沈黙のういザード 

豚さん

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5巻 1話 断章のグレイザード

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クリスマスの余韻が残る26日の朝。
 ダイニングには朝日がやわらかく降り注ぎ、
 白いテーブルクロスに冬の光が静かに揺れていた。

 昨夜、雪乃と千秋が連弾したピアノの音色は
 まだ耳の奥に残っている気がする。
 親子はそれぞれ、あの音を胸に抱いたまま食卓についた。

(今日……言わなければ)

 千秋は、小さな拳を膝の上できつく握りしめる。

「……わたくし、来年からドイツへ留学したいのです」

 空気が凍りつく。

 父の手が静かに止まり、
 菊子がそっと口元へ指を添えた。

「ドイツへ……?」

 その声は驚きと不安と誇らしさが混ざっていた。

「ええ。
 雪乃さんから託された音を深く理解するために。
 そして、わたくし自身の“音楽”を見つけたくて」

 千秋の瞳は迷っていない。

「中学の必要単位は取得済みです。
 残りの期間は休学し……留学の準備を進めたいと思っています」

 そして、千秋は意を決して続けた。

「白凰女学院の推薦と東野高校の受験は……辞退いたします」

 菊子の瞳が揺れる。

「急な話となり……本当に申し訳ございません」

 深く深く頭を下げた。

「手続きや費用のことも……
 すべて、ご迷惑をおかけすることに……」

 その声は震えていた。

 親の負担になるくらいなら、自分の夢なんて……
 そう思っていた子供だった。

 けれど――
 今は違う。

 父がゆっくりと立ち上がった。
 低く、落ち着いた声が落ちてくる。

「千秋」

 鋭い瞳が、優しく緩む。

「昨夜のお前の音を聴いて……
 思ったのだ。
 もう、親の手の中に収まる少女ではないと」

 千秋は息を呑む。

「誇りだよ。
 自分の未来を、自分で選んだことが」

 その言葉は力強く、揺るぎなかった。

 菊子が千秋の手を包み込む。

「お手続きはすべてわたくしたちに任せなさい。
 あなたは“音楽”だけ見ていればいいの」

「お母様……」

「寂しいことは寂しい。けれど――」

 穏やかな笑みに決意が宿る。

「あなたが望む未来へ行くのを
 止めてしまう親にはなりたくありません」

 涙が滲む。

 そこへ、背後から穏やかな声。

「お嬢様が行かれる場所なら、どこへでもお供いたします」

 メイド長・石田が、静かに進み出た。

「留学中の生活や心身の管理は、私が責任を持ちます。
 受験手続きも、現地との連絡もお任せください」

 心強い声に、千秋は胸が熱くなる。

「石田さん……ありがとうございます」

 父が頷く。

「我々だけでは不安だろう。
 石田君がいれば、安心して送り出せる」

 千秋は息を震わせながら、言葉を絞り出した。

「……ありがとうございます。
 わがままを……聞いてくださって」

 菊子は優しく微笑む。

「千秋。それは“わがまま”ではありませんわ」

「お前が初めて、
 本心を見せてくれたのだからな」

 父の声が重なる。


 千秋は視線を落とし、
 テーブルの横に置かれた一枚の楽譜へ目を向けた。

 《Untitled》

 雪乃が遺した、未完成の曲。
 師の願い。弟子への期待。
 そして門出の証。

(雪乃さん……
 この続きを、必ずドイツで)

 菊子がそっと微笑む。

「これは一日遅れの……
 最高のクリスマスプレゼントね」

「……はい!」

 涙ではなく、笑顔で応えた。

 冬の空気に、静かな春の気配が混じる。

 三人と一人の影が重なり、
 千秋の新しい季節が――音を立てて動き始めた。



 その瞬間――
 家族の声が重なった食卓に、
 温かな空気がふっと満ちた。

「……ただし千秋」

 父が眼差しを細める。

「外国で……泣かされたら、俺は迎えに行く」

「えっ……」

 菊子も、ふわりと笑って言った。

「うふふ。変な子が近づいたら、わたくしが干し椎茸にしちゃいますわ」

「……お母様、その基準が曖昧すぎません?」

 そこへ石田が静かに前へ出る。

「お嬢様の安全は、常に私の最優先事項です。
 必要と判断した場合は——速やかに排除いたします」

「排除って言いましたわね!?」

 思わずツッコミを入れてしまい、
 その声に家族が笑った。

 なんて騒がしくて……
 なんて、愛しい。


 気づけば、スプーンを握る手が震えていた。
 胸の奥がじんわり熱くなる。

 ――一口、ポトフを口に運ぶ。

 冷めかけているはずなのに、
 どうしてだろう。

(……すごく、おいしい)

 笑いと、想いと、ぬくもりのしるし。
 新しい旅立ちの朝にふさわしい味だった。
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