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第四十四話 仇討ち

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 耳をつんざく轟音が、大善得意の火術であると知っている方丈斎はいささかも心を乱さなかったが、八郎はそうはいかなかった。
 守るべき定俊と、心の奥に楔となって打ち込まれたような女性、おりく。その安否は否が応にも八郎の心を乱さずにはおかなかった。
「――――どうした小僧、こちらを見よ」
 八郎の視線が方丈斎から片時も離れていないことを知りながら、方丈斎は嗤って挑発した。その程度で集中を乱す八郎ではないが、無性に癇に障るのも確かであった。
 どうしてこれほどおりくのことが気になるのか。
 頭領の従妹であるというだけでは、到底説明がつくまい。主筋であるとはいえ八郎にとっては赤の他人の女性である。そのはずなのにおりくを考えるだけで、遠い昔になくしてしまった幼いころの宝物のような郷愁に近い思いがある。
「甘いな。その様でこの方丈斎に敵うと思うてか」
 八郎を嘲笑うように方丈斎は苦無をチンチン、と手のひらに弄ぶようにして打ち鳴らした。安い挑発とはいえ、八郎の目にいらだちと怒りが宿ったのはやむを得ぬところであろう。
「口数が多いな」
「忍びとて語りたいときはあるだろうさ。それがたとえ忍びでない相手だとしても」
 飄々とした態度を崩さず、それでもどこか愉快そうに方丈斎はくつくつと嗤った。
「それにしても――――迂闊だぞ小僧」
 すでに仕込みは終わった。思ったよりも短く簡単であったのは大善の火術による動揺のせいがあるにせよ、やはり八郎の油断というほかなかった。
「忍びのやることに意味のないことなどない」
 ざわりと肌に悪寒が走り、八郎は緊張感を高めた。方丈斎から感じる圧力が一気に増したのを感じる。
 しかし圧力以上に八郎が感じたのは違和感だった。その違和感は、村雨たち伊賀組に仕込まれた毒による違和感に似ていた。
(まさか――気がつかぬ間に毒された?)
 確認のために礫を放つと、狙った通りに礫は方丈斎を襲う。さらにこの礫にはひとつの仕掛けがしてあった。天然の熔岩石には特殊な香りのするものがある。あの毒のように自分の距離感が狂わされているとしても、香りによって修正することができると考えたのだ。
「――よい勘だが、少々遅かったな」
 弾かれれば香りは残っただろう。しかし礫は方丈斎の身体をすり抜けるようにして藪の中へと消えていった。いつの間に術中に嵌ったものか。
「今度はこちらからいくぞ」
 八郎はもはや方丈斎の実像を認識することができない。虚像であることを見破ったところで、実像を見抜くことができなければ勝敗は自ずから明らかだ。
 方丈斎の秘術は八郎が想像したような毒ではない。実は催眠術の一種である。音や光、言葉、手ぶりや仕草などによって相手の認知に誤作動を促す。そうした意味ではおりくが使う隠形の術に近いであろう。
 だが、八郎もまた天才の名に恥じぬ角兵衛の後継者たることを方丈斎はすぐに知ることになる。
「――――そこだ!」
「うおっ!」
 完全に術中に陥っていた八郎はずのが、正確に方丈斎の居場所を見抜いて攻撃したことで、慌てて方丈斎は大きく宙に飛んで避けるしかなかった。
 だが、どういうわけか追撃が微妙に方丈斎からずれて空を切る。もし八郎が本当に方丈斎の居場所を把握していたならありえぬ話だ。場合によっては、それだけでこの勝負は終わっていたかもしれなかった。
「結界か!」
 方丈斎は事のからくりをそう推察した。おそらくは八郎だけがわかる形で、礫による結界が敷かれているに違いない。その結界を侵せば、術にかかっていようといまいと侵入した位置が暴露(ばれ)る。
 しかしそんな結界にも弱点はある。礫では空中に結界は敷けないということだ。すなわち、投擲による攻撃や空中からの攻撃には対応できない。
 接近戦を捨て、方丈斎は目にも止まらぬ速さで四本の苦無を投擲した。術にかかった八郎は、その苦無を錯覚したままに受けるしかないはずであった。
 ところが方丈斎の予想を裏切り、八郎は完璧に苦無を回避する。まるで本当に見えているとしか思えぬ迷いのない回避ぶりであった。さすがの方丈斎も、もしや八郎は術にかかっていないのでは、と疑うほどであった。

「――――殺すと思わばすなわち殺気を生ず。遊ぶがごとくただ空であれ」
「貴様、まさか殺気だけで我が苦無を躱したというのか?」

 人が殺し殺される戦国の世は終わったのだ。時代の移り変わりを人の手で制御することなどできない。ゆえに忍びもまた滅び去る運命にある。
 だが、忍びという陰の戦士が存在していたという事実を、その技だけでも残して逝きたいと角兵衛は願った。
 柳生宗矩と手段は違えど、忍びが生きるための選択であった。技さえ残ってくれれば、いつか再び忍びの蘇る時代が来るかもしれない。それがただの形だけにすぎなくとも、そこから生まれてくるものに未来を託すことができれば、それでよいのではないか?
 だから角兵衛は八郎に己の術技の全てを伝えたが、忍びの精神性だけは伝えなかった。むしろ遊びのように楽しむよう教えた。八郎の持って生まれた才もあるであろうが、八郎が技のみ研ぎ澄ませて成長したのは角兵衛の狙い通りであったといえる。
 そんな角兵衛の意図を、方丈斎は戦いの最中、天啓のように悟った。断じて認めるわけにはいかなかった。そんなものは方丈斎の知る忍びではない。むしろ武芸者に近い達人の悟りに近いものであった。
「殺す、殺さずにはおかぬ。決して後の世に貴様のような紛い物を残させはせぬぞ!」
 伊賀組の最後を飾る華々しい戦いのはずであった。鵜飼藤助と岡越後守という難敵は、まさにその最後に相応しい相手だった。このまま死んでも何一つ悔いはないと方丈斎が思ったほどである。
 しかし今は八郎の息の根を止めるまでは、なんとしても死ぬわけにはいかなかった。
 とはいえ八郎の天才を今は方丈斎も認めている。あの鵜飼藤助をも上回る印字打ちの腕といい、殺気だけで苦無を避けるなど、並みの忍びに真似のできるものではなかった。
 遠距離からの攻撃が通じないのなら接近するしかない。かといって接近すれば結界によって探知されてしまう。近距離で八郎の印字を全て躱す自信は方丈斎にもなかった。
 何の、死ねばよいではないか。
 そもそも鵜飼藤助との決着をつけたあと、老醜をさらして生き延びる気など方丈斎には毛頭なかった。
 であるならば、たとえ印字を食らっても死ななければよい。ただ八郎の息の根を止めるまで死なずにいられればそれでよいのだ。
 八郎にかけられた術はいまだ解けたわけではないのだから。
「心に刃を持つことがどういうことか、冥土の土産に教えてやる」
 心に刃が忍んでいる。ゆえにこその忍び。冷たく鋭い鋼の心は覚悟を決めれば鉄をも貫く切れ味を見せる。そんな覚悟を固めた忍びを印字の一撃で殺すのは至難の技であった。
 牽制の苦無を放つと同時に、方丈斎は矢のように八郎へと飛び出した。もちろんそれを見逃す八郎ではない。苦無が礫に弾き落されたかと思うと、どういうからくりか地面に転がっていた礫がまるで地雷のように空中へ打ち出されていく。
「ぬおおおおおっ!」
 全く想定していなかった真下からの攻撃に、方丈斎はたじろぐが、それでも急所への直撃を避けたのは技量のなせるわざか、それとも幸運のゆえか。
 しかし急所を避けたとはいえ、いくつかの礫が方丈斎の身体を傷つけ、その拍子に角兵衛に斬られた腹からの出血が激しくなった。
 もう自分に残された時間がわずかであることを方丈斎は悟る。
(もとより承知!)
 後先のことなど考えてもいない。ただ八郎を殺し伊賀組最後の華を飾るのみ。
 重傷を負っているはずなのに、方丈斎の身体は若い日まだ力が溢れていたころのように加速した。
 確かに印字打ちは便利で応用の利く技術ではあるが、刀や苦無に比べれば決定力では劣る。そんなことはもちろん八郎も承知していた。
(それがどうした!)
 八郎にも角兵衛の後継者たる意地がある。方丈斎を倒し、その実力を認めさせてこそ堂々と角兵衛の息子であると胸を張ることができる。
 ならばなんとしても印字打ちの妙技を尽くして倒して見せると八郎が意地になるのも無理からぬ話であった。
「――――六道辻」
 この世とあの世の境、冥府の入り口にして六道輪廻転生の始まりとなる場所を六道辻という。天道、人道、修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄道、人は死にいずれかの世に再び生まれ変わることになる。
 どの道を選んでも全て死に通じている。ゆえにこその六道辻。八郎の印字打ちでも最強の技であった。
 これまで使われてこなかった鋭利な針のような礫が六芒星の形に放たれる。しかもその礫には全て鋼糸が結ばれていて、八郎の指先ひとつで軌道を操ることが可能だった。
 だがここで八郎は完全に選択を間違っていた。接近する方丈斎を確実に殺すために、持っている最強の技を出したのはよいが、自分が方丈斎の術中下にあることを忘れていた。
 白刃を片手に矢のように向かってくる方丈斎の姿がすぐそこに見えるのである。それどころか息遣いや視線の力まで感じる。その五感からくる情報を、つい本能的に受け入れてしまったのだ。
 八郎の礫は、過たず方丈斎が防ごうとする動きをすりぬけ、見事に心臓を貫き通した。突き抜けた背中から血が間欠泉のように噴き出るのを、八郎は確かにその目で見た。
 がくりと膝をつき、倒れこもうとする方丈斎の口元が嗤っている。勝ったと信じた瞬間こそ、勘も技術も全てが失われる。
 八郎の目には方丈斎がすでに死んだように見えても、現に方丈斎はまだその戦闘力を失ってはいなかった。大地に倒れ伏そうとしているのは幻影であり、実体は最後の力を振り絞り、白刃を八郎の心臓めがけて突き出していた。
 ――――亡き角兵衛の仇を討ったと信じた八郎の目が、真っ赤に噴きあがる滝のような血を見た。

「な、なにが起こった?」
 方丈斎は己の肺を貫いて胸から生えた白刃を見て、狂したように叫ぶ。
 九分九厘まで勝利を手中に収めた瞬間であったはずだ。八郎は完全に術中に陥っていたし、反撃など考えられる状況ではなかった。何より、この肌理の細かい沸(にえ)と力強い地刃の働きには見覚えがあった、相州正宗に間違いない。
「え、越後守…………」
 それだけを呟いて方丈斎は無念を顔に張り付けたまま絶命した。正宗ほどの名刀を所持できる人間など、猪苗代広しといえども定俊以外にいるはずがなかった。
 肺から逆流した血を大量に吐き出した方丈斎の躯を見て、ようやく八郎は自分が絶体絶命のところを定俊に救われたことを悟った。
「定俊様――!」
 本来守るべき主に救われ、己を恥じて顔を赤く染めた八郎はそこに信じられぬものを見た。
 定俊の鳩胸の西洋甲冑が、真一文字に切り裂かれ、腹から鮮血と腸が零れ落ちていた。
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