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30話 旅立ちと、わたしたちの第一歩
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銀色の機体が、滑走路の先で角度を変えながら、
冬の薄い空へゆっくりと吸い込まれていった。
もう手を伸ばしても届かない高さ。
だけど、胸の奥はまだ熱くて、痛いほどだった。
憂と葉月は、広いガラス越しにじっとその背中を見送っていた。
「……行っちゃった、ね」
「ええ……千秋ちゃん、立派に羽ばたきましたわねぇ……
冬の空に、あの子の決意が細い光になって描かれていくみたい……」
「葉月姉、なんかもう詩人になってるよ?」
「お姉さまは常に芸術と共に生きておりますのよ」
憂は苦笑しながらも、
その横顔が泣いていないことに、少しだけ安心した。
――泣いたら、きっと止まらなくなる。
だから葉月は、わざと大げさに、詩人みたいに言う。
別れの痛みを、笑いに変えるために。
葉月は、ガラスの向こうの空を見上げたまま、
少しだけ声の調子を変えて言った。
「……大丈夫よ、憂ちゃん」
ふざけた調子は消えて、姉としての、まっすぐな声だった。
「千秋ちゃんの旅立ち、きっと天国の雪姉ちゃんも見てるわ」
冬の空の、いちばん高いところを指でなぞる。
「“行っておいで”って、あの人らしい顔で、ちゃんと見送ってるはずよ」
憂は、少し驚いたように葉月を見る。
「……雪姉……」
「ええ」
葉月は、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
「心配性なくせに、肝心なときは誰より格好つける人だもの」
それから、いつもの調子に戻る前の、短い静けさ。
「だからあたしたちが下を向いてたら、絶対、怒られるわよ」
憂は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだね」
胸の奥の熱が、少しだけ、やさしい形に変わる。
涙ばかりの別れじゃなくて、こうして笑えて、前を向ける余白が残っていることが、今は不思議と救いだった。
◆
けれど、胸の奥の熱はまだ残っている。
ガラスの向こうの空が、ほんの少し遠くなったぶんだけ、
足元の現実がやけに広く、静かに感じられた。
「そういえば葉月姉……さっきまで奥で誰かと喋ってたよね?」
「んふふ……憂ちゃん、気づいてたのねぇ?」
葉月は胸の前で指を組み、
“お姉ちゃんが大事な話するよ~”とでも言いたげに、にやりと笑う。
――その笑い方は、いつもより少しだけ作っている。
沈んだ空気に引きずられないように、
自分で自分を持ち上げるみたいな笑顔だった。
「ほら、友情の邪魔しちゃ悪いでしょ?だからちょっと離れて見守ってたの。
それでね、そのあと石田さんにご挨拶してたのよ?」
「へぇ……仲良しなんだ」
「そりゃ仲良しよ~。だってお姉ちゃん、あの人のこと――
憧れの上司として、大好きなんだもん!」
「憧れの……上司!?」
「そうよ~!仕事も家のこともきっちりしてて、誰かを支えるのが当たり前みたいな顔してるでしょ?
ああいう人を見るとね、背筋が自然と伸びちゃうのよ」
「なるほど……“尊敬の大好き”か……」
「そうそう、“師匠みたいな大好き”ね。
恋じゃなくて、“ああなりたい!”っていうやつ!」
そこで葉月は、胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、
少しだけ表情を引き締めた。
そして胸に手を当て、声をひとつ、落として続ける。
「……あの人を見てたらね……
急に胸の奥が、ぶわって熱くなっちゃって……」
葉月は、少し照れたように笑う。
「“ああなりたい”って思った瞬間、感情が一気に溢れちゃって……
気づいたら、石田さんの胸にガバッて顔突っ込んでたのよ……」
「泣いたの葉月姉のほう!?!?」
「そうよ!?だってさ、強くて、優しくて、
弱いところをちゃんと受け止めてくれる大人でしょ?」
「……うん」
「そんな人を前にしたら、我慢なんてできなくなるわよ。止まらなかったの」
「石田さん絶対困ってたでしょ……」
「すっごく困ってた顔してた~!でもね、お姉ちゃん、どうしても伝えたい“想い”があったの」
葉月はすっと背筋を伸ばす。
その仕草だけは、どこか大人びていた。
――ここまで真剣だと、逆に嫌な予感がする。
冬の空気が、憂の背中をひやりと撫でた。
「お姉ちゃん……最後のわがまま、言っちゃったの」
「いやな予感しかしないけど……なにを?」
葉月は胸をぽよん、と軽く押し上げる。
「石田さ~ん……旅立ちの前に……お別れのパフパフ、お願いできますかぁって」
「自分から頼んだのぉぉぉ!?!?」
「そうよ!? 胸で送り出すのが、ここでは文化よ!!」
「そんな文化ないよ!!?」
だが葉月は、急に憂へ顔を寄せ――
完全に真顔になった。
「憂ちゃん……ひとつだけ言わせて」
「え……な、なに……?」
「お別れパフパフ……感触、ガチですごかったです……」
「真顔で言うなぁぁぁぁ!!」
葉月は遠くを見つめ、まるで修羅場をくぐった兵士のような目で語る。
「石田さんの胸……あれは反則ね……
抱きしめられた瞬間……心まで……とろけそうになったの……」
「そんな体験談いらないってばぁぁぁ!!」
「ほんとにヤバいの!石田さんが男の人だったら……
お姉ちゃん、絶対恋落ちしてたわね……」
「千秋の近くでなにしてんの葉月姉ぇぇぇ!!」
憂が全力で叫ぶと、葉月はにやにやしながら、
その指先は軽いのに、どこか“今ここにいる”を確かめるみたいに優しい。
「でもさ~、憂ちゃんだって千秋ちゃんのお母様にめちゃくちゃ甘えてたでしょ?
だからお姉ちゃんも、ちょ~っとくらい……ね?」
「……まぁ……甘えたけど……」
そう答えた瞬間、憂の脳裏に、あのクルーズ船の夜がよみがえった。
波の音。
揺れる床。
優しく肩を抱かれて、「甘えたいときに甘えていいのですよ」と言われた、あの声。
(……あれは……仕方なかったんだもん……)
知らない場所で、不安で、少しだけ心細くて。
(甘えたくなるの、普通だよ……)
――そう思っても、
葉月に言われると、急に反論できなくなる。
図星だったから。
自分でも、ちゃんと覚えているから。
「んふふ、可愛い憂ちゃん」
頭を撫でられて、余計に悔しくなる。
(……言い返せない……)
胸の奥が、むずむずして、でも涙にはならなくて、代わりに出てきたのは、子どもみたいな反発だった。
憂は、むくっと頬を膨らませて言う。
「……もう。葉月姉なんて……いじわるで、きらーい」
「…………………………えっ?」
葉月の顔色が、冗談ではなく――
本当に、秒で真っ白になった。
さっきまで弾んでいた表情から、血の気がすっと引いていく。
「い、今……なんて言ったの……?」
乾いた声。
耳を疑うように、ゆっくりと憂を見る。
「お姉ちゃんのこと……き……きら……?」
喉の奥で言葉が詰まる。
それは冗談を否定するための聞き返しではなく、本気で心臓を握られた人の反応だった。
「あ、いや……その……」
憂が言い直す前に――
「いやあああああああああぁぁぁぁぁ!!」
空港の天井に反響する悲鳴。
「憂ちゃああああん!!
お姉ちゃんを嫌いって言わないでぇぇぇぇ!!」
「近い近い近い!!」
次の瞬間――
葉月が羽ばたくように両腕を広げ、一直線に突進してくる。
メイド業で鍛えられた身のこなし。
仕事用に封印されていた俊敏さが、
妹への愛情という名の暴走に全振りされていた。
「憂ちゃああああん!!
ぎゅーーってさせてぇぇぇ!!」
「ひっ……! 来ないでぇぇ!!」
反射的に後ずさる憂。
周囲の視線が一斉に集まるのが、嫌でも分かる。
――空港の静けさの中で、姉妹の声だけが、やけに鮮明だ。
だが葉月は止まらない。
距離は一瞬で詰まり――
「ほらほらほらぁぁぁ!!お姉ちゃんの愛の抱擁を受け取りなさぁぁい!!」
「受け取らないよ!! やだ!! 今はほんとにやだ!!」
ばっ、と伸びた腕。
避けた――はずだった。
「むぎゅっ!!」
「わわわっ!? 捕まったぁぁぁ!!」
ついに、葉月の腕の中に引きずり込まれる。
やわらかくて、温かい。
家の中なら安心できる、いつもの抱擁。
けれど――今は違う。
「憂ちゃ~~ん……嫌いって言われたら……心が……心がしぬのよぉぉ……!!」
声は本気だった。
大げさな言い回しの奥に、拒絶への純粋すぎる恐怖が滲んでいる。
「ちょ、ちょっ……! 苦しい苦しい!! 葉月姉、離して!!」
慣れている。
でも場所と状況が最悪だった。
「いやよ!! 離さない!! 憂ちゃんが“すき”って言うまで絶対はなさなぁぁい!!」
「言わない!! こわいこわいこわい!!」
「こわくなんてないわよぉ!!」
そのまま後ろから抱き寄せ、完全包囲。
「観念しなさぁい……これがお姉ちゃんの、本気の抱擁よ……!」
頬が当たり、すり……すり……と擦られる。
「やめて!! 顔ほおずらないでぇぇ!!」
さらに――
「……くん」
「今、嗅いだよね!? 絶対、嗅いだよね!?」
「嗅いだわぁ……」
即答だった。
しかも、どこか安心したような声。
「だって……憂ちゃん、すごくフレッシュでフルーティなんだもの……」
「言い方!! それ以上、説明しないで!!」
葉月は目を閉じ、言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「甘すぎない果物みたいな香りで……朝の空気みたいに軽くて、ちゃんと清潔で、やさしくて……」
「解説やめてってば!! ここ空港!!」
「女の子特有の、女性ホルモンとシャンプーが混ざった、“いい匂い”ってやつ……」
「言い切るなぁぁ!!」
頬ずり、すりすり、くんくん。
「これは姉としての生存確認行為よ……」
「聞いたことない!!」
満たされたように、葉月は少しだけ力を緩める。
「……うん。大丈夫。ちゃんと妹だった」
「基準おかしい……」
その隙を逃さず、憂は身体をひねって抜け出した。
「やっと……離れられた……!!」
「いやあああ!!憂ちゃあああん!!まだ嗅がせて――」
「追ってこないで!!変態!!」
「変態じゃないわよ!! 愛よ! 愛!!」
空港のガラス窓に、追いかける姉と逃げる妹の影が、長く、くっきりと伸びている。
旅立ちの静けさの中で、この姉妹だけが、やけに騒がしい。
――けれど、その騒がしさは、別れの寂しさを笑いに変えるためのものだった。
千秋の旅立ちの余韻に、あたたかくて、どうしようもなく騒がしい姉妹の時間が、そっと、花を添えていた。
冬の薄い空へゆっくりと吸い込まれていった。
もう手を伸ばしても届かない高さ。
だけど、胸の奥はまだ熱くて、痛いほどだった。
憂と葉月は、広いガラス越しにじっとその背中を見送っていた。
「……行っちゃった、ね」
「ええ……千秋ちゃん、立派に羽ばたきましたわねぇ……
冬の空に、あの子の決意が細い光になって描かれていくみたい……」
「葉月姉、なんかもう詩人になってるよ?」
「お姉さまは常に芸術と共に生きておりますのよ」
憂は苦笑しながらも、
その横顔が泣いていないことに、少しだけ安心した。
――泣いたら、きっと止まらなくなる。
だから葉月は、わざと大げさに、詩人みたいに言う。
別れの痛みを、笑いに変えるために。
葉月は、ガラスの向こうの空を見上げたまま、
少しだけ声の調子を変えて言った。
「……大丈夫よ、憂ちゃん」
ふざけた調子は消えて、姉としての、まっすぐな声だった。
「千秋ちゃんの旅立ち、きっと天国の雪姉ちゃんも見てるわ」
冬の空の、いちばん高いところを指でなぞる。
「“行っておいで”って、あの人らしい顔で、ちゃんと見送ってるはずよ」
憂は、少し驚いたように葉月を見る。
「……雪姉……」
「ええ」
葉月は、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
「心配性なくせに、肝心なときは誰より格好つける人だもの」
それから、いつもの調子に戻る前の、短い静けさ。
「だからあたしたちが下を向いてたら、絶対、怒られるわよ」
憂は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだね」
胸の奥の熱が、少しだけ、やさしい形に変わる。
涙ばかりの別れじゃなくて、こうして笑えて、前を向ける余白が残っていることが、今は不思議と救いだった。
◆
けれど、胸の奥の熱はまだ残っている。
ガラスの向こうの空が、ほんの少し遠くなったぶんだけ、
足元の現実がやけに広く、静かに感じられた。
「そういえば葉月姉……さっきまで奥で誰かと喋ってたよね?」
「んふふ……憂ちゃん、気づいてたのねぇ?」
葉月は胸の前で指を組み、
“お姉ちゃんが大事な話するよ~”とでも言いたげに、にやりと笑う。
――その笑い方は、いつもより少しだけ作っている。
沈んだ空気に引きずられないように、
自分で自分を持ち上げるみたいな笑顔だった。
「ほら、友情の邪魔しちゃ悪いでしょ?だからちょっと離れて見守ってたの。
それでね、そのあと石田さんにご挨拶してたのよ?」
「へぇ……仲良しなんだ」
「そりゃ仲良しよ~。だってお姉ちゃん、あの人のこと――
憧れの上司として、大好きなんだもん!」
「憧れの……上司!?」
「そうよ~!仕事も家のこともきっちりしてて、誰かを支えるのが当たり前みたいな顔してるでしょ?
ああいう人を見るとね、背筋が自然と伸びちゃうのよ」
「なるほど……“尊敬の大好き”か……」
「そうそう、“師匠みたいな大好き”ね。
恋じゃなくて、“ああなりたい!”っていうやつ!」
そこで葉月は、胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、
少しだけ表情を引き締めた。
そして胸に手を当て、声をひとつ、落として続ける。
「……あの人を見てたらね……
急に胸の奥が、ぶわって熱くなっちゃって……」
葉月は、少し照れたように笑う。
「“ああなりたい”って思った瞬間、感情が一気に溢れちゃって……
気づいたら、石田さんの胸にガバッて顔突っ込んでたのよ……」
「泣いたの葉月姉のほう!?!?」
「そうよ!?だってさ、強くて、優しくて、
弱いところをちゃんと受け止めてくれる大人でしょ?」
「……うん」
「そんな人を前にしたら、我慢なんてできなくなるわよ。止まらなかったの」
「石田さん絶対困ってたでしょ……」
「すっごく困ってた顔してた~!でもね、お姉ちゃん、どうしても伝えたい“想い”があったの」
葉月はすっと背筋を伸ばす。
その仕草だけは、どこか大人びていた。
――ここまで真剣だと、逆に嫌な予感がする。
冬の空気が、憂の背中をひやりと撫でた。
「お姉ちゃん……最後のわがまま、言っちゃったの」
「いやな予感しかしないけど……なにを?」
葉月は胸をぽよん、と軽く押し上げる。
「石田さ~ん……旅立ちの前に……お別れのパフパフ、お願いできますかぁって」
「自分から頼んだのぉぉぉ!?!?」
「そうよ!? 胸で送り出すのが、ここでは文化よ!!」
「そんな文化ないよ!!?」
だが葉月は、急に憂へ顔を寄せ――
完全に真顔になった。
「憂ちゃん……ひとつだけ言わせて」
「え……な、なに……?」
「お別れパフパフ……感触、ガチですごかったです……」
「真顔で言うなぁぁぁぁ!!」
葉月は遠くを見つめ、まるで修羅場をくぐった兵士のような目で語る。
「石田さんの胸……あれは反則ね……
抱きしめられた瞬間……心まで……とろけそうになったの……」
「そんな体験談いらないってばぁぁぁ!!」
「ほんとにヤバいの!石田さんが男の人だったら……
お姉ちゃん、絶対恋落ちしてたわね……」
「千秋の近くでなにしてんの葉月姉ぇぇぇ!!」
憂が全力で叫ぶと、葉月はにやにやしながら、
その指先は軽いのに、どこか“今ここにいる”を確かめるみたいに優しい。
「でもさ~、憂ちゃんだって千秋ちゃんのお母様にめちゃくちゃ甘えてたでしょ?
だからお姉ちゃんも、ちょ~っとくらい……ね?」
「……まぁ……甘えたけど……」
そう答えた瞬間、憂の脳裏に、あのクルーズ船の夜がよみがえった。
波の音。
揺れる床。
優しく肩を抱かれて、「甘えたいときに甘えていいのですよ」と言われた、あの声。
(……あれは……仕方なかったんだもん……)
知らない場所で、不安で、少しだけ心細くて。
(甘えたくなるの、普通だよ……)
――そう思っても、
葉月に言われると、急に反論できなくなる。
図星だったから。
自分でも、ちゃんと覚えているから。
「んふふ、可愛い憂ちゃん」
頭を撫でられて、余計に悔しくなる。
(……言い返せない……)
胸の奥が、むずむずして、でも涙にはならなくて、代わりに出てきたのは、子どもみたいな反発だった。
憂は、むくっと頬を膨らませて言う。
「……もう。葉月姉なんて……いじわるで、きらーい」
「…………………………えっ?」
葉月の顔色が、冗談ではなく――
本当に、秒で真っ白になった。
さっきまで弾んでいた表情から、血の気がすっと引いていく。
「い、今……なんて言ったの……?」
乾いた声。
耳を疑うように、ゆっくりと憂を見る。
「お姉ちゃんのこと……き……きら……?」
喉の奥で言葉が詰まる。
それは冗談を否定するための聞き返しではなく、本気で心臓を握られた人の反応だった。
「あ、いや……その……」
憂が言い直す前に――
「いやあああああああああぁぁぁぁぁ!!」
空港の天井に反響する悲鳴。
「憂ちゃああああん!!
お姉ちゃんを嫌いって言わないでぇぇぇぇ!!」
「近い近い近い!!」
次の瞬間――
葉月が羽ばたくように両腕を広げ、一直線に突進してくる。
メイド業で鍛えられた身のこなし。
仕事用に封印されていた俊敏さが、
妹への愛情という名の暴走に全振りされていた。
「憂ちゃああああん!!
ぎゅーーってさせてぇぇぇ!!」
「ひっ……! 来ないでぇぇ!!」
反射的に後ずさる憂。
周囲の視線が一斉に集まるのが、嫌でも分かる。
――空港の静けさの中で、姉妹の声だけが、やけに鮮明だ。
だが葉月は止まらない。
距離は一瞬で詰まり――
「ほらほらほらぁぁぁ!!お姉ちゃんの愛の抱擁を受け取りなさぁぁい!!」
「受け取らないよ!! やだ!! 今はほんとにやだ!!」
ばっ、と伸びた腕。
避けた――はずだった。
「むぎゅっ!!」
「わわわっ!? 捕まったぁぁぁ!!」
ついに、葉月の腕の中に引きずり込まれる。
やわらかくて、温かい。
家の中なら安心できる、いつもの抱擁。
けれど――今は違う。
「憂ちゃ~~ん……嫌いって言われたら……心が……心がしぬのよぉぉ……!!」
声は本気だった。
大げさな言い回しの奥に、拒絶への純粋すぎる恐怖が滲んでいる。
「ちょ、ちょっ……! 苦しい苦しい!! 葉月姉、離して!!」
慣れている。
でも場所と状況が最悪だった。
「いやよ!! 離さない!! 憂ちゃんが“すき”って言うまで絶対はなさなぁぁい!!」
「言わない!! こわいこわいこわい!!」
「こわくなんてないわよぉ!!」
そのまま後ろから抱き寄せ、完全包囲。
「観念しなさぁい……これがお姉ちゃんの、本気の抱擁よ……!」
頬が当たり、すり……すり……と擦られる。
「やめて!! 顔ほおずらないでぇぇ!!」
さらに――
「……くん」
「今、嗅いだよね!? 絶対、嗅いだよね!?」
「嗅いだわぁ……」
即答だった。
しかも、どこか安心したような声。
「だって……憂ちゃん、すごくフレッシュでフルーティなんだもの……」
「言い方!! それ以上、説明しないで!!」
葉月は目を閉じ、言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「甘すぎない果物みたいな香りで……朝の空気みたいに軽くて、ちゃんと清潔で、やさしくて……」
「解説やめてってば!! ここ空港!!」
「女の子特有の、女性ホルモンとシャンプーが混ざった、“いい匂い”ってやつ……」
「言い切るなぁぁ!!」
頬ずり、すりすり、くんくん。
「これは姉としての生存確認行為よ……」
「聞いたことない!!」
満たされたように、葉月は少しだけ力を緩める。
「……うん。大丈夫。ちゃんと妹だった」
「基準おかしい……」
その隙を逃さず、憂は身体をひねって抜け出した。
「やっと……離れられた……!!」
「いやあああ!!憂ちゃあああん!!まだ嗅がせて――」
「追ってこないで!!変態!!」
「変態じゃないわよ!! 愛よ! 愛!!」
空港のガラス窓に、追いかける姉と逃げる妹の影が、長く、くっきりと伸びている。
旅立ちの静けさの中で、この姉妹だけが、やけに騒がしい。
――けれど、その騒がしさは、別れの寂しさを笑いに変えるためのものだった。
千秋の旅立ちの余韻に、あたたかくて、どうしようもなく騒がしい姉妹の時間が、そっと、花を添えていた。
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