各務課長が「君の時間を十分ください」と言った結果

汐埼ゆたか

文字の大きさ
5 / 22
たった十分、されど十分

たった十分、されど十分⑤

 私は急いでスカートのポケットからハンカチを取り出した。課長の前髪から明らかに水がしたたり落ちている。よく見たらジャケットの肩や腕も濡れていた。

「あの……かばってくださってありがとうございました」

「これを」と差し出したハンカチを課長はいつまでも受け取ろうとしない。その間にもポタポタと水滴が前髪から落ちてくる。

「そのままにしていたら、風邪を引いてしまいます」

 前髪を拭こうと手を伸ばしたら、手首を掴まれた。手のひらの熱さに心臓がドキンと大きな音を立てる。

「風邪を引いたら実花子が看病してくれる?」
「なっ……」

 小首をかしげて甘やかに微笑まれ、心拍数が駆け上がる。

「恋人のふりはもう終わったんですよね?」
「残念」

 ふっと息を吐くように笑いながら、課長は私の手首を放す。そして自分のハンカチを出すと、私の左肩をポンポンと拭いた。

「かばいきれなくてすみませんでした。せっかくいつにも増してかわいい格好をしていたのに」

 かっ、かわいい⁉ 

 急に敬語に戻ったことよりも、課長の口から『かわいい』なんて単語が出てきた方に驚く。

「い、いえっ! あれは私が余計な口出しをしたせいなのでっ! 各務課長は黙って座っていてとおっしゃっていたのに……」

 無防備なまま一撃を食らったせいで、動揺を隠しきれない。顔が熱い。

「いや。彼女が君に対してあんな凶行に出るとは思いませんでした。詰めが甘かった俺が悪い。本当に申し訳ありませんでした」

 思いきり頭を下げられ、私はさらに慌てふためいた。

 今思えば、課長は冷たく当たることで園田さんを諦めさせようとしていたのだ。それを私が邪魔した形になった。
『かばいきれなかった』とはいっても、私は肩口にほんの少し水がかかった程度。それも彼が拭いてくれるまで気づかなかったレベルだ。

 目の前にあるしっとりと濡れた前頭部が、しゅんと耳を垂らしてうなだれる黒い大型犬に見えてくる。私はハンカチを持った手を課長の頭に延ばした。

「私なら全然平気です。かばってくださってありがとうございました」

 課長が顔を上げる。

「今回のお礼とお詫びをしたい。この後の予定は?」

 課長が湿った前髪を鬱陶しそうにかき上げた。その仕草がやけに色っぽくて目がくぎ付けになる。形のよい額とキリリと横に伸びた眉があらわになり、見慣れた課長スタイルのはずなのに、ここが職場ではないというだけでそわそわとした気持ちにさせられた。

「いえ……お礼もお詫びも気にしないでください。私、これから人と会う約束もありますし」

 十分待ったら慎士のマンションへ行こうと思っていたのだ。時間を確かめようと、テーブルに出しっぱなしにしてあったスマホに触れる。通知が目に飛び込んでいた。彼からのメッセージだ。
 反射的に画面をタップして開いた。

 瞬間息をのんだ。

【別れよう】

 ヒュッと喉が音を立てた。頭からサーっと血の気が引いていく。

 いったいどうして……。 

「何かあったのか?」

 隣から心配そうな声がする。返事をすべきだと思うのに、声が出せない。スマホを見つめたまま微動だにしない私を不審に思ったのだろう。課長の視線が私の手元に落ちるのを感じた。
 課長が何か言おうとする気配を感じ、私は勢いよく立ち上がった。

「私……失礼しますっ」

 椅子の背もたれに置いてあるバッグをひっつかみ、スマホの音声通話をタップして小走りで店の外へ出た。
感想 0

あなたにおすすめの小説

社内恋愛の絶対条件!"溺愛は退勤時間が過ぎてから"

桜井 響華
恋愛
派遣受付嬢をしている胡桃沢 和奏は、副社長専属秘書である相良 大貴に一目惚れをして勢い余って告白してしまうが、冷たくあしらわれる。諦めモードで日々過ごしていたが、チャンス到来───!?

腹黒外科医に唆された件~恋人(仮)のはずが迫られています~

有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
恋愛
両親を亡くし、二人だけの姉妹になった一ノ瀬栞と琴美。 ある日、栞は轢き逃げ事故に遭い、姉の琴美が務める病院に入院することになる。 そこで初めて知る、琴美の婚約者の存在。 彼らの逢引きを確保するために利用される栞と外科医の岡。 「二人で自由にならないか?」を囁かれて……。

そして、恋の種が花開く。

松本ユミ
恋愛
高校を卒業して七年、代わり映えのない日々を送っていた赤木さくらの元に同窓会のハガキが届いた。迷った末に同窓会に出席することにしたさくらの前に現れたのは……。

ワケあり上司とヒミツの共有

咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。 でも、社内で有名な津田部長。 ハンサム&クールな出で立ちが、 女子社員のハートを鷲掴みにしている。 接点なんて、何もない。 社内の廊下で、2、3度すれ違った位。 だから、 私が津田部長のヒミツを知ったのは、 偶然。 社内の誰も気が付いていないヒミツを 私は知ってしまった。 「どどど、どうしよう……!!」 私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?

君がたとえあいつの秘書でも離さない

花里 美佐
恋愛
クリスマスイブのホテルで偶然出会い、趣味が合ったことから強く惹かれあった古川遥(27)と堂本匠(31)。 のちに再会すると、実はライバル会社の御曹司と秘書という関係だった。 逆風を覚悟の上、惹かれ合うふたりは隠れて交際を開始する。 それは戻れない茨の道に踏み出したも同然だった。 遥に想いを寄せていた彼女の上司は、仕事も巻き込み匠を追い詰めていく。

冷たい外科医の心を溶かしたのは

みずほ
恋愛
冷たい外科医と天然万年脳内お花畑ちゃんの、年齢差ラブコメです。 《あらすじ》 都心の二次救急病院で外科医師として働く永崎彰人。夜間当直中、急アルとして診た患者が突然自分の妹だと名乗り、まさかの波乱しかない同居生活がスタート。悠々自適な30代独身ライフに割り込んできた、自称妹に振り回される日々。 アホ女相手に恋愛なんて絶対したくない冷たい外科医vsネジが2、3本吹っ飛んだ自己肯定感の塊、タフなポジティブガール。 ラブよりもコメディ寄りかもしれません。ずっとドタバタしてます。 元々ベリカに掲載していました。 昔書いた作品でツッコミどころ満載のお話ですが、サクッと読めるので何かの片手間にお読み頂ければ幸いです。

手を伸ばした先にいるのは誰ですか~愛しくて切なくて…憎らしいほど愛してる~【完結】

まぁ
恋愛
ワイン、ホテルの企画業務など大人の仕事、そして大人に切り離せない恋愛と… 「Ninagawa Queen's Hotel」 若きホテル王 蜷川朱鷺  妹     蜷川美鳥 人気美容家 佐井友理奈 「オークワイナリー」 国内ワイナリー最大手創業者一族 柏木龍之介 血縁関係のない兄妹と、その周辺の何角関係…? 華やかな人々が繰り広げる、フィクションです。

「職場では隙のない完璧な先輩が、家ではゆるニットで甘えてくる。それでも彼女は、まだ俺の恋人じゃない」

まさき
恋愛
会社では完璧で、誰も近づけない先輩。 そんな彼女と、俺は同じ部屋で暮らしている。 「…おかえり」 ゆるニット姿の彼女は、家でだけ甘い声を出す。 近い。甘い。それでも―― 「ちゃんと付き合ってから」 彼女は知っている。自分が好きになりすぎることを。 嫌われるのが怖くて、迷惑になるのが怖くて。 だから一歩手前で、いつも笑って止まる。 最初から好きなくせに、言えない彼女と。 気づいているのに、待っている俺の話。