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第二十五話 宿敵
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1448年4月17日、ブラショフの戦いと呼ばれる一連の戦いはワラキアの完勝で幕を閉じた。
………………ちょうど同じころ、トランシルヴァニアの宮廷に上部ハンガリーのヤーノシュから早馬が到着していた。
そこに届けられたヤーノシュの書状には、シギショアラ前面の街道を封鎖して陣を築き、援軍あるまで決してこちらから戦端を開かぬようにとの指示が書かれていたという。
逃げ帰った先でこの書状を見たラースローは己のしでかしてしまった失態を恥じて後嗣の座をマーチャーシュに譲ることを宣言した。
しかし譲られるべき地位を全うするためには、まだまだ彼には越えなければならない障害が山積していた。
ブラショフの戦いの敗北は、トランシルヴァニアに深刻な政情不安を投げかけずにはおかなかった。
良くも悪くも、ヤーノシュ以外に政軍両面で指揮をとることのできる力量ある重臣がいなかったためである。
ワラキア軍が進撃を開始すると、中小の貴族は助けに向かうどころか自らの領地の守りを固め、事態の推移を固唾を呑んで見守っていた。
貴族が日和見体質であるのはいずこの国も同じこと。
身を挺して公都に馳せ参じるような忠臣は、ワラキアばかりでなくトランシルヴァニアにも数少なかったのである。
「がっはっはぁ! ようやく気がついたか? ヤーノシュ」
目に見えて動きの鈍くなったハンガリー軍を見て、ヤンはワラキアの友人が目的を達成したであろうことを察した。
トランシルヴァニアはヤーノシュにとっては策源根拠地である。
ここを失えば、ヤーノシュは権威はあっても領地を持たない根なし草に成り下がる。
きっと今すぐにでも撤退してトランシルヴァニアを助けに向かいたいだろう。
だが――――――。
「悪いがそれは許さねえ……俺の都合ってもんがあるんでよぅ」
ワラキア公来るの報に接したヤーノシュは、事態が息子たちの手に余るであろうことを正確に洞察した。
ラースローは決して無能な息子ではないが、ヴラドのような怪物じみた存在ではない。
あれと戦うにはそれなりの準備と覚悟がいる。
ただちに部下の一人を抑えに残し、全軍をトランシルヴァニアに転じようとした其の瞬間を捉えたかのように、ヤン・イスクラ率いる黒衛軍の攻勢が始まった。
「おのれ………ヤン・イスクラめ………!」
この戦場の呼吸を知り尽くした用兵技術。
フス派の残党のそのまた残党にすぎない流浪の孤児を、まがりなりにも上部ハンガリーの主たらしめているのが彼のこの戦術指揮能力だった。
正しく、ヤーノシュの宿敵たるべき男であった。
ヤン・イスクラは長年戦場しかしらなかった無学の戦士である。
当然為政者として国を運用する知識や覚悟などあるはずもないただの軍人。
そんなならず者の集まりを統制しているヤン・イスクラの手腕だけは、さすがのヤーノシュ自身も認めざるをえないほどのものなのだ。
「押し返せ! 砦を出てきた連中など恐れるに足らんぞ!」
そう怒鳴りつつも、ヤーノシュはそれが真実ではないことを知っていた。
おそらく逆襲に転じたのはヤン・イスクラの黒衛軍の中でも精鋭で子飼いの「兄弟」団であろう。
リパニの兄弟殺しの中から産声をあげた狂気の殺戮機械である連中は、保塁車両に隠れていなくとも十分すぎるほど危険な相手だ。
攻勢の意欲を失った味方が押しまくられるであろうことはわかっていた。
さすがにこれを放置したままでいることはできない。
退却をするにしても、それはヤン・イスクラに手痛い打撃を与えたうえでの整然たる退却でなければならなかった。
みじめに異教徒に敗北して逃走するなどということが喧伝されては、ヤーノシュの権力基盤そのものが危うくなりかねなかったのである。
本当に厄介な相手であった。
おそらく自分がそう決断し、負けない程度に反撃しなくてはならないことをヤンはほくそ笑んで洞察しているはずであったからであった。
ヤーノシュが率いる親衛隊が反撃に転じると、案の定ヤン・イスクラの軍は退き始めた。
「逃がすな! 食いつけ! 異教徒の息の根を止めるときは今ぞ!」
言葉とは裏腹に現実はどうにもならない。
この程度でどうにかなるくらいなら、とうの昔にヤーノシュはヤン・イスクラを駆逐している。
くそっ! 悪魔め! 悪魔め! 悪魔め!
いつまでも貴様らにこの地上を好きにさせてなぞおくものか!
ヴラド・ドラクリヤ今はまず見事と褒めておこう。
若干16歳にしてヤン・イスクラと結び、大国ハンガリーの摂政たるこのフニャディ・ヤーノシュをてこずらせた手腕だけは大したものだ。
しかし悪魔同士が手を組み神に仇為すことが許されるはずがない。
許されるべきではないのだ―――――!
「ちっ、やはり正面からの勝負じゃ分が悪いか」
それが退却するための予備的な攻勢であるとわかっていても、ヤーノシュ率いるハンガリー軍の重圧は並大抵のものではなかった。
ヴラドと交わした約束がなければ、本気の攻勢であると勘違いしかねない勢いであった。
実際にヤンの投入した逆襲部隊は追いまくられ、かろうじて味方の火力支援を受けて全面的な潰走に移るのを阻止している。
やはりともにお互いの長所と短所を知り尽くした相手だと、対策を講じられるのも早いようだった。
「あせるな! どうせ長くは続かねえ!」
ヤーノシュはある程度こちらを押しこんだら撤退に移るに違いない。
しかし迂闊に懐に呼び込めば、そのまま敗北しかねないほどにハンガリー軍の攻勢は鋭かった。
これでは撤退するのに合わせて再び逆襲に転じるのは、いかにヤン・イスクラの手腕をもってしても難しい。
ただでさえ陣地戦に寡兵で耐えてきた黒衛軍は疲弊しているのだ。
「―――――まあ、こっちの役目は十分に果たしたろうさ。あとはお前も苦労しやがれ、小僧」
狂気を孕んだ、神に見捨てられた兵団は無類の戦闘力を誇るのと引き換えに戦力を補充することがひどく難しい。
ヤンとしてはいくらヴラドとの約束であっても、これ以上の損害を許容するつもりはなかった。
あとはあの少年(ヴラド)の才覚に期待しよう。
そう信じる程度にはヤンはヴラドの器量を信頼していた。
あれは面白い男だ。
やはり見込み通り勝どきをあげてハンガリー軍が撤退していく。
形式的にはヤン率いるフス派の残党に痛撃を与え、懲罰を与えたというところだが、実質的に損害はヤンよりも多く、寸土も得ることのない退却は敗北以外の何物でもないことを誰よりヤーノシュが一番良く承知していた。
………………ちょうど同じころ、トランシルヴァニアの宮廷に上部ハンガリーのヤーノシュから早馬が到着していた。
そこに届けられたヤーノシュの書状には、シギショアラ前面の街道を封鎖して陣を築き、援軍あるまで決してこちらから戦端を開かぬようにとの指示が書かれていたという。
逃げ帰った先でこの書状を見たラースローは己のしでかしてしまった失態を恥じて後嗣の座をマーチャーシュに譲ることを宣言した。
しかし譲られるべき地位を全うするためには、まだまだ彼には越えなければならない障害が山積していた。
ブラショフの戦いの敗北は、トランシルヴァニアに深刻な政情不安を投げかけずにはおかなかった。
良くも悪くも、ヤーノシュ以外に政軍両面で指揮をとることのできる力量ある重臣がいなかったためである。
ワラキア軍が進撃を開始すると、中小の貴族は助けに向かうどころか自らの領地の守りを固め、事態の推移を固唾を呑んで見守っていた。
貴族が日和見体質であるのはいずこの国も同じこと。
身を挺して公都に馳せ参じるような忠臣は、ワラキアばかりでなくトランシルヴァニアにも数少なかったのである。
「がっはっはぁ! ようやく気がついたか? ヤーノシュ」
目に見えて動きの鈍くなったハンガリー軍を見て、ヤンはワラキアの友人が目的を達成したであろうことを察した。
トランシルヴァニアはヤーノシュにとっては策源根拠地である。
ここを失えば、ヤーノシュは権威はあっても領地を持たない根なし草に成り下がる。
きっと今すぐにでも撤退してトランシルヴァニアを助けに向かいたいだろう。
だが――――――。
「悪いがそれは許さねえ……俺の都合ってもんがあるんでよぅ」
ワラキア公来るの報に接したヤーノシュは、事態が息子たちの手に余るであろうことを正確に洞察した。
ラースローは決して無能な息子ではないが、ヴラドのような怪物じみた存在ではない。
あれと戦うにはそれなりの準備と覚悟がいる。
ただちに部下の一人を抑えに残し、全軍をトランシルヴァニアに転じようとした其の瞬間を捉えたかのように、ヤン・イスクラ率いる黒衛軍の攻勢が始まった。
「おのれ………ヤン・イスクラめ………!」
この戦場の呼吸を知り尽くした用兵技術。
フス派の残党のそのまた残党にすぎない流浪の孤児を、まがりなりにも上部ハンガリーの主たらしめているのが彼のこの戦術指揮能力だった。
正しく、ヤーノシュの宿敵たるべき男であった。
ヤン・イスクラは長年戦場しかしらなかった無学の戦士である。
当然為政者として国を運用する知識や覚悟などあるはずもないただの軍人。
そんなならず者の集まりを統制しているヤン・イスクラの手腕だけは、さすがのヤーノシュ自身も認めざるをえないほどのものなのだ。
「押し返せ! 砦を出てきた連中など恐れるに足らんぞ!」
そう怒鳴りつつも、ヤーノシュはそれが真実ではないことを知っていた。
おそらく逆襲に転じたのはヤン・イスクラの黒衛軍の中でも精鋭で子飼いの「兄弟」団であろう。
リパニの兄弟殺しの中から産声をあげた狂気の殺戮機械である連中は、保塁車両に隠れていなくとも十分すぎるほど危険な相手だ。
攻勢の意欲を失った味方が押しまくられるであろうことはわかっていた。
さすがにこれを放置したままでいることはできない。
退却をするにしても、それはヤン・イスクラに手痛い打撃を与えたうえでの整然たる退却でなければならなかった。
みじめに異教徒に敗北して逃走するなどということが喧伝されては、ヤーノシュの権力基盤そのものが危うくなりかねなかったのである。
本当に厄介な相手であった。
おそらく自分がそう決断し、負けない程度に反撃しなくてはならないことをヤンはほくそ笑んで洞察しているはずであったからであった。
ヤーノシュが率いる親衛隊が反撃に転じると、案の定ヤン・イスクラの軍は退き始めた。
「逃がすな! 食いつけ! 異教徒の息の根を止めるときは今ぞ!」
言葉とは裏腹に現実はどうにもならない。
この程度でどうにかなるくらいなら、とうの昔にヤーノシュはヤン・イスクラを駆逐している。
くそっ! 悪魔め! 悪魔め! 悪魔め!
いつまでも貴様らにこの地上を好きにさせてなぞおくものか!
ヴラド・ドラクリヤ今はまず見事と褒めておこう。
若干16歳にしてヤン・イスクラと結び、大国ハンガリーの摂政たるこのフニャディ・ヤーノシュをてこずらせた手腕だけは大したものだ。
しかし悪魔同士が手を組み神に仇為すことが許されるはずがない。
許されるべきではないのだ―――――!
「ちっ、やはり正面からの勝負じゃ分が悪いか」
それが退却するための予備的な攻勢であるとわかっていても、ヤーノシュ率いるハンガリー軍の重圧は並大抵のものではなかった。
ヴラドと交わした約束がなければ、本気の攻勢であると勘違いしかねない勢いであった。
実際にヤンの投入した逆襲部隊は追いまくられ、かろうじて味方の火力支援を受けて全面的な潰走に移るのを阻止している。
やはりともにお互いの長所と短所を知り尽くした相手だと、対策を講じられるのも早いようだった。
「あせるな! どうせ長くは続かねえ!」
ヤーノシュはある程度こちらを押しこんだら撤退に移るに違いない。
しかし迂闊に懐に呼び込めば、そのまま敗北しかねないほどにハンガリー軍の攻勢は鋭かった。
これでは撤退するのに合わせて再び逆襲に転じるのは、いかにヤン・イスクラの手腕をもってしても難しい。
ただでさえ陣地戦に寡兵で耐えてきた黒衛軍は疲弊しているのだ。
「―――――まあ、こっちの役目は十分に果たしたろうさ。あとはお前も苦労しやがれ、小僧」
狂気を孕んだ、神に見捨てられた兵団は無類の戦闘力を誇るのと引き換えに戦力を補充することがひどく難しい。
ヤンとしてはいくらヴラドとの約束であっても、これ以上の損害を許容するつもりはなかった。
あとはあの少年(ヴラド)の才覚に期待しよう。
そう信じる程度にはヤンはヴラドの器量を信頼していた。
あれは面白い男だ。
やはり見込み通り勝どきをあげてハンガリー軍が撤退していく。
形式的にはヤン率いるフス派の残党に痛撃を与え、懲罰を与えたというところだが、実質的に損害はヤンよりも多く、寸土も得ることのない退却は敗北以外の何物でもないことを誰よりヤーノシュが一番良く承知していた。
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