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たった十分、されど十分
たった十分、されど十分⑤
私は急いでスカートのポケットからハンカチを取り出した。課長の前髪から明らかに水がしたたり落ちている。よく見たらジャケットの肩や腕も濡れていた。
「あの……かばってくださってありがとうございました」
「これを」と差し出したハンカチを課長はいつまでも受け取ろうとしない。その間にもポタポタと水滴が前髪から落ちてくる。
「そのままにしていたら、風邪を引いてしまいます」
前髪を拭こうと手を伸ばしたら、手首を掴まれた。手のひらの熱さに心臓がドキンと大きな音を立てる。
「風邪を引いたら実花子が看病してくれる?」
「なっ……」
小首をかしげて甘やかに微笑まれ、心拍数が駆け上がる。
「恋人のふりはもう終わったんですよね?」
「残念」
ふっと息を吐くように笑いながら、課長は私の手首を放す。そして自分のハンカチを出すと、私の左肩をポンポンと拭いた。
「かばいきれなくてすみませんでした。せっかくいつにも増してかわいい格好をしていたのに」
かっ、かわいい⁉
急に敬語に戻ったことよりも、課長の口から『かわいい』なんて単語が出てきた方に驚く。
「い、いえっ! あれは私が余計な口出しをしたせいなのでっ! 各務課長は黙って座っていてとおっしゃっていたのに……」
無防備なまま一撃を食らったせいで、動揺を隠しきれない。顔が熱い。
「いや。彼女が君に対してあんな凶行に出るとは思いませんでした。詰めが甘かった俺が悪い。本当に申し訳ありませんでした」
思いきり頭を下げられ、私はさらに慌てふためいた。
今思えば、課長は冷たく当たることで園田さんを諦めさせようとしていたのだ。それを私が邪魔した形になった。
『かばいきれなかった』とはいっても、私は肩口にほんの少し水がかかった程度。それも彼が拭いてくれるまで気づかなかったレベルだ。
目の前にあるしっとりと濡れた前頭部が、しゅんと耳を垂らしてうなだれる黒い大型犬に見えてくる。私はハンカチを持った手を課長の頭に延ばした。
「私なら全然平気です。かばってくださってありがとうございました」
課長が顔を上げる。
「今回のお礼とお詫びをしたい。この後の予定は?」
課長が湿った前髪を鬱陶しそうにかき上げた。その仕草がやけに色っぽくて目がくぎ付けになる。形のよい額とキリリと横に伸びた眉があらわになり、見慣れた課長スタイルのはずなのに、ここが職場ではないというだけでそわそわとした気持ちにさせられた。
「いえ……お礼もお詫びも気にしないでください。私、これから人と会う約束もありますし」
十分待ったら慎士のマンションへ行こうと思っていたのだ。時間を確かめようと、テーブルに出しっぱなしにしてあったスマホに触れる。通知が目に飛び込んでいた。彼からのメッセージだ。
反射的に画面をタップして開いた。
瞬間息をのんだ。
【別れよう】
ヒュッと喉が音を立てた。頭からサーっと血の気が引いていく。
いったいどうして……。
「何かあったのか?」
隣から心配そうな声がする。返事をすべきだと思うのに、声が出せない。スマホを見つめたまま微動だにしない私を不審に思ったのだろう。課長の視線が私の手元に落ちるのを感じた。
課長が何か言おうとする気配を感じ、私は勢いよく立ち上がった。
「私……失礼しますっ」
椅子の背もたれに置いてあるバッグをひっつかみ、スマホの音声通話をタップして小走りで店の外へ出た。
「あの……かばってくださってありがとうございました」
「これを」と差し出したハンカチを課長はいつまでも受け取ろうとしない。その間にもポタポタと水滴が前髪から落ちてくる。
「そのままにしていたら、風邪を引いてしまいます」
前髪を拭こうと手を伸ばしたら、手首を掴まれた。手のひらの熱さに心臓がドキンと大きな音を立てる。
「風邪を引いたら実花子が看病してくれる?」
「なっ……」
小首をかしげて甘やかに微笑まれ、心拍数が駆け上がる。
「恋人のふりはもう終わったんですよね?」
「残念」
ふっと息を吐くように笑いながら、課長は私の手首を放す。そして自分のハンカチを出すと、私の左肩をポンポンと拭いた。
「かばいきれなくてすみませんでした。せっかくいつにも増してかわいい格好をしていたのに」
かっ、かわいい⁉
急に敬語に戻ったことよりも、課長の口から『かわいい』なんて単語が出てきた方に驚く。
「い、いえっ! あれは私が余計な口出しをしたせいなのでっ! 各務課長は黙って座っていてとおっしゃっていたのに……」
無防備なまま一撃を食らったせいで、動揺を隠しきれない。顔が熱い。
「いや。彼女が君に対してあんな凶行に出るとは思いませんでした。詰めが甘かった俺が悪い。本当に申し訳ありませんでした」
思いきり頭を下げられ、私はさらに慌てふためいた。
今思えば、課長は冷たく当たることで園田さんを諦めさせようとしていたのだ。それを私が邪魔した形になった。
『かばいきれなかった』とはいっても、私は肩口にほんの少し水がかかった程度。それも彼が拭いてくれるまで気づかなかったレベルだ。
目の前にあるしっとりと濡れた前頭部が、しゅんと耳を垂らしてうなだれる黒い大型犬に見えてくる。私はハンカチを持った手を課長の頭に延ばした。
「私なら全然平気です。かばってくださってありがとうございました」
課長が顔を上げる。
「今回のお礼とお詫びをしたい。この後の予定は?」
課長が湿った前髪を鬱陶しそうにかき上げた。その仕草がやけに色っぽくて目がくぎ付けになる。形のよい額とキリリと横に伸びた眉があらわになり、見慣れた課長スタイルのはずなのに、ここが職場ではないというだけでそわそわとした気持ちにさせられた。
「いえ……お礼もお詫びも気にしないでください。私、これから人と会う約束もありますし」
十分待ったら慎士のマンションへ行こうと思っていたのだ。時間を確かめようと、テーブルに出しっぱなしにしてあったスマホに触れる。通知が目に飛び込んでいた。彼からのメッセージだ。
反射的に画面をタップして開いた。
瞬間息をのんだ。
【別れよう】
ヒュッと喉が音を立てた。頭からサーっと血の気が引いていく。
いったいどうして……。
「何かあったのか?」
隣から心配そうな声がする。返事をすべきだと思うのに、声が出せない。スマホを見つめたまま微動だにしない私を不審に思ったのだろう。課長の視線が私の手元に落ちるのを感じた。
課長が何か言おうとする気配を感じ、私は勢いよく立ち上がった。
「私……失礼しますっ」
椅子の背もたれに置いてあるバッグをひっつかみ、スマホの音声通話をタップして小走りで店の外へ出た。
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