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第百八十一話 教皇の本音
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エウロパ教団教皇領は、およそ八千平方キロメートル弱ほどの小さな県ほどの面積でしかない小国である。
人口も少なく、大陸各国から信者が巡礼に訪れなければ、おそらく数万程度でしかないだろう。
その小さな面積の半分近くを占めているのが宗教都市ソルディヴィディアンであり、そのもっとも奥に位置しているのが大聖堂にして要塞オクシタニアである。
その要塞に主力を残したまま、わずか数十名ほどの騎士団を引き連れ、教皇は待っていた
ここがソルディヴィディアンの領内とはいえ、あまりに手薄な兵の数である。
――ゆえにこそ、バルドとシュエは、教皇がここで殺されることがないことを知っている――つまり過去の伝説を継承していると予想した。
「思ったより教皇が理性的な方で安心しました」
笑みを浮かべて頷くシュエほどにバルドは教皇を信用していない。
「そうだといいがな」
はたして教皇がどこまで真実を知っているのか、知ったうえでどんな選択をするのか。その答えはすぐ目の前にある。
「トリストヴィー国王陛下でいらっしゃいますか?」
「いかにも。猊下にお取次ぎいただきたい。先日話した通り、カディロス王国王女、シュエ殿下も同席するがよいな?」
「はい。猊下よりご了承をいただいております」
おそらくは教団の聖騎士のなかでも相当に高位であろう老騎士は、バルドを前にしてもいささかの怯みも憎悪も表には出さず淡々と応じた。
だが周囲の騎士たちは老騎士ほど虚心坦懐ではいられないらしい。
信仰の敵であるバルドに敵意を隠し切れず、もし確実に殺せるのならばこの場で殺してしまいたいと隙を窺う有様であった。
「では、案内してもらおうか」
威風堂々、敵地でエウロパ教団の聖騎士に囲まれているにもかかわらず全く意に介するそぶりも見せない。
バルドのあまりに堂々とした態度に、聖騎士の一人が吐き捨てるように呟いた。
「…………僭王めっ!」
小さい呟きだが、その声は意外に遠くまで届いた。もちろんバルドの耳にも。
「どうやら信仰の足りない不心得者がいるようだな」
「…………どういう意味でしょうか?」
「教皇でさえが信者と信仰を守るために余と交渉しようと膝を折っているにも関わらず、その教皇の努力を無にしても良いと考えているようだからな」
バルドの言葉を聞いた隊長らしき男が慌てて膝をついて頭を下げた。
「不心得者については責任を持って処罰いたします。なにとぞ陛下にはお慈悲のほどお願い申し上げる」
「忘れるな。戦を止める理由は余にはなく、教団にこそあるのだということを」
「御意」
不満そうな騎士に思い切り膝を入れて、男はニ、三の騎士を奥の待機所へと連れて行った。
経験の豊かな彼には、自分たちがバルドを止めるだけの武力がないことも、いざ開戦となれば連合軍を相手に勝利することは不可能であることがわかっていた。
もちろん殉教する覚悟はあるが、教団が破滅することは決して望んではいない。平和に助かるのならそれにこしたことはないのだ。
だがそれを理解できる騎士はどうやら少なかったらしい。
男は少なからぬ同僚から侮蔑の視線を向けられていた。
「――――何をしておる?」
「これは……大司教猊下」
「トリストヴィー国王陛下にご無礼があったのではあるまいな?」
教団の幹部であるマルベーン大司教はいらだたしげに騎士たちに眉を顰める。
これにはさすがの聖騎士も恐縮の体で頭を下げた。
彼らにとっては雲の上の存在である大司教が、バルドに敬意を表している以上、下がそれに習わなくてはならないのは組織の当然である。
だからといって反感までは消えるわけではない。かろうじて不満を胸に押し隠して、騎士たちはバルドに対する敵対心を押さえつけた。
「ご迷惑をおかけしたのなら申し訳ない。こちらの本意でないことはわかっていただきたい」
「いや、大したことではない。――――見上げた信仰心だと思っただけだ」
騎士たちはバルドに揶揄されたと知って唇を嚙み締めたが、表立って反抗しようとは思わなかった。
大司教のいる前でそれを行うのは教団の騎士のあり方に反するからであった。
「教皇猊下がお待ちです。どうぞこちらに」
「大司教自らの案内、痛み入る」
悠然と大司教の後ろについていくバルドを、渾身の憎悪をこめて騎士たちが見送ったのは言うまでもない。
居心地悪そうにシュエは首をすくめた。
騎士たちの憎悪も、バルドが身にまとった酷薄な空気も、少なからず自分が関わった歴史の延長にあることが苦しい。特にバルドが鋭利な刃物のように穏やかさをなくしてしまったことがことのほか胸に響いた。
(私が彼をそうさせてしまった)
おそらくバルドは、左内と雅晴のいないこの世界を一人で生きていく覚悟を決めたのだ。
もちろん、バルドには信頼する部下がおり、愛する妻たちがいる。
だが人生の大半を共有してきた文字通りの半身は、左内と柾晴以外にはいない。
その孤独の深さを、シュエには理解することができないが、だからこそバルドの心の痛みがわからずシュエは胸を痛めることしかできないのだった。
「こちらで猊下がお待ちです」
大司教自らの案内で通されたのは、教皇と国王が相まみえる部屋としては質素な十数メートルほどの部屋であった。
エウロパ教団のシンボルであるタペストリーが飾られているほかはほとんど装飾らしい装飾もない。
だがこの施設が本来、ソルディヴィディアンの防御施設であり、軍事施設であることを考えればそれはむしろ当然なのかもしれなかった。
「お初にお目にかかります。猊下」
「――――ようこそ我がソルディヴィディアンへ」
まずは年下であるバルドが頭を下げ、教皇は鷹揚にこれを受ける。あえて連合軍を教団が招いたわけではないだけに、皮肉に聞こえてしまうのは無理もない。
教皇の表情は穏やかで何らの弱みも感じさせない威厳に満ちていた。
教団の総指揮官として、教皇が決して無能でないことを知っているバルドとしては正直なところあまりうれしくない反応であった。
ソルディヴィディアンを陥落させることは、犠牲は多くなるだろうがそう難しいことではないのだ。
問題は聖遺物と教皇だけが持つであろう伝承の情報だ。
自らの地位に恋々としているような教皇であれば交渉もしやすいが、目の前の教皇は明らかに世俗の欲に染まったタイプではなかった。
――――これはバルドには知りようもないことだが、かつて教皇は誰よりも権勢欲にとりつかれた男であった。
仲間を利用し、ライバルを蹴落とし、陰謀に陰謀を重ねて現在の教皇の地位を勝ち取った。
それでもなお、教団が抱えていた闇の真実を前にして何も変わらないでいられるほど、男の信仰心は見せかけではなかったというだけの話であった。
「立ち話でもあるまい。何か飲み物が必要かね?」
「お気になさらず」
「ふむ、よいワインを用意したのだがな」
自ら豪奢な造りのアームチェアに腰掛ける教皇を見て、バルドも悠然とソファに腰を下ろす。シュエは居心地悪そうにしながらバルドの横に腰を下ろした。
「さて、用件を伺おうか。今さらエウロパの信仰に目覚めたというわけでもあるまい」
「ある意味ではその通りですがね」
エウロパ教団の指導する教義などにはいささかの興味もないが、なんのためにその教義が造り出されたのかが大事なのだ。
「洗礼を受けたいというのなら授けてやってもよいが?」
「遠慮しておきましょう。信じてもいない神にすがるのは私の信条に反しますので」
「神を信じないのは勝手だが、それが普通であるとは思わぬほうがいい」
教皇の言葉に真摯な気配を感じたバルドは頷く。
人には心の支えが必要であり、その要素を宗教が担っていることをバルドも否定しているわけではないのだ。
もっともそれがバルドの信念と国益の許容範囲に収まればの話だが。
二人の遠まわしな腹の探り合いに耐えられなくなったのか、シュエがたまらず口をはさんだ。
「――――私はカディロス王国の王女シュエと申します。教皇猊下に発言をお許しいただきたく」
「ふむ、カディロス王国は鎖国をもって国是としていたはずだが、いったい何の故あって教団に敵対するのかな?」
「私は、我が国は教団に敵対しているわけではございません!」
まずいな、とバルドは思う。
シュエもカディロス王国の王女として幼いころから教育を受けてきたはずだが、今は蘇った前世の記憶に完全に振り回されてしまっている。
「ではなぜトリストヴィー国王と行動を共にする? 敵の敵は味方というが、敵の味方は敵と呼ぶべきであろう」
「我が国は連合に対し協力体制をとっているわけではありません!」
「ならば何をもって中立の証とする?」
「必要とあらば誓約を――――」
「そこまでにしていただこう」
バルドはシュエと教皇の会話に割って入った。
「カディロス王国はいざいしらず、ここにいるシュエ王女はまぎれもなく我が協力者である。中立を期待されても困るな」
「バルド陛下! それはっ!」
「我々の目的は同じなのに、教団の利益と対立した時、君に中立の立場をとられても困るのだよ」
そう言われてシュエはようやく自分が教皇の手のひらのうえで踊らされていたことに気づいたらしい。
目に見えて大人しくなったシュエをよそに、バルドは教皇に語りかけた。
「我々の要求はただひとつ、教団の持つ聖遺物全ての譲渡だ。それさえ飲んでもらえるなら教団の存続及び布教の自由は我が連合の領域全てで保障しよう。もちろん、法を犯すことのない限りにおいて、だが」
「断れば?」
「このソルディヴィディアンを攻め落とし、教団を殲滅して瓦礫のなかから探すとするさ」
「よいのか? 封印の宝珠を失うことになるぞ?」
「ちっ、やはり知っていたか」
苦虫をかみつぶしたようにバルドは顔を顰めた。シュエは顔いろを輝かせているが、これがそんな簡単な問題ではないのだ。
「そ、それでは! 教皇猊下はやはり古の伝承をご存じなのですね!」
シュエは推論があたっていたことを素直に喜んでいた。
次元境界のほころびを修復しなくてはこの世界そのものが滅びる可能性がある。その危険性を理解できるならば教皇が協力しないはずがない。
そんなシュエの理屈としては全く正しい期待を、教皇が応えるかどうかは半々であるとバルドは考えていた。
そもそも本当に教皇が理解しているのならば、もっと早く教団の方から交渉があってしかるべきであった。
だが目の前のこの教皇(おとこ)はそうした理解からはほど遠いところにいる。それをバルドは敏感に感じ取っていた。
「カディロス王国にも伝承が残っていたか」
「はいっ! 我が国は古の大魔術師ゾラス様の弟子メイラの末裔でございます。おそらく教団の創始者は――――」
「ラターシュの末裔であるというのだろう? 全く、余計なことをしてくれた」
深くため息を吐く教皇の反応に、シュエは思っていたものと違った困惑を露わにし、バルドは予想が当たったことに眉を顰めた。
「教皇だけが受け継がなくてはならない教団の闇の歴史を知ってしまった――知りたくなかった。知るべきではなかった。私がどれほど運命を呪ったか、貴様らには理解できまい」
「教皇らしくもない愚痴だな」
「まあ許せ、この地位について以来初めて愚痴をこぼす。なにせ誰にも語ることを許されなかった愚痴なのでな」
そう吐き捨てると教皇は行儀悪く年代物の赤ワインを一息に飲み干した。
「そちらも好きに飲むがいい。とても素面では話す気になれん」
「そっちが地か」
「貧乏学者の三男に生まれ、四歳で捨てるように教会へ見習いに出された。出世するためなら手段は選ばなかったよ。それが嘘偽らざる私という男だ」
神聖で敬うべき男の告白にシュエは目を白黒させた。こんなざっくばらんな話をされるとは想像もしていなかったのだ。
「――――上司を売り、同僚を蹴落とし、至尊の座を占めるためには金も女も使った。貧しく惨めな生活に戻るつもりは毛頭なかった。そのために神の教えに背くことも躊躇いはなかったが……」
そう、自分は模範的な信徒ではなかった。それどころか背教者に近い男であった。もしエウロパの神の前で審判を受ければ地獄へ堕ちることは確実であった。
「それでもなお、私は神を信じていたよ。神の教えに従っているだけでは出世できないと思っていただけで。死ねば罪は神によって断罪されるのだと疑わなかった」
世界は理不尽で庶民は貧しく、出世は血筋とコネが物をいう。精いっぱい生きた正直者が、明日には餓死するのが現実である。
他力に頼っていては浮かび上がることはできない。目的のために手段を選ぶ余裕など最初からなかった。
だからといって、神がいなくてよいわけではなかった。
神がいるからこそ、自分自身に言い訳をしながら悪徳の道を歩むことができた。神の存在がなければ、悪徳は悪ですらなくなり、理不尽は理不尽でなくなるのだ。そんな世界で生きるなどまっぴらごめんであった。
「――――エウロパ教が次元境界の維持と封印を目的として作られただと?」
そう呟く教皇の目は涙に濡れていた。
「そんなことがあってはならない。あってはならないんだ!」
人口も少なく、大陸各国から信者が巡礼に訪れなければ、おそらく数万程度でしかないだろう。
その小さな面積の半分近くを占めているのが宗教都市ソルディヴィディアンであり、そのもっとも奥に位置しているのが大聖堂にして要塞オクシタニアである。
その要塞に主力を残したまま、わずか数十名ほどの騎士団を引き連れ、教皇は待っていた
ここがソルディヴィディアンの領内とはいえ、あまりに手薄な兵の数である。
――ゆえにこそ、バルドとシュエは、教皇がここで殺されることがないことを知っている――つまり過去の伝説を継承していると予想した。
「思ったより教皇が理性的な方で安心しました」
笑みを浮かべて頷くシュエほどにバルドは教皇を信用していない。
「そうだといいがな」
はたして教皇がどこまで真実を知っているのか、知ったうえでどんな選択をするのか。その答えはすぐ目の前にある。
「トリストヴィー国王陛下でいらっしゃいますか?」
「いかにも。猊下にお取次ぎいただきたい。先日話した通り、カディロス王国王女、シュエ殿下も同席するがよいな?」
「はい。猊下よりご了承をいただいております」
おそらくは教団の聖騎士のなかでも相当に高位であろう老騎士は、バルドを前にしてもいささかの怯みも憎悪も表には出さず淡々と応じた。
だが周囲の騎士たちは老騎士ほど虚心坦懐ではいられないらしい。
信仰の敵であるバルドに敵意を隠し切れず、もし確実に殺せるのならばこの場で殺してしまいたいと隙を窺う有様であった。
「では、案内してもらおうか」
威風堂々、敵地でエウロパ教団の聖騎士に囲まれているにもかかわらず全く意に介するそぶりも見せない。
バルドのあまりに堂々とした態度に、聖騎士の一人が吐き捨てるように呟いた。
「…………僭王めっ!」
小さい呟きだが、その声は意外に遠くまで届いた。もちろんバルドの耳にも。
「どうやら信仰の足りない不心得者がいるようだな」
「…………どういう意味でしょうか?」
「教皇でさえが信者と信仰を守るために余と交渉しようと膝を折っているにも関わらず、その教皇の努力を無にしても良いと考えているようだからな」
バルドの言葉を聞いた隊長らしき男が慌てて膝をついて頭を下げた。
「不心得者については責任を持って処罰いたします。なにとぞ陛下にはお慈悲のほどお願い申し上げる」
「忘れるな。戦を止める理由は余にはなく、教団にこそあるのだということを」
「御意」
不満そうな騎士に思い切り膝を入れて、男はニ、三の騎士を奥の待機所へと連れて行った。
経験の豊かな彼には、自分たちがバルドを止めるだけの武力がないことも、いざ開戦となれば連合軍を相手に勝利することは不可能であることがわかっていた。
もちろん殉教する覚悟はあるが、教団が破滅することは決して望んではいない。平和に助かるのならそれにこしたことはないのだ。
だがそれを理解できる騎士はどうやら少なかったらしい。
男は少なからぬ同僚から侮蔑の視線を向けられていた。
「――――何をしておる?」
「これは……大司教猊下」
「トリストヴィー国王陛下にご無礼があったのではあるまいな?」
教団の幹部であるマルベーン大司教はいらだたしげに騎士たちに眉を顰める。
これにはさすがの聖騎士も恐縮の体で頭を下げた。
彼らにとっては雲の上の存在である大司教が、バルドに敬意を表している以上、下がそれに習わなくてはならないのは組織の当然である。
だからといって反感までは消えるわけではない。かろうじて不満を胸に押し隠して、騎士たちはバルドに対する敵対心を押さえつけた。
「ご迷惑をおかけしたのなら申し訳ない。こちらの本意でないことはわかっていただきたい」
「いや、大したことではない。――――見上げた信仰心だと思っただけだ」
騎士たちはバルドに揶揄されたと知って唇を嚙み締めたが、表立って反抗しようとは思わなかった。
大司教のいる前でそれを行うのは教団の騎士のあり方に反するからであった。
「教皇猊下がお待ちです。どうぞこちらに」
「大司教自らの案内、痛み入る」
悠然と大司教の後ろについていくバルドを、渾身の憎悪をこめて騎士たちが見送ったのは言うまでもない。
居心地悪そうにシュエは首をすくめた。
騎士たちの憎悪も、バルドが身にまとった酷薄な空気も、少なからず自分が関わった歴史の延長にあることが苦しい。特にバルドが鋭利な刃物のように穏やかさをなくしてしまったことがことのほか胸に響いた。
(私が彼をそうさせてしまった)
おそらくバルドは、左内と雅晴のいないこの世界を一人で生きていく覚悟を決めたのだ。
もちろん、バルドには信頼する部下がおり、愛する妻たちがいる。
だが人生の大半を共有してきた文字通りの半身は、左内と柾晴以外にはいない。
その孤独の深さを、シュエには理解することができないが、だからこそバルドの心の痛みがわからずシュエは胸を痛めることしかできないのだった。
「こちらで猊下がお待ちです」
大司教自らの案内で通されたのは、教皇と国王が相まみえる部屋としては質素な十数メートルほどの部屋であった。
エウロパ教団のシンボルであるタペストリーが飾られているほかはほとんど装飾らしい装飾もない。
だがこの施設が本来、ソルディヴィディアンの防御施設であり、軍事施設であることを考えればそれはむしろ当然なのかもしれなかった。
「お初にお目にかかります。猊下」
「――――ようこそ我がソルディヴィディアンへ」
まずは年下であるバルドが頭を下げ、教皇は鷹揚にこれを受ける。あえて連合軍を教団が招いたわけではないだけに、皮肉に聞こえてしまうのは無理もない。
教皇の表情は穏やかで何らの弱みも感じさせない威厳に満ちていた。
教団の総指揮官として、教皇が決して無能でないことを知っているバルドとしては正直なところあまりうれしくない反応であった。
ソルディヴィディアンを陥落させることは、犠牲は多くなるだろうがそう難しいことではないのだ。
問題は聖遺物と教皇だけが持つであろう伝承の情報だ。
自らの地位に恋々としているような教皇であれば交渉もしやすいが、目の前の教皇は明らかに世俗の欲に染まったタイプではなかった。
――――これはバルドには知りようもないことだが、かつて教皇は誰よりも権勢欲にとりつかれた男であった。
仲間を利用し、ライバルを蹴落とし、陰謀に陰謀を重ねて現在の教皇の地位を勝ち取った。
それでもなお、教団が抱えていた闇の真実を前にして何も変わらないでいられるほど、男の信仰心は見せかけではなかったというだけの話であった。
「立ち話でもあるまい。何か飲み物が必要かね?」
「お気になさらず」
「ふむ、よいワインを用意したのだがな」
自ら豪奢な造りのアームチェアに腰掛ける教皇を見て、バルドも悠然とソファに腰を下ろす。シュエは居心地悪そうにしながらバルドの横に腰を下ろした。
「さて、用件を伺おうか。今さらエウロパの信仰に目覚めたというわけでもあるまい」
「ある意味ではその通りですがね」
エウロパ教団の指導する教義などにはいささかの興味もないが、なんのためにその教義が造り出されたのかが大事なのだ。
「洗礼を受けたいというのなら授けてやってもよいが?」
「遠慮しておきましょう。信じてもいない神にすがるのは私の信条に反しますので」
「神を信じないのは勝手だが、それが普通であるとは思わぬほうがいい」
教皇の言葉に真摯な気配を感じたバルドは頷く。
人には心の支えが必要であり、その要素を宗教が担っていることをバルドも否定しているわけではないのだ。
もっともそれがバルドの信念と国益の許容範囲に収まればの話だが。
二人の遠まわしな腹の探り合いに耐えられなくなったのか、シュエがたまらず口をはさんだ。
「――――私はカディロス王国の王女シュエと申します。教皇猊下に発言をお許しいただきたく」
「ふむ、カディロス王国は鎖国をもって国是としていたはずだが、いったい何の故あって教団に敵対するのかな?」
「私は、我が国は教団に敵対しているわけではございません!」
まずいな、とバルドは思う。
シュエもカディロス王国の王女として幼いころから教育を受けてきたはずだが、今は蘇った前世の記憶に完全に振り回されてしまっている。
「ではなぜトリストヴィー国王と行動を共にする? 敵の敵は味方というが、敵の味方は敵と呼ぶべきであろう」
「我が国は連合に対し協力体制をとっているわけではありません!」
「ならば何をもって中立の証とする?」
「必要とあらば誓約を――――」
「そこまでにしていただこう」
バルドはシュエと教皇の会話に割って入った。
「カディロス王国はいざいしらず、ここにいるシュエ王女はまぎれもなく我が協力者である。中立を期待されても困るな」
「バルド陛下! それはっ!」
「我々の目的は同じなのに、教団の利益と対立した時、君に中立の立場をとられても困るのだよ」
そう言われてシュエはようやく自分が教皇の手のひらのうえで踊らされていたことに気づいたらしい。
目に見えて大人しくなったシュエをよそに、バルドは教皇に語りかけた。
「我々の要求はただひとつ、教団の持つ聖遺物全ての譲渡だ。それさえ飲んでもらえるなら教団の存続及び布教の自由は我が連合の領域全てで保障しよう。もちろん、法を犯すことのない限りにおいて、だが」
「断れば?」
「このソルディヴィディアンを攻め落とし、教団を殲滅して瓦礫のなかから探すとするさ」
「よいのか? 封印の宝珠を失うことになるぞ?」
「ちっ、やはり知っていたか」
苦虫をかみつぶしたようにバルドは顔を顰めた。シュエは顔いろを輝かせているが、これがそんな簡単な問題ではないのだ。
「そ、それでは! 教皇猊下はやはり古の伝承をご存じなのですね!」
シュエは推論があたっていたことを素直に喜んでいた。
次元境界のほころびを修復しなくてはこの世界そのものが滅びる可能性がある。その危険性を理解できるならば教皇が協力しないはずがない。
そんなシュエの理屈としては全く正しい期待を、教皇が応えるかどうかは半々であるとバルドは考えていた。
そもそも本当に教皇が理解しているのならば、もっと早く教団の方から交渉があってしかるべきであった。
だが目の前のこの教皇(おとこ)はそうした理解からはほど遠いところにいる。それをバルドは敏感に感じ取っていた。
「カディロス王国にも伝承が残っていたか」
「はいっ! 我が国は古の大魔術師ゾラス様の弟子メイラの末裔でございます。おそらく教団の創始者は――――」
「ラターシュの末裔であるというのだろう? 全く、余計なことをしてくれた」
深くため息を吐く教皇の反応に、シュエは思っていたものと違った困惑を露わにし、バルドは予想が当たったことに眉を顰めた。
「教皇だけが受け継がなくてはならない教団の闇の歴史を知ってしまった――知りたくなかった。知るべきではなかった。私がどれほど運命を呪ったか、貴様らには理解できまい」
「教皇らしくもない愚痴だな」
「まあ許せ、この地位について以来初めて愚痴をこぼす。なにせ誰にも語ることを許されなかった愚痴なのでな」
そう吐き捨てると教皇は行儀悪く年代物の赤ワインを一息に飲み干した。
「そちらも好きに飲むがいい。とても素面では話す気になれん」
「そっちが地か」
「貧乏学者の三男に生まれ、四歳で捨てるように教会へ見習いに出された。出世するためなら手段は選ばなかったよ。それが嘘偽らざる私という男だ」
神聖で敬うべき男の告白にシュエは目を白黒させた。こんなざっくばらんな話をされるとは想像もしていなかったのだ。
「――――上司を売り、同僚を蹴落とし、至尊の座を占めるためには金も女も使った。貧しく惨めな生活に戻るつもりは毛頭なかった。そのために神の教えに背くことも躊躇いはなかったが……」
そう、自分は模範的な信徒ではなかった。それどころか背教者に近い男であった。もしエウロパの神の前で審判を受ければ地獄へ堕ちることは確実であった。
「それでもなお、私は神を信じていたよ。神の教えに従っているだけでは出世できないと思っていただけで。死ねば罪は神によって断罪されるのだと疑わなかった」
世界は理不尽で庶民は貧しく、出世は血筋とコネが物をいう。精いっぱい生きた正直者が、明日には餓死するのが現実である。
他力に頼っていては浮かび上がることはできない。目的のために手段を選ぶ余裕など最初からなかった。
だからといって、神がいなくてよいわけではなかった。
神がいるからこそ、自分自身に言い訳をしながら悪徳の道を歩むことができた。神の存在がなければ、悪徳は悪ですらなくなり、理不尽は理不尽でなくなるのだ。そんな世界で生きるなどまっぴらごめんであった。
「――――エウロパ教が次元境界の維持と封印を目的として作られただと?」
そう呟く教皇の目は涙に濡れていた。
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