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第三話【とろりあったか玉子雑炊】冷えた心にぬくもりを
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梅雨入りから少し経った六月半ば。
丸一日降り続いた雨のせいか、日没前だというのに辺りは薄暗く、風が冷たい。
ほどほどに混んだ電車から降り改札をくぐった怜は、いつものように駅舎を南側に出た。
重たい雨雲で埋め尽くされた空からは、ひっきりなしに雨粒が落ちてきて、みっちりと濡れた道路のところどころにある水溜りを、水しぶきを車が跳ね上げながら通っていく。
朝から続く雨足は当分弱まることは無さそうだ。
怜は持っていた傘を差すと、雨で足元が濡れることも気にせずに雨の中へ足を踏み出した。
藤波怜は、ここから三駅先の私大で生物化学を研究し教鞭を振るっている。いわゆるバイオテクノロジーと呼ばれる分野が彼の研究の畑で、三十一歳という若さで准教授という肩書も持つそんな彼は、その分野では名を知られた研究者でもあり、今日は学会へ出席した帰りだった。
長身の彼が傘を差すと、他人よりも傘が一段高くなる。そんな彼はすれ違う女性たちが振り向いてしまうほどに、整った容姿を彼は持っていた。
スラリとした体躯、長い脚、切れ長の瞳は知的で涼しげだ。駅から吐き出される他のサラリーマンと比べても、仕事の疲れすら魅力に変えて余りあるほどの大人の色香まで漂っている。
そんな怜は、ただ歩いているだけなのに注目を集めてしまうほどの容姿をしているのに、本人は全く持ってそれに気付いていない。今の彼の意識は完全に他にあった。
(雨も降っているし、家にあるもので済ませてしまおうか…)
颯爽と歩きながら怜が考えているのは、自宅の冷蔵庫の中身。
(ご飯は冷凍がまだあったな…使いかけのネギと、あと……)
涼しげな瞳を真っ直ぐ道の先に向けながら、頭の中で夕飯の献立を組み立てる。
こうやって今ある食材で献立やレシピを組み立てるのは、普段は研究で緻密で難しい事ばかりを考えている頭を、逆回転させる作業のようで怜はとても好きなのだ。料理が趣味。息抜きと言っても過言ではない。
(ああそうだ。途中でベーカリー小川に寄って、明日の朝食用のパンだけは買っておかないと……)
雨の中の買い物が少し面倒に思えた怜は、視線を斜めに下げ、ふぅっと小さくため息をつく。そんな憂い顔の彼からは、無駄な色香が振り撒かれ、たまたますれ違った子連れの女性が、足を止めぽうっとなってしまうほどだった。
駅前の商店街を抜けると、住宅街に続く道を行かずに途中の公園を通り抜ける。怜の自宅へはこれが最短ルート。公園を抜けて五分もすれば、彼が住む家がある。
この公園は中規模な緑地公園で、大きなため池を遊歩道がぐるりと一周している。その周りには遊具のある広場や噴水、樹木園などがあって、日頃から近くの住人に親しまれているのだ。今時分では紫陽花が色づき始め、公園に来る人の目を楽しませるようになってきた。
駅前の商店街を抜けると、住宅街に続く道を行かずに途中の公園を通り抜ける。怜の自宅へはこれが最短ルート。公園を抜けて五分もすれば、彼が住む家がある。
この公園は中規模な緑地公園で、大きなため池を遊歩道がぐるりと一周している。その周りには遊具のある広場や噴水、樹木園などがあって、日頃から近くの住人に親しまれているのだ。今時分では紫陽花が色づき始め、公園に来る人の目を楽しませるようになってきた。
いつもは日没近くまで賑わっている公園も、今日は静かだ。
今日は丸一日しっかりと降り続く雨のため、日没前の今、すでにひと気はほとんど無い。滑り台もブランコも雨垂れに打たれ、どこか寂しげに見える。
雨に濡れた花弁の横を颯爽と進んで行く怜の耳に、ふと、何か小さな鳴き声が聞こえた気がした。
(ん?今何か聞こえた気が…子猫か?)
耳を澄ましてみる。
すると、やっぱりどこか遠くで何かか細い鳴き声のような音がする。
怜は、そのか細い音を頼りにゆっくりと木と木の間を通り、茂みを掻き分けた。
「っ!!」
紫陽花の木と木の根元に、一人の少女が横たわっていた。
「きみっ、大丈夫ですか!?」
慌てて彼女に駆け寄った怜は、横たわった少女に声を掛ける。
雨に濡れぐったりとしたその少女は、呼びかけには答えず瞳を固く閉じている。肩を少し揺すると「う~ん…」と辛そうな唸り声を出したので、意識がないわけではないことに怜はひとまず安堵した。
少女の背中に手を回しゆっくりと上半身を起こすと、くったりとした体は怜の腕に寄りかかるだけで力がない。透き通るほどに青白い肌は、明らかな熱を持っていた。
「このままではまずいな…」
そう呟いた怜は、何とか彼女の意識を呼び起こそうと軽く頬を叩いて見るが、少し唸っただけで目を開けそうにない。
「おい、きみっ。家はどこですか?名前は?」
揺すりながら問いかける怜に、少女は瞳を閉じたまま小さく口だけを開いた。
「…ま…み、ね…」
それだけ口にした彼女は、がっくりと体の力を落とした。
「……ma minette?」
怜は持っていた傘を閉じ、少女の体を両腕で抱え上げた。
梅雨入りから少し経った六月半ば。
丸一日降り続いた雨のせいか、日没前だというのに辺りは薄暗く、風が冷たい。
ほどほどに混んだ電車から降り改札をくぐった怜は、いつものように駅舎を南側に出た。
重たい雨雲で埋め尽くされた空からは、ひっきりなしに雨粒が落ちてきて、みっちりと濡れた道路のところどころにある水溜りを、水しぶきを車が跳ね上げながら通っていく。
朝から続く雨足は当分弱まることは無さそうだ。
怜は持っていた傘を差すと、雨で足元が濡れることも気にせずに雨の中へ足を踏み出した。
藤波怜は、ここから三駅先の私大で生物化学を研究し教鞭を振るっている。いわゆるバイオテクノロジーと呼ばれる分野が彼の研究の畑で、三十一歳という若さで准教授という肩書も持つそんな彼は、その分野では名を知られた研究者でもあり、今日は学会へ出席した帰りだった。
長身の彼が傘を差すと、他人よりも傘が一段高くなる。そんな彼はすれ違う女性たちが振り向いてしまうほどに、整った容姿を彼は持っていた。
スラリとした体躯、長い脚、切れ長の瞳は知的で涼しげだ。駅から吐き出される他のサラリーマンと比べても、仕事の疲れすら魅力に変えて余りあるほどの大人の色香まで漂っている。
そんな怜は、ただ歩いているだけなのに注目を集めてしまうほどの容姿をしているのに、本人は全く持ってそれに気付いていない。今の彼の意識は完全に他にあった。
(雨も降っているし、家にあるもので済ませてしまおうか…)
颯爽と歩きながら怜が考えているのは、自宅の冷蔵庫の中身。
(ご飯は冷凍がまだあったな…使いかけのネギと、あと……)
涼しげな瞳を真っ直ぐ道の先に向けながら、頭の中で夕飯の献立を組み立てる。
こうやって今ある食材で献立やレシピを組み立てるのは、普段は研究で緻密で難しい事ばかりを考えている頭を、逆回転させる作業のようで怜はとても好きなのだ。料理が趣味。息抜きと言っても過言ではない。
(ああそうだ。途中でベーカリー小川に寄って、明日の朝食用のパンだけは買っておかないと……)
雨の中の買い物が少し面倒に思えた怜は、視線を斜めに下げ、ふぅっと小さくため息をつく。そんな憂い顔の彼からは、無駄な色香が振り撒かれ、たまたますれ違った子連れの女性が、足を止めぽうっとなってしまうほどだった。
駅前の商店街を抜けると、住宅街に続く道を行かずに途中の公園を通り抜ける。怜の自宅へはこれが最短ルート。公園を抜けて五分もすれば、彼が住む家がある。
この公園は中規模な緑地公園で、大きなため池を遊歩道がぐるりと一周している。その周りには遊具のある広場や噴水、樹木園などがあって、日頃から近くの住人に親しまれているのだ。今時分では紫陽花が色づき始め、公園に来る人の目を楽しませるようになってきた。
駅前の商店街を抜けると、住宅街に続く道を行かずに途中の公園を通り抜ける。怜の自宅へはこれが最短ルート。公園を抜けて五分もすれば、彼が住む家がある。
この公園は中規模な緑地公園で、大きなため池を遊歩道がぐるりと一周している。その周りには遊具のある広場や噴水、樹木園などがあって、日頃から近くの住人に親しまれているのだ。今時分では紫陽花が色づき始め、公園に来る人の目を楽しませるようになってきた。
いつもは日没近くまで賑わっている公園も、今日は静かだ。
今日は丸一日しっかりと降り続く雨のため、日没前の今、すでにひと気はほとんど無い。滑り台もブランコも雨垂れに打たれ、どこか寂しげに見える。
雨に濡れた花弁の横を颯爽と進んで行く怜の耳に、ふと、何か小さな鳴き声が聞こえた気がした。
(ん?今何か聞こえた気が…子猫か?)
耳を澄ましてみる。
すると、やっぱりどこか遠くで何かか細い鳴き声のような音がする。
怜は、そのか細い音を頼りにゆっくりと木と木の間を通り、茂みを掻き分けた。
「っ!!」
紫陽花の木と木の根元に、一人の少女が横たわっていた。
「きみっ、大丈夫ですか!?」
慌てて彼女に駆け寄った怜は、横たわった少女に声を掛ける。
雨に濡れぐったりとしたその少女は、呼びかけには答えず瞳を固く閉じている。肩を少し揺すると「う~ん…」と辛そうな唸り声を出したので、意識がないわけではないことに怜はひとまず安堵した。
少女の背中に手を回しゆっくりと上半身を起こすと、くったりとした体は怜の腕に寄りかかるだけで力がない。透き通るほどに青白い肌は、明らかな熱を持っていた。
「このままではまずいな…」
そう呟いた怜は、何とか彼女の意識を呼び起こそうと軽く頬を叩いて見るが、少し唸っただけで目を開けそうにない。
「おい、きみっ。家はどこですか?名前は?」
揺すりながら問いかける怜に、少女は瞳を閉じたまま小さく口だけを開いた。
「…ま…み、ね…」
それだけ口にした彼女は、がっくりと体の力を落とした。
「……ma minette?」
怜は持っていた傘を閉じ、少女の体を両腕で抱え上げた。
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