沈黙のういザード 

豚さん

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31話 狂気

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 空港に到着し、入国ゲートを抜けた直後——
 千秋のスマホが震えた。

 画面には 『母・菊子』 の文字。
 千秋は一瞬だけ息を止め、
 深く覚悟を決めて通話ボタンを押した。

「……お母様?」

『千秋。無事に到着したようで、なによりですわ』

 優雅で落ち着いた声。
 しかしその奥に、わずかな寂しさが滲んでいる。

『千秋……あの日のタロットを覚えておりますか?』

 千秋は息をのみ、握る手に少しだけ力が入った。

「……“審判(逆位置)”ですね」

『ええ。あの日、あなたの未来に出たあのカードは——
 本来は“再生しない未来”と読まれるものです』

 静かな声の裏に、重みがある。

『けれど……わたくしは違う意味を感じましたの。
 あれは “逆再生(Reverse)” 』

「逆再生……?」

『ええ。
 “もう一度、始まりへ戻り、
  壊れたものを自力で作り直す”——
 そんな暗示でございました』

 千秋の胸がきゅっと鳴る。

(……壊れたもの……作り直す……)

『千秋。
 あなたは雪乃さんの音に触れ、
 憂さんの涙に触れ、
 自分の心ごと揺さぶられたでしょう』

 図星。
 千秋は唇を震わせた。

「……はい。
 わたくし……この留学で……
 いえ、この“別れ”で……
 たくさんのものが壊れた気がします」

『壊れるのは悪ではありません。
 壊れたものを見つめ、
 拾い集め、
 新しい音に変えなさい』

 母の声は、まるで未来の扉を指さしているようだった。

『千秋。
 雪乃さんはあなたの中にまだいます。
 あなたの音にも、あなたの涙にも、
 その選択にも』

 千秋はぎゅっと胸に手を置いた。

「……お母様。
 では……わたくしは、どう生きれば……
 雪乃さんの残したものを、
 前へ進められますの?」

『向き合いなさい。
 そして、鳴らしなさい。
 “あなたの音”で雪乃さんを
 未来へ連れていきなさい』

(わたくしの……音で……)

『それにね、千秋——』

 優しく微笑む気配がした。

『あなた、強くなりましたわ。
 初恋をひとつ抱えただけで』

「お母様っ……!」

 千秋の頬を熱い涙が伝う。

『千秋。
 “審判(逆位置)”は終焉のカードではありません。
 これは——
 新しい季節の、最初の鐘の音ですわ』

 電話は静かに切れた。

✦ 

 通話が途切れたあと、
 千秋はしばらくその場に立ち尽くした。

 空港の喧騒は遠い。
 耳元で揺れる銀のイヤリングだけが、
 憂の存在を確かめるようにそっと触れ続ける。

(……雪乃さん。
 お母様は“未来へ連れていけ”と言いましたけれど)

 千秋の瞳が、ふっと細められた。

(わたくしが本当に願っているのは……
 ただ前へ進むことではありませんわ)

 そこには優しさも愛情もある。
 けれど——その奥で、もう一つの色が燃えていた。

 雪乃の遺した音を背負う覚悟。
 あの事件の真相を追う執念。
 そして——誰にも言えない、ただひとつの秘密。

 千秋は唇を震わせ、
 かすかに笑みを浮かべた。

(憂さん……
 あなたにはまだ、言えていないことがありますの)

 優しいようで、どこか狂気じみた微笑。

(あの日あなたが泣いた瞬間……
 わたくしは知ってしまったのです)

(——あなたを手放すなんて、
 もうできない、と)

 胸の奥で、何かがゆっくりと形を変えた。

 雪乃への憧れも、罪も、愛も、哀しみも——
 すべてが渦を巻き、鋭さを帯びていく。

(雪乃さんの影?
 あれを断ち切る?
 いいえ——違いますわ)

(わたくしが断ち切りたいのは……
 “弱かった過去の自分”)

 指先がイヤリングに触れた。

(そして、憂さん——
 あなたが未来で誰かに奪われる未来)

 千秋の微笑みは、美しくも危うい線を描いた。


 千秋の唇が、ゆっくりと弧を描いた。
 涙とも笑みともつかない、危うい線。

「未来の音は、わたくしが鳴らしますわ。……必ず」

 それは宣言だった。
 誓いであり、覚悟であり、
 雪乃の影を断ち切るための、静かな報仇の始まりでもあった。

 誰に告げるでもない言葉。
 だけど、その響きは
 もう後戻りのできない“運命の音”として
 確かに空間に刻みつけられた。


——そして。

 ほんの一瞬、
 空港の冷たい照明を受けた千秋の横顔に、
 “かつて雪乃が最後に見せた”
 あの、不気味なほど美しい微笑が重なった。

 優しさと狂気の境目に立つ者だけが持つ、
 限りなく冷たく、そして熱い笑み。

 胸の奥で凍りついた決意が、
 静かに燃え上がる狂気へと変わる瞬間だった。

 その微笑は、
 雪乃という呪いでもあり、祝福でもあり、
 千秋の中に確かに受け継がれた“闇の音色”を
 世界へ刻む予兆のように——
 ひどく美しく、ひどく危うく、
 ゆっくりと、夜の気配を帯びて消えていった。
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