沈黙のういザード 

豚さん

文字の大きさ
85 / 255

22話  感情の鍵盤

しおりを挟む
 音楽室は、熱を残したまま静寂に沈んでいた。
 照明の薄明かりだけが、鍵盤を淡く照らしている。

「……千秋。座って」

「はい、お姉様」

 千秋は姿勢を正し、ピアノの前に座った。
 その手は――コンクールで幾度も喝采を受けた、磨かれた指先。

 雪乃は隣へ腰を下ろした。

「千秋。今日のライブ……あなたは自分の限界を超えかけていた」

「……はい。
 でも、まだ届かないと……思いました」

「ええ。届いていない」

 はっきりと言い切られ、千秋の肩が震える。

「安心して。
 “届く場所”を知っている私が隣にいる」

 千秋はその一言だけで涙が出そうになった。


「千秋。弾いてみせて」

「……曲は?」

「“今のあなた”の音を。
 楽譜は忘れて。
 あなたの心のままに」

 千秋は深呼吸し、鍵盤へ手を落とす。

 一音――
 それは完璧で、美しい。

 二音、三音――
 精密。洗練。日本最高峰の演奏。

 だが。

「――そこ止めて」

 雪乃の声が、千秋の集中を断ち切った。

「……どうして、止めるのですか?」

「技術は満点。
 だけど、あなたの音は――“義務の音”」

「……っ!」

 胸が締めつけられる。

「千秋。あなたは“隠者(The Hermit)”なの」

「……隠者?」

「心の奥に光があるのに、
 誰にもちゃんと見せようとしない。
 完璧さで閉じ込めてきたから」

 雪乃はそっと眉根を寄せる。

「感情を隠す癖が音に出るの。
 だから――人の心を震わせきれない」


 千秋の指が小さく震えた。


「千秋。今日、あなたは何を感じた?」

「……わたくし……
 初めて……心ごと音を捧げたいと思いました」

 言葉は震えたが、迷いはなかった。

「誰のために?」

「……雪乃さん。
 あなたのために……弾きたいです」

 その告白を聞き――
 雪乃の胸が、ほんの少しだけ熱を帯びた。

「なら――その気持ちを音にしなさい」

 雪乃は千秋の手の上に、そっと自分の手を重ねる。
 ぴたりと密着する温度。

「“好き”の音を教えて。
私に――あなたの恋を聴かせて?」

 千秋は唇を震わせながら、鍵盤へ指を置く。

 そして――
 柔らかく、甘く、痛いほど真っ直ぐな音が溢れた。

 雪乃は、思わず息を呑む。

 涙が頬を伝う千秋。
 雪乃はその横顔を、黙って受け止めた。

「もう一度。
 今度は――全てをさらけ出して」

「はい……お姉様」


 音楽室に、二人だけの世界が存在した。
 言葉はいらない。
 音だけで、想いが通じる。

 雪乃は、胸の奥で静かに思った。

(この子となら……
 きっと、あの曲を……)

 再び、雪乃の中の“何か”がそっと灯る。

 それはまだ名もなき光。
 でも確かに――前へ進むための光だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について

沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。 かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。 しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。 現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。 その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。 「今日から私、あなたのメイドになります!」 なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!? 謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける! カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...