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第百四話 家族
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実のところヴラドの作戦がそれほど完璧に進んでいたわけではない。
むしろ錯誤の連続であったと言ってもよいほどだ。
その典型がベルドの戦死であり、せっかく育成してきた近衛兵の壊滅であった。
しかし、それ以上に時を追うにしたがって如実に明らかになるものがあった。
戦費の際限ない増大である。
他国の追随を許さない優秀な補給システムを整備しているワラキアだが、だからこそその維持には莫大な費用を必要とする。
火薬や焼夷油脂などの消費量の増大はもはや深刻なレベルに達しようとしていた。
いまや東欧随一の経済大国であるワラキアではあったが、その経済の破綻は間近に迫っていたのだ。
対オスマン戦を主導する国家として、主に経済面でアルバニアや白羊朝やコンスタンティノポリスという複数の国家を支えてきたことがことのほか大きな負担になろうとしている。
ジェノバ海軍とともに実施した海上機動やブルガリア・トラキアなどの旧正教徒国家に対する工作資金も莫大なものにのぼっていた。
貯め込んだ国庫を空にし、メヴィチ銀行からの借財に手を付けている今、これ以上の戦争の長期化は絶対に避けなければならなかった。
これがオスマン朝であれば、被占領地域から餓死者を出すほどに搾り取るという非常手段が可能であるかもしれない。
しかし己の支持基盤を、貴族から国民へシフトさせつつあるヴラドにその手段はとれなかった。
また、ハンガリーを始めとする被占領地域も統治からの年月が浅く、ちょっとした不満が大きな動乱を呼び込みかねないという不安もある。
今は牙を抜かれたかに見える貴族たちも、己の領民の支持すらえられぬということで泣く泣く従っているものも多いのだ。
仮に自領に閉じこもるとしても、それはスカンデルベグやリッシュモン大元帥を見捨てることにもなりかねない。
むしろここで一戦して決着をつけたいのはヴラドのほうであるのかもしれなかった。
アドリアノープルへ向かう途上で、解放を喜ぶブルガリア民衆の歓呼に迎えられるヴラドの表情は冴えない。
それはこの歓呼の声が、ヴラドが圧政者としてふるまった瞬間に怨嗟の声に早変わりするのを知っているからでもあるが、本当はベルドの不在 がいまだ大きな影を落していた。
「我が夫…………」
ここにきてヘレナもヴラドをなぐさめる言葉を見つけられないでいる。
自分は政治的にベルドを見捨てる判断を下したがゆえに。
あの判断に間違いがあったとは思わない。
そもそもヴラド自身も、ベルドを犠牲にすることを選択したことは正しいと思っている。
ただ、己の無力さが、己の矮小さがどうしても許容することができないでいるのをヘレナは知っていた。
だが、それをなぐさめることができるのは政治で感情を割り切ることができる自分ではない。
あるいはフリデリカのような凡庸な女性がただ抱きしめてやることこそ、ヴラドにとっての救いなのかもしれなかった。
ヴラドの心を理解することと、救うことは全く別のものなのだ。
そんな自分が呪わしい、呪わしくてたまらない。
「そんなつらそうな顔をするなヘレナ」
「たわけめ、男なら嗤って見せよ!」
なんともヘレナにそんな顔をさせてしまっていることが情けなかった。
だが、俺はベルドの死をよしとした己の政治的決断を、いまだに感情の面では許すことが出来ないでいた。
「全く…………これでは君主失格だな」
ラドゥが督戦隊を率いて攻めてきたときもそうだった。
君主として、指揮官としてやるべきこととは別にそれを認めようとはしない自分がいた。
他人であればこうはならない。
どうやら己にとって近しい者、それもごく限られた者は、自分が考えている以上に特別な何かであるらしい。
そんな弱さがまたどうしようもなく情けなかった。
氷のような、史実のヴラドのような冷徹な決断力があれば、また違う結果があっただろうか。
「従兄様! よくぞご無事で!」
俺のそんな黙考を破ったのはワラキアで留守居をしていたシュテファンの声だった。
「どうしてシュテファンがここに?」
「――――ベルドが死んだと聞きました」
だからこそ、シュテファンは最後の決戦に向けての補給部隊と護衛を自ら買って出ていたのだった。
危険を犯してかけつけたのは、何よりヴラドの心が心配だからだ。
「…………すまん」
それ以外に言葉が見つからなかった。
思えばラドゥほどではないにしろ、俺にとって家族の立ち位置にいるシュテファンとベルドは親しかった。
ベルドが亡くなって傷ついているのは、決して俺だけではないのだ。
「たぶん、そんな風に自分を責めておられるのではないかと思っておりました………」
シュテファンはほんの少し会わない間にひどく大人っぽい苦い笑みを浮かべて言った。
「悲しむなとは言いませぬ、が、あまりご自分を責めてはベルドが報われませぬ」
「それは逆だ。簡単に受容してはそれこそベルドが報われない」
「ベルドが命をかけて守ったのは何も従兄上が君主であるからだけではありません。従兄上が好きだからこそ、その幸せを守りたかったのです。臣下として、女として、従兄上を心から愛したベルドの思いを否定なさるおつもりか?」
「――――女として?」
「求めるだけが愛ではない。なにひとつ求めることなく人生を捧げる愛もある。しかし鈍感にもほどがあるぞ我が夫?」
ヘレナの言葉に思わず息が詰まる。
「だから従兄上、悲しむなとは言いません。その代わり幸せになってください、それだけがベルドの望むすべてなのですから」
そう言われた時、俺の中の何かがストンと胸の中に納まったような気がした。
「そうか、責任や後悔に逃げていただけで、本当はただ哀しかったんだな」
シュテファンはいつしか溢れる涙を抑えることが出来ずにいた。
「ベルドの決意を否定する気はありません。私がそこにいれば同じことをしようとしたかもしれないから。ベルドが満足して死んでいったことも間違いないでしょう………でも今は泣いてもいいですよね? 従兄上、だってベルドが死んで哀しいのは変わるわけではないのですから………」
ベルドが本懐を遂げたのだとしても、それを嘆くのは別の問題なのは当然だ。
嗚咽を漏らして慟哭するシュテファンが、俺にはひどくうらやましいものに感じられてならなかった。
「我が夫………妾の胸ではものたりないかもしれないが……泣いても誰も責めはしないぞ」
ヘレナの言葉に俺は頭を振った。
「俺の分までシュテファンが泣いてくれているさ」
ベルドを失ったこの悲しみを永久に忘れることはない。
そしてヘレナやシュテファンという愛すべき家族の無償の愛情もまた。
今はそれらの思いをまるごと受け入れて前を向くことが、ベルドの信頼にこたえることなのだろう。
そしてオスマンを打ち破りこの地に新たな平和と秩序を築き上げて見せるのだ。
今度こそ俺の家族たちの幸せを守るために。
むしろ錯誤の連続であったと言ってもよいほどだ。
その典型がベルドの戦死であり、せっかく育成してきた近衛兵の壊滅であった。
しかし、それ以上に時を追うにしたがって如実に明らかになるものがあった。
戦費の際限ない増大である。
他国の追随を許さない優秀な補給システムを整備しているワラキアだが、だからこそその維持には莫大な費用を必要とする。
火薬や焼夷油脂などの消費量の増大はもはや深刻なレベルに達しようとしていた。
いまや東欧随一の経済大国であるワラキアではあったが、その経済の破綻は間近に迫っていたのだ。
対オスマン戦を主導する国家として、主に経済面でアルバニアや白羊朝やコンスタンティノポリスという複数の国家を支えてきたことがことのほか大きな負担になろうとしている。
ジェノバ海軍とともに実施した海上機動やブルガリア・トラキアなどの旧正教徒国家に対する工作資金も莫大なものにのぼっていた。
貯め込んだ国庫を空にし、メヴィチ銀行からの借財に手を付けている今、これ以上の戦争の長期化は絶対に避けなければならなかった。
これがオスマン朝であれば、被占領地域から餓死者を出すほどに搾り取るという非常手段が可能であるかもしれない。
しかし己の支持基盤を、貴族から国民へシフトさせつつあるヴラドにその手段はとれなかった。
また、ハンガリーを始めとする被占領地域も統治からの年月が浅く、ちょっとした不満が大きな動乱を呼び込みかねないという不安もある。
今は牙を抜かれたかに見える貴族たちも、己の領民の支持すらえられぬということで泣く泣く従っているものも多いのだ。
仮に自領に閉じこもるとしても、それはスカンデルベグやリッシュモン大元帥を見捨てることにもなりかねない。
むしろここで一戦して決着をつけたいのはヴラドのほうであるのかもしれなかった。
アドリアノープルへ向かう途上で、解放を喜ぶブルガリア民衆の歓呼に迎えられるヴラドの表情は冴えない。
それはこの歓呼の声が、ヴラドが圧政者としてふるまった瞬間に怨嗟の声に早変わりするのを知っているからでもあるが、本当はベルドの不在 がいまだ大きな影を落していた。
「我が夫…………」
ここにきてヘレナもヴラドをなぐさめる言葉を見つけられないでいる。
自分は政治的にベルドを見捨てる判断を下したがゆえに。
あの判断に間違いがあったとは思わない。
そもそもヴラド自身も、ベルドを犠牲にすることを選択したことは正しいと思っている。
ただ、己の無力さが、己の矮小さがどうしても許容することができないでいるのをヘレナは知っていた。
だが、それをなぐさめることができるのは政治で感情を割り切ることができる自分ではない。
あるいはフリデリカのような凡庸な女性がただ抱きしめてやることこそ、ヴラドにとっての救いなのかもしれなかった。
ヴラドの心を理解することと、救うことは全く別のものなのだ。
そんな自分が呪わしい、呪わしくてたまらない。
「そんなつらそうな顔をするなヘレナ」
「たわけめ、男なら嗤って見せよ!」
なんともヘレナにそんな顔をさせてしまっていることが情けなかった。
だが、俺はベルドの死をよしとした己の政治的決断を、いまだに感情の面では許すことが出来ないでいた。
「全く…………これでは君主失格だな」
ラドゥが督戦隊を率いて攻めてきたときもそうだった。
君主として、指揮官としてやるべきこととは別にそれを認めようとはしない自分がいた。
他人であればこうはならない。
どうやら己にとって近しい者、それもごく限られた者は、自分が考えている以上に特別な何かであるらしい。
そんな弱さがまたどうしようもなく情けなかった。
氷のような、史実のヴラドのような冷徹な決断力があれば、また違う結果があっただろうか。
「従兄様! よくぞご無事で!」
俺のそんな黙考を破ったのはワラキアで留守居をしていたシュテファンの声だった。
「どうしてシュテファンがここに?」
「――――ベルドが死んだと聞きました」
だからこそ、シュテファンは最後の決戦に向けての補給部隊と護衛を自ら買って出ていたのだった。
危険を犯してかけつけたのは、何よりヴラドの心が心配だからだ。
「…………すまん」
それ以外に言葉が見つからなかった。
思えばラドゥほどではないにしろ、俺にとって家族の立ち位置にいるシュテファンとベルドは親しかった。
ベルドが亡くなって傷ついているのは、決して俺だけではないのだ。
「たぶん、そんな風に自分を責めておられるのではないかと思っておりました………」
シュテファンはほんの少し会わない間にひどく大人っぽい苦い笑みを浮かべて言った。
「悲しむなとは言いませぬ、が、あまりご自分を責めてはベルドが報われませぬ」
「それは逆だ。簡単に受容してはそれこそベルドが報われない」
「ベルドが命をかけて守ったのは何も従兄上が君主であるからだけではありません。従兄上が好きだからこそ、その幸せを守りたかったのです。臣下として、女として、従兄上を心から愛したベルドの思いを否定なさるおつもりか?」
「――――女として?」
「求めるだけが愛ではない。なにひとつ求めることなく人生を捧げる愛もある。しかし鈍感にもほどがあるぞ我が夫?」
ヘレナの言葉に思わず息が詰まる。
「だから従兄上、悲しむなとは言いません。その代わり幸せになってください、それだけがベルドの望むすべてなのですから」
そう言われた時、俺の中の何かがストンと胸の中に納まったような気がした。
「そうか、責任や後悔に逃げていただけで、本当はただ哀しかったんだな」
シュテファンはいつしか溢れる涙を抑えることが出来ずにいた。
「ベルドの決意を否定する気はありません。私がそこにいれば同じことをしようとしたかもしれないから。ベルドが満足して死んでいったことも間違いないでしょう………でも今は泣いてもいいですよね? 従兄上、だってベルドが死んで哀しいのは変わるわけではないのですから………」
ベルドが本懐を遂げたのだとしても、それを嘆くのは別の問題なのは当然だ。
嗚咽を漏らして慟哭するシュテファンが、俺にはひどくうらやましいものに感じられてならなかった。
「我が夫………妾の胸ではものたりないかもしれないが……泣いても誰も責めはしないぞ」
ヘレナの言葉に俺は頭を振った。
「俺の分までシュテファンが泣いてくれているさ」
ベルドを失ったこの悲しみを永久に忘れることはない。
そしてヘレナやシュテファンという愛すべき家族の無償の愛情もまた。
今はそれらの思いをまるごと受け入れて前を向くことが、ベルドの信頼にこたえることなのだろう。
そしてオスマンを打ち破りこの地に新たな平和と秩序を築き上げて見せるのだ。
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