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第六十話 兄弟の運命
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ソロスはイワンと並ぶワラキアの外交官である。
弁舌と交渉には少なからぬ自負を持つこの男をしても、目の前の男と言葉を交わすのは非常に多大な精神力を必要とした。
もっともおそらく遠い東の大国明を除けば世界最強の権力者であろう、オスマン帝国スルタン、ムラト2世を相手に、なんら精神的重圧を感じないものもいなかったであろうが。
「我が主ヴラド・ドラクリヤはハンガリー王ヤーノシュを討ち取り、現在はブダにおいて王国の慰撫に努めております。しかしながら先ほども申し上げました通りワラキア国内にはいまだ我が主に逆らう不逞の輩も多く………」
ソロスは自分を送り出したときのヴラドの懇願するような、祈るような複雑な表情を思い出す。
言葉にこそ出さなかったが、何としても役目を果してくれと言いたかったに違いなかった。
「さらには神聖ローマ帝国もハンガリーを奪わんと蠢動している様子であり、我が主もなかなかにブダを離れることが出来ません。ゆえに……」
ソロスは静かに、しかし渾身の精神力を籠めて言葉を吐き出した。
「我が主の最も信頼を置く実の弟、ラドゥ殿下をワラキアにお返しいただくことをお願い申しあげたく陛下のご寛容におすがりする次第」
ムラトは失礼にならぬ程度に決然とした視線をそらさずに送り続けるワラキアの使者に一定の評価をした。
超大国の頂点に立つムラトを相手にまともな交渉のできる人間は数少ない。
なかなかにヴラドのもとには有能な部下がそろいつつあるようだ。
もっともそうでなくしてオスマンですらてこずったヤーノシュを倒すことなどできるはずもなかった。
――――――ふむ、悪くはないか。
オスマンにとってラドゥの価値はヴラドのスペアであるにすぎない。
ヴラドがヤーノシュを相手に戦死でもすれば出番もあったであろうが、最大の宿敵がいなくなった今ヴラドを実力で倒せる相手は見当たらなかった。
あとは子供のいないヴラドが病死、あるいは暗殺された場合だが、それならラドゥがワラキアにいたとしても問題はないはずだった。
何よりムラト自身が、ヴラドは敵に回すことなく味方に取り込みたいと考え始めていた。
せっかくヤーノシュがいなくなってくれたのに、ヤーノシュ以上に手ごわい強敵が立ちふさがったのではオスマンにとって何も益がない。
「こたびのワラキア公の戦勝、帝国にとってもまこと重畳なこと。これに報いるに帝国の恩義を知るラドゥ殿下をもってすることもまた陛下のご威光の賜物かと」
宰相であるハリル・パシャがムラトの判断を後押しする。
ムラトの見るところラドゥは兄ヴラドほどの器量はなく、ヴラドが健在である以上利用価値の少ないように思われたのである。
ムラトが口を開き、ラドゥの帰国を認めようとしたそのとき、
「お待ちください――――――!」
朗々と張りのあるバリトンが響き渡る。
ムラトの前に大きな体躯の禿頭の男が進み出た。
「ラドゥ殿下は私が後継者に育てたいほどの逸材、オスマンにとっても有用な稀有の人材でございます。何とぞ陛下にはご賢察を賜りますよう……」
余計なことを、とソロスは舌打ちしたい気分であったが軽くその男を睨みつけるにとどめた。
特に役職こそないが、その比類ない学識でオスマン宮廷に多大な影響力を及ぼしているその男をソロスはよく承知していた。
「ラドゥがそれほどの期待を寄せられていたとは寡聞にして知らなかったな、メムノン」
ムラトは脳内で計算をめぐらせる。
はたしてラドゥはここでヴラドの要請を断るに足るほど役に立つ男であったろうか?
もしそれだけの力があるならオスマンで育てるに吝かではないのだが。
「ラドゥ殿下に過分な評価をいただき臣としても喜びに耐えませぬ。しかし今こそワラキアにとっては肝要な時。ここはぜひともラドゥ殿下の力を頼らせてくださいませ」
このままメムノンの言うとおりラドゥの身柄を押さえられてしまってはたまらない。ソロスは必死にムラトに向かって食い下がる。
「―――――それにラドゥ殿下は皇太子殿下も近習にとお望みゆえ、ラドゥ殿下自身にとってもこのまま我が国におられたほうがお身のためかと」
「ほう…………メフメトが」
ムラトは苦そうに顔を顰めた。
世界最強を自負するオスマン帝国のスルタンであるムラトにとって、唯一苦手なものがあるとすれば、それは息子であるメフメト自身にほかならなかったであろう。
ムラトはメフメトの才幹自体は露ほども疑っていない。
ただメフメトの強い野心と自己顕示欲が、オスマンを危ういほうに導くのではないかと危惧しているだけだ。
若干12歳のメフメトに政治を任せ余生を送るつもりになっていたムラトは、その後の欧州の介入とメフメトと重臣たちの不和を収めるため、メフメトを退位させ再びスルタンの座に再登板せざるをえなかった。
いわば自分の我がままで息子に生涯消えぬ恥をかかせてしまったに等しい。この事実はムラトの胸に消しきれぬ息子に対する負い目を刻みつけていた。
「陛下! どうか殿下を………!」
「すまんがラドゥは我が国に必要な人材であるようだ。ヴラド公には必ずや埋め合わせはすると伝えていただこう…………」
退位してマニサに赴けと伝えたときのメフメトの屈辱にゆがんだ顔をムラトは今でも忘れることができない。
そのメフメトが見出した部下を手放すように伝える勇気をムラトは持つことができなかった。
ソロスの必死の嘆願もむなしく、ラドゥはイェニチェリの一員として将来の幹部候補として育成されることが決定したのだった。
弁舌と交渉には少なからぬ自負を持つこの男をしても、目の前の男と言葉を交わすのは非常に多大な精神力を必要とした。
もっともおそらく遠い東の大国明を除けば世界最強の権力者であろう、オスマン帝国スルタン、ムラト2世を相手に、なんら精神的重圧を感じないものもいなかったであろうが。
「我が主ヴラド・ドラクリヤはハンガリー王ヤーノシュを討ち取り、現在はブダにおいて王国の慰撫に努めております。しかしながら先ほども申し上げました通りワラキア国内にはいまだ我が主に逆らう不逞の輩も多く………」
ソロスは自分を送り出したときのヴラドの懇願するような、祈るような複雑な表情を思い出す。
言葉にこそ出さなかったが、何としても役目を果してくれと言いたかったに違いなかった。
「さらには神聖ローマ帝国もハンガリーを奪わんと蠢動している様子であり、我が主もなかなかにブダを離れることが出来ません。ゆえに……」
ソロスは静かに、しかし渾身の精神力を籠めて言葉を吐き出した。
「我が主の最も信頼を置く実の弟、ラドゥ殿下をワラキアにお返しいただくことをお願い申しあげたく陛下のご寛容におすがりする次第」
ムラトは失礼にならぬ程度に決然とした視線をそらさずに送り続けるワラキアの使者に一定の評価をした。
超大国の頂点に立つムラトを相手にまともな交渉のできる人間は数少ない。
なかなかにヴラドのもとには有能な部下がそろいつつあるようだ。
もっともそうでなくしてオスマンですらてこずったヤーノシュを倒すことなどできるはずもなかった。
――――――ふむ、悪くはないか。
オスマンにとってラドゥの価値はヴラドのスペアであるにすぎない。
ヴラドがヤーノシュを相手に戦死でもすれば出番もあったであろうが、最大の宿敵がいなくなった今ヴラドを実力で倒せる相手は見当たらなかった。
あとは子供のいないヴラドが病死、あるいは暗殺された場合だが、それならラドゥがワラキアにいたとしても問題はないはずだった。
何よりムラト自身が、ヴラドは敵に回すことなく味方に取り込みたいと考え始めていた。
せっかくヤーノシュがいなくなってくれたのに、ヤーノシュ以上に手ごわい強敵が立ちふさがったのではオスマンにとって何も益がない。
「こたびのワラキア公の戦勝、帝国にとってもまこと重畳なこと。これに報いるに帝国の恩義を知るラドゥ殿下をもってすることもまた陛下のご威光の賜物かと」
宰相であるハリル・パシャがムラトの判断を後押しする。
ムラトの見るところラドゥは兄ヴラドほどの器量はなく、ヴラドが健在である以上利用価値の少ないように思われたのである。
ムラトが口を開き、ラドゥの帰国を認めようとしたそのとき、
「お待ちください――――――!」
朗々と張りのあるバリトンが響き渡る。
ムラトの前に大きな体躯の禿頭の男が進み出た。
「ラドゥ殿下は私が後継者に育てたいほどの逸材、オスマンにとっても有用な稀有の人材でございます。何とぞ陛下にはご賢察を賜りますよう……」
余計なことを、とソロスは舌打ちしたい気分であったが軽くその男を睨みつけるにとどめた。
特に役職こそないが、その比類ない学識でオスマン宮廷に多大な影響力を及ぼしているその男をソロスはよく承知していた。
「ラドゥがそれほどの期待を寄せられていたとは寡聞にして知らなかったな、メムノン」
ムラトは脳内で計算をめぐらせる。
はたしてラドゥはここでヴラドの要請を断るに足るほど役に立つ男であったろうか?
もしそれだけの力があるならオスマンで育てるに吝かではないのだが。
「ラドゥ殿下に過分な評価をいただき臣としても喜びに耐えませぬ。しかし今こそワラキアにとっては肝要な時。ここはぜひともラドゥ殿下の力を頼らせてくださいませ」
このままメムノンの言うとおりラドゥの身柄を押さえられてしまってはたまらない。ソロスは必死にムラトに向かって食い下がる。
「―――――それにラドゥ殿下は皇太子殿下も近習にとお望みゆえ、ラドゥ殿下自身にとってもこのまま我が国におられたほうがお身のためかと」
「ほう…………メフメトが」
ムラトは苦そうに顔を顰めた。
世界最強を自負するオスマン帝国のスルタンであるムラトにとって、唯一苦手なものがあるとすれば、それは息子であるメフメト自身にほかならなかったであろう。
ムラトはメフメトの才幹自体は露ほども疑っていない。
ただメフメトの強い野心と自己顕示欲が、オスマンを危ういほうに導くのではないかと危惧しているだけだ。
若干12歳のメフメトに政治を任せ余生を送るつもりになっていたムラトは、その後の欧州の介入とメフメトと重臣たちの不和を収めるため、メフメトを退位させ再びスルタンの座に再登板せざるをえなかった。
いわば自分の我がままで息子に生涯消えぬ恥をかかせてしまったに等しい。この事実はムラトの胸に消しきれぬ息子に対する負い目を刻みつけていた。
「陛下! どうか殿下を………!」
「すまんがラドゥは我が国に必要な人材であるようだ。ヴラド公には必ずや埋め合わせはすると伝えていただこう…………」
退位してマニサに赴けと伝えたときのメフメトの屈辱にゆがんだ顔をムラトは今でも忘れることができない。
そのメフメトが見出した部下を手放すように伝える勇気をムラトは持つことができなかった。
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