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27話 君の涙を抱きしめて
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憂は胸にそっと手を当て、今にも跳ね出しそうな心臓を落ち着けるように、ゆっくりと深呼吸した。
吸って、吐く。
それだけの動作なのに、肺の奥が微かに震える。
空港の天井は高く、ガラス越しに差し込む光が床に反射している。
行き交う人々の声、スーツケースの車輪の音、アナウンスの残響――
それらすべてが、絶え間なく反響しているはずなのに。
不思議なほど、その喧騒は遠かった。
聞こえるのは、自分の鼓動だけ。
どくん、どくん、と、耳の奥で重く響いている。
目の前に立つ千秋の姿を、憂はまっすぐに見つめた。
背筋はいつも通りに伸び、立ち姿は完璧なお嬢様。
けれど、白い手袋に包まれた指先が、わずかに強張っているのを、憂は見逃さなかった。
――この人に、どうしても伝えなければならない言葉がある。
逃げない、と決めてきた。
胸が怖さでいっぱいでも、それだけは決めてきた。
だから――。
「……あのね、千秋」
声が、少しだけ震えた。
憂は一度唇を噛み、言葉が逃げないように意識してから、意を決して続ける。
「わたし……高校、合格したよ」
一瞬。
本当に、一瞬だけ――
千秋の時間が止まった。
瞬きを忘れたように、長いまつげが動かない。
言葉の意味を頭の中で反芻するための、ほんのわずかな空白。
「……合格……?」
ゆっくりと、確かめるように。
「東野に……ですの?」
「うん。……合格した」
憂は頬を赤らめながらも、視線を逸らさず、逃げずに笑った。
その瞬間――
千秋の胸の奥で、張りつめていた何かが、ぷつりと切れた。
ぱぁっと、光が差し込むように、表情が一気に明るくなる。
「まあ……!憂さん……本当に……おめでとうございますわ……っ!」
弾む声。
けれど、その音には、わずかな震えが混じっている。
千秋は思わず両手を口元に添え、溢れ出しそうな感情を必死に押さえ込んだ。
嬉しい。
それは疑いようのない、本物の喜びだった。
胸がいっぱいで、息が苦しいほどに。
――けれど。
その光は、ほんの数秒で、別の感情へと形を変えていく。
胸の奥を刺す、鋭い痛み。
言えなかった過去。
逃げてしまった時間。
千秋は、ゆっくりと視線を落とした。
「……でも、わたくし……すぐには……喜べませんでしたわね……」
「千秋……?」
千秋は、はめたままの手袋をぎゅっと握りしめる。
革がきしむ音が、小さく鳴った。
「わたくし……留学に合格したのに……あなたに……言えませんでした……」
声はかすれていた。
完璧に保ってきたお嬢様としての気品の下で、感情が震えている。
憂は、否定しなかった。
責めることも、遮ることもせず、ただ一度息を吸い、静かに頷く。
「……うん。言えなかった理由……わかるよ」
「……っ」
千秋の肩が、びくりと跳ねる。
「言ったら……あなたが……壊れてしまうと思ったのです」
目元が赤く染まり、唇が小さく震えた。
「憂さんは……優しいから……きっと……わたくしのために泣いてしまう……だったら……言わないほうがいいと……あなたに……負担をかけたくなくて……」
「壊れたりしないよ」
憂は、迷いなく言い切った。
千秋の瞳が、大きく揺れる。
「だって……千秋が決めたことだもん。わたしが泣いても……千秋の未来を止めちゃいけないって、わかってる」
そう言いながら、憂は胸元のネックレス――
千秋から贈られたエメラルドに、そっと触れた。
「ちゃんと……つけてきたよ。千秋が未来を見てほしいって言ってくれたから……
すごく……嬉しかったんだ」
宝石が光を受け、小さく揺れる。
千秋は、思わず息を呑んだ。
憂は視線を下げ、千秋の手袋を見る。
「それに……その手袋。わたしが誕生日にあげたやつ……ずっと、つけてくれてるんだね」
「……っ」
千秋の指先が、はっきりと震えた。
「……ほんとうは……毎日……つけていましたの……」
「え……?」
「ここに……憂さんの気持ちがある気がして……それだけで……胸が……温かくなって……」
言葉が、涙に変わる。
唇を噛みしめ、首を振る。
「……わたくし……とても……救われていました……でも……それだけじゃ……ありませんでした……傷つけたくなかった……それは……本当……でも……それだけなら……まだ……綺麗でした……合格した、と言ってしまったら……あなたが……笑って……おめでとうと言ってくれたら……その瞬間……わたくしは……本当に離れるという現実を……受け止めなければならなくなる……!」
涙が、ぽろりと落ちる。
声が、裏返った。
「あなたの寂しさも……あなたの強がりも……全部……真正面から……
見ることになる……! それが……怖かった……!!」
堰が切れたように、感情が溢れ出す。
千秋は、ついに声を上げて泣き出した。
「憂さんのため、なんて……優しい言葉で……本当は……自分が壊れるのを……必死に避けていただけ……!!……自分勝手で……卑怯で……そんな自分が……大嫌いで……!!」
膝が崩れ、千秋はその場で泣き崩れる。
次の瞬間――
憂は、ためらわず、思いきり千秋を抱きしめた。
強く。
逃げ場を与えないほど、強く。
けれど――優しく。
憂は、震える千秋を抱きしめた。
「……辛かったよね」
「……っ」
「ひとりで決めて、ひとりで抱えて、言えなくて……怖かったんでしょう?」
千秋の肩が崩れる。
「わたくし……自分が嫌いで……」
「嫌いにならなくていい」
迷いのない声だった。
「嘘をついたのは、誰かを傷つけたかったからじゃない。守りたかったからでしょ? 弱さじゃないよ。本気だった証拠。もう、ひとりで抱えなくていい。わたしは……千秋の味方だから」
その一言に、千秋の肩が大きく揺れた。
憂は、抱きしめる腕に、さらに力を込める。
「強いふりして……一番、自分に厳しくて……誰よりも……怖がりで……そんな千秋が……一人で耐えられるわけ……ないよ……」
「……憂……さん……っ」
「泣いていいよ壊れそうだったって……正直に言ってくれて……ありがとう」
「っ……!」
「泣きたかったんだよね……?ずっと……ずっと……一人で抱えてたんだよね……?」
「う……うぅっ……!」
千秋の涙が、ぽた、ぽた、と床に落ちる。
「憂さんに……言えなかったわたくしが……情けなくて……悔しくて……でも……会いたくて……どうしようもなく……寂しくて……っ。ごめんなさい……っごめんなさい、憂さん……っわたくし……本当はずっと……一緒にいたかったのです……!!」
千秋は崩れるように憂へしがみつく。
憂は一瞬驚き、それから強く、強く抱きとめた。
「千秋……言ってくれて……ありがとう。泣いてくれて……ありがとう……千秋の声……こんなに震えてるのに……わたしだけ泣かないなんて……そんなの……ムリだよ……」
二人の涙が混ざり、空港の真ん中で、思いきり抱き合った。
視線も、立場も、誇りも関係ない。
取り繕いも、言い訳もない。
ただ――
互いの弱さを、互いの腕で支え合う。
恋ではない。
依存でもない。
人生を一緒に越えてきた、かけがえのない友情が、そこにあった。
世界は動き続けているのに――
その瞬間だけ、時間は、二人のために止まっていた。
◆
涙が、少しだけ落ち着いた頃。
憂は千秋の肩に頬を押しつけたまま、くぐもった声で呟いた。
「……ほんとにさ……千秋って……びっくりするほど……意地っ張りで……めんどくさくて……」
「失礼ですわよ……っ憂さんこそ……優しいくせに、すぐ突っ走って……頑固で……扱いづらいんですのよ……!」
「はぁ!? ひどいっ!」
「事実ですわ!!」
「千秋だって!なんでも抱え込んで……一人で勝手に決めちゃうし……!そういうとこ、大嫌いなんだよ!」
「……っけれど……わたくしだって……憂さんに嫌われたくなかったんですの……!」
憂は、目にまた涙をためながら言った。
「――だから大っ嫌いなんて言ったの……ほんとはね……その反対で……わたし……千秋のこと……ずっと、大好きだったんだよ……ほんとうに……ずっと……」
千秋は泣き崩れ、それでも笑ってしまうほど嬉しそうに顔をくしゃくしゃにした。
「……わたくしも……!!憂さん……大好きですわ……!!」
二人は、もう一度抱き合う。
「……でも、ひとつだけ……」
やがて――
覚悟を決めたように、震える声が零れた。
「……憂さん。わたくし……どうしても……言わなければならないことが、ありますの……姉の雪乃さんを……愛していました」
言葉は静かだった。
けれど、その一言に込められた年月は、あまりにも重い。
「友人として、では……ありませんわ。憧れでも、依存でも……なくて……ちゃんと……恋でした。いけない想いだと……わかっていながら……それでも……消せなくて……だから……わたくしは……自分が……憂さんを愛していいのか……わからなくなって……それでも……雪乃さんへの想いと……憂さんへの気持ちは……同じではありませんの……! 雪乃さんに、すべてを捧げたかったのです……毎晩、雪乃さんのことを想って……身体が熱くなって、息が苦しくなって……わたくしは、自分で自分を慰めながら……雪乃さん、わたくしを……全部、奪ってくださいって……何度も、何度も、呟いていましたの……」
声が、嗚咽に変わる。
でも、言葉は止まらない。
堰を切ったように、溢れ出す。
千秋の指が、憂の背中に強く食い込む。
震えが止まらない。
「わたくし……自分の中の感情が……怖かったのです……雪乃さんを想う気持ちも……憂さんに向けてしまった想いも……どちらも本気で……どちらも消せなくて……わたくしは……自分が汚れているような気がして……」
憂は、すぐには答えなかった。
胸の奥で、静かに何かを抱きしめるように、一度だけ息を吸う。
「好きになる気持ちは……汚れてなんかないよ。苦しくなるくらい、本気だったんでしょ? それって……ちゃんと人を大切にしてたってことじゃない?」」
「……憂さん……」
憂は少しだけ力を込める。
「雪姉のことも、わたしのことも、ちゃんと本気で向き合ってくれたんだよね? 千秋が感じたもの、間違いじゃないよ。雪姉は……確かに、そこにいた。わたしの中に、ちゃんと……生きてた。憧れでも、依存でもなくて……恋だったって言ってくれたこと……雪乃は、きっと……救われる」
千秋の肩が、かすかに震えた。
「でも……わたくし……憂さんの中にいた雪乃さんを……結果的に……奪うようなことを……」
「奪われてない」
憂は、即座に、はっきりと言った。
「雪姉は……わたしの中で、ちゃんと役目を終えた。千秋に想われて、愛されて……それで……静かに、いなくなっただけ」
「……それでも……わたくしは……憂さん自身を……混乱させてしまった……雪乃さんと……あなたを……同時に……愛してしまって……そんな自分が……許せなくて……器の大きな憂さんに……甘えてしまった……!」
憂は、そっと首を振った。
「謝らないで」
「……え……?」
「千秋が愛したのは……二重人格なんかじゃない。雪姉も……わたしも……同じ場所で、生きてた。わたしが壊れなかったのは……千秋が、ちゃんと人として向き合ってくれたから。だから……雪姉を愛してくれていい。それを……罪だなんて……思わなくていい」
「……憂さん……」
「でも……雪姉にすべてを捧げたいと思った気持ちと、今ここにいるわたしへの想いは……同じじゃなくていい」
「……っ」
「混ざらなくていいし、比べなくていい。千秋が混乱したのは……それだけ、真剣だったから」
沈黙が落ちる。
やがて、千秋は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます……それでも……わたくしは……憂さんを……傷つけた……器の大きさに……救われてしまって……そのことに……甘えてしまった……」
憂は、ゆっくりと歩み寄り、千秋の前に立つ。
「……それでも。向き合おうとしてくれたでしょう?逃げずに、言葉にしてくれた」
「……はい……」
「わたしは、今の千秋を愛してる」
その一言だけ。
余計な飾りも、長い説明もなしに。
そのまま受け止めて、愛してるって伝える。
千秋の肩が、びくりと震えた。
新しい涙が、ぽろぽろと零れる。
でも今度の涙は、痛みだけじゃなくて、救われたような、温かいものが混じっていた。
憂は、千秋をもう一度強く抱き寄せた。
額を寄せ、耳元で囁く。
「過去も……迷いも……弱さも……全部……千秋だからわたしは……今の千秋を愛してる。それで、いいよね」
「……憂さん……ありがとうございます……」
二人は、空港の光の中で、ただ静かに、深く抱き合った。
言葉はもう、必要なかった。
今の千秋を、今の憂が、好きだという事実が、
すべてを包み込んでいた。
過去も、痛みも、秘密も――
拒まれなかった。
――それでも、愛はそこに在った。
吸って、吐く。
それだけの動作なのに、肺の奥が微かに震える。
空港の天井は高く、ガラス越しに差し込む光が床に反射している。
行き交う人々の声、スーツケースの車輪の音、アナウンスの残響――
それらすべてが、絶え間なく反響しているはずなのに。
不思議なほど、その喧騒は遠かった。
聞こえるのは、自分の鼓動だけ。
どくん、どくん、と、耳の奥で重く響いている。
目の前に立つ千秋の姿を、憂はまっすぐに見つめた。
背筋はいつも通りに伸び、立ち姿は完璧なお嬢様。
けれど、白い手袋に包まれた指先が、わずかに強張っているのを、憂は見逃さなかった。
――この人に、どうしても伝えなければならない言葉がある。
逃げない、と決めてきた。
胸が怖さでいっぱいでも、それだけは決めてきた。
だから――。
「……あのね、千秋」
声が、少しだけ震えた。
憂は一度唇を噛み、言葉が逃げないように意識してから、意を決して続ける。
「わたし……高校、合格したよ」
一瞬。
本当に、一瞬だけ――
千秋の時間が止まった。
瞬きを忘れたように、長いまつげが動かない。
言葉の意味を頭の中で反芻するための、ほんのわずかな空白。
「……合格……?」
ゆっくりと、確かめるように。
「東野に……ですの?」
「うん。……合格した」
憂は頬を赤らめながらも、視線を逸らさず、逃げずに笑った。
その瞬間――
千秋の胸の奥で、張りつめていた何かが、ぷつりと切れた。
ぱぁっと、光が差し込むように、表情が一気に明るくなる。
「まあ……!憂さん……本当に……おめでとうございますわ……っ!」
弾む声。
けれど、その音には、わずかな震えが混じっている。
千秋は思わず両手を口元に添え、溢れ出しそうな感情を必死に押さえ込んだ。
嬉しい。
それは疑いようのない、本物の喜びだった。
胸がいっぱいで、息が苦しいほどに。
――けれど。
その光は、ほんの数秒で、別の感情へと形を変えていく。
胸の奥を刺す、鋭い痛み。
言えなかった過去。
逃げてしまった時間。
千秋は、ゆっくりと視線を落とした。
「……でも、わたくし……すぐには……喜べませんでしたわね……」
「千秋……?」
千秋は、はめたままの手袋をぎゅっと握りしめる。
革がきしむ音が、小さく鳴った。
「わたくし……留学に合格したのに……あなたに……言えませんでした……」
声はかすれていた。
完璧に保ってきたお嬢様としての気品の下で、感情が震えている。
憂は、否定しなかった。
責めることも、遮ることもせず、ただ一度息を吸い、静かに頷く。
「……うん。言えなかった理由……わかるよ」
「……っ」
千秋の肩が、びくりと跳ねる。
「言ったら……あなたが……壊れてしまうと思ったのです」
目元が赤く染まり、唇が小さく震えた。
「憂さんは……優しいから……きっと……わたくしのために泣いてしまう……だったら……言わないほうがいいと……あなたに……負担をかけたくなくて……」
「壊れたりしないよ」
憂は、迷いなく言い切った。
千秋の瞳が、大きく揺れる。
「だって……千秋が決めたことだもん。わたしが泣いても……千秋の未来を止めちゃいけないって、わかってる」
そう言いながら、憂は胸元のネックレス――
千秋から贈られたエメラルドに、そっと触れた。
「ちゃんと……つけてきたよ。千秋が未来を見てほしいって言ってくれたから……
すごく……嬉しかったんだ」
宝石が光を受け、小さく揺れる。
千秋は、思わず息を呑んだ。
憂は視線を下げ、千秋の手袋を見る。
「それに……その手袋。わたしが誕生日にあげたやつ……ずっと、つけてくれてるんだね」
「……っ」
千秋の指先が、はっきりと震えた。
「……ほんとうは……毎日……つけていましたの……」
「え……?」
「ここに……憂さんの気持ちがある気がして……それだけで……胸が……温かくなって……」
言葉が、涙に変わる。
唇を噛みしめ、首を振る。
「……わたくし……とても……救われていました……でも……それだけじゃ……ありませんでした……傷つけたくなかった……それは……本当……でも……それだけなら……まだ……綺麗でした……合格した、と言ってしまったら……あなたが……笑って……おめでとうと言ってくれたら……その瞬間……わたくしは……本当に離れるという現実を……受け止めなければならなくなる……!」
涙が、ぽろりと落ちる。
声が、裏返った。
「あなたの寂しさも……あなたの強がりも……全部……真正面から……
見ることになる……! それが……怖かった……!!」
堰が切れたように、感情が溢れ出す。
千秋は、ついに声を上げて泣き出した。
「憂さんのため、なんて……優しい言葉で……本当は……自分が壊れるのを……必死に避けていただけ……!!……自分勝手で……卑怯で……そんな自分が……大嫌いで……!!」
膝が崩れ、千秋はその場で泣き崩れる。
次の瞬間――
憂は、ためらわず、思いきり千秋を抱きしめた。
強く。
逃げ場を与えないほど、強く。
けれど――優しく。
憂は、震える千秋を抱きしめた。
「……辛かったよね」
「……っ」
「ひとりで決めて、ひとりで抱えて、言えなくて……怖かったんでしょう?」
千秋の肩が崩れる。
「わたくし……自分が嫌いで……」
「嫌いにならなくていい」
迷いのない声だった。
「嘘をついたのは、誰かを傷つけたかったからじゃない。守りたかったからでしょ? 弱さじゃないよ。本気だった証拠。もう、ひとりで抱えなくていい。わたしは……千秋の味方だから」
その一言に、千秋の肩が大きく揺れた。
憂は、抱きしめる腕に、さらに力を込める。
「強いふりして……一番、自分に厳しくて……誰よりも……怖がりで……そんな千秋が……一人で耐えられるわけ……ないよ……」
「……憂……さん……っ」
「泣いていいよ壊れそうだったって……正直に言ってくれて……ありがとう」
「っ……!」
「泣きたかったんだよね……?ずっと……ずっと……一人で抱えてたんだよね……?」
「う……うぅっ……!」
千秋の涙が、ぽた、ぽた、と床に落ちる。
「憂さんに……言えなかったわたくしが……情けなくて……悔しくて……でも……会いたくて……どうしようもなく……寂しくて……っ。ごめんなさい……っごめんなさい、憂さん……っわたくし……本当はずっと……一緒にいたかったのです……!!」
千秋は崩れるように憂へしがみつく。
憂は一瞬驚き、それから強く、強く抱きとめた。
「千秋……言ってくれて……ありがとう。泣いてくれて……ありがとう……千秋の声……こんなに震えてるのに……わたしだけ泣かないなんて……そんなの……ムリだよ……」
二人の涙が混ざり、空港の真ん中で、思いきり抱き合った。
視線も、立場も、誇りも関係ない。
取り繕いも、言い訳もない。
ただ――
互いの弱さを、互いの腕で支え合う。
恋ではない。
依存でもない。
人生を一緒に越えてきた、かけがえのない友情が、そこにあった。
世界は動き続けているのに――
その瞬間だけ、時間は、二人のために止まっていた。
◆
涙が、少しだけ落ち着いた頃。
憂は千秋の肩に頬を押しつけたまま、くぐもった声で呟いた。
「……ほんとにさ……千秋って……びっくりするほど……意地っ張りで……めんどくさくて……」
「失礼ですわよ……っ憂さんこそ……優しいくせに、すぐ突っ走って……頑固で……扱いづらいんですのよ……!」
「はぁ!? ひどいっ!」
「事実ですわ!!」
「千秋だって!なんでも抱え込んで……一人で勝手に決めちゃうし……!そういうとこ、大嫌いなんだよ!」
「……っけれど……わたくしだって……憂さんに嫌われたくなかったんですの……!」
憂は、目にまた涙をためながら言った。
「――だから大っ嫌いなんて言ったの……ほんとはね……その反対で……わたし……千秋のこと……ずっと、大好きだったんだよ……ほんとうに……ずっと……」
千秋は泣き崩れ、それでも笑ってしまうほど嬉しそうに顔をくしゃくしゃにした。
「……わたくしも……!!憂さん……大好きですわ……!!」
二人は、もう一度抱き合う。
「……でも、ひとつだけ……」
やがて――
覚悟を決めたように、震える声が零れた。
「……憂さん。わたくし……どうしても……言わなければならないことが、ありますの……姉の雪乃さんを……愛していました」
言葉は静かだった。
けれど、その一言に込められた年月は、あまりにも重い。
「友人として、では……ありませんわ。憧れでも、依存でも……なくて……ちゃんと……恋でした。いけない想いだと……わかっていながら……それでも……消せなくて……だから……わたくしは……自分が……憂さんを愛していいのか……わからなくなって……それでも……雪乃さんへの想いと……憂さんへの気持ちは……同じではありませんの……! 雪乃さんに、すべてを捧げたかったのです……毎晩、雪乃さんのことを想って……身体が熱くなって、息が苦しくなって……わたくしは、自分で自分を慰めながら……雪乃さん、わたくしを……全部、奪ってくださいって……何度も、何度も、呟いていましたの……」
声が、嗚咽に変わる。
でも、言葉は止まらない。
堰を切ったように、溢れ出す。
千秋の指が、憂の背中に強く食い込む。
震えが止まらない。
「わたくし……自分の中の感情が……怖かったのです……雪乃さんを想う気持ちも……憂さんに向けてしまった想いも……どちらも本気で……どちらも消せなくて……わたくしは……自分が汚れているような気がして……」
憂は、すぐには答えなかった。
胸の奥で、静かに何かを抱きしめるように、一度だけ息を吸う。
「好きになる気持ちは……汚れてなんかないよ。苦しくなるくらい、本気だったんでしょ? それって……ちゃんと人を大切にしてたってことじゃない?」」
「……憂さん……」
憂は少しだけ力を込める。
「雪姉のことも、わたしのことも、ちゃんと本気で向き合ってくれたんだよね? 千秋が感じたもの、間違いじゃないよ。雪姉は……確かに、そこにいた。わたしの中に、ちゃんと……生きてた。憧れでも、依存でもなくて……恋だったって言ってくれたこと……雪乃は、きっと……救われる」
千秋の肩が、かすかに震えた。
「でも……わたくし……憂さんの中にいた雪乃さんを……結果的に……奪うようなことを……」
「奪われてない」
憂は、即座に、はっきりと言った。
「雪姉は……わたしの中で、ちゃんと役目を終えた。千秋に想われて、愛されて……それで……静かに、いなくなっただけ」
「……それでも……わたくしは……憂さん自身を……混乱させてしまった……雪乃さんと……あなたを……同時に……愛してしまって……そんな自分が……許せなくて……器の大きな憂さんに……甘えてしまった……!」
憂は、そっと首を振った。
「謝らないで」
「……え……?」
「千秋が愛したのは……二重人格なんかじゃない。雪姉も……わたしも……同じ場所で、生きてた。わたしが壊れなかったのは……千秋が、ちゃんと人として向き合ってくれたから。だから……雪姉を愛してくれていい。それを……罪だなんて……思わなくていい」
「……憂さん……」
「でも……雪姉にすべてを捧げたいと思った気持ちと、今ここにいるわたしへの想いは……同じじゃなくていい」
「……っ」
「混ざらなくていいし、比べなくていい。千秋が混乱したのは……それだけ、真剣だったから」
沈黙が落ちる。
やがて、千秋は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます……それでも……わたくしは……憂さんを……傷つけた……器の大きさに……救われてしまって……そのことに……甘えてしまった……」
憂は、ゆっくりと歩み寄り、千秋の前に立つ。
「……それでも。向き合おうとしてくれたでしょう?逃げずに、言葉にしてくれた」
「……はい……」
「わたしは、今の千秋を愛してる」
その一言だけ。
余計な飾りも、長い説明もなしに。
そのまま受け止めて、愛してるって伝える。
千秋の肩が、びくりと震えた。
新しい涙が、ぽろぽろと零れる。
でも今度の涙は、痛みだけじゃなくて、救われたような、温かいものが混じっていた。
憂は、千秋をもう一度強く抱き寄せた。
額を寄せ、耳元で囁く。
「過去も……迷いも……弱さも……全部……千秋だからわたしは……今の千秋を愛してる。それで、いいよね」
「……憂さん……ありがとうございます……」
二人は、空港の光の中で、ただ静かに、深く抱き合った。
言葉はもう、必要なかった。
今の千秋を、今の憂が、好きだという事実が、
すべてを包み込んでいた。
過去も、痛みも、秘密も――
拒まれなかった。
――それでも、愛はそこに在った。
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