、ようやく落ち着いた彼女の元に
海外にいたはずの御曹司が現れて?!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる