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4話 再会
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――少し、待たされた。
障子の向こうに、人の気配はない。
屋敷全体が、まるで息を潜めているかのようだった。
広い和室。
磨き込まれた柱と、淡い光を含んだ障子。
音という音が吸い込まれてしまいそうな、静謐な空間。
畳の上に正座したまま、
背筋は伸ばしているのに、
時間だけが、じわじわと心を締めつけてくる。
静かすぎる。
あまりにも、静かだ。
時計の音すら聞こえない待ち時間は、
自分の呼吸と、心臓の音だけをやけに大きく感じさせる。
緊張のせいか、
喉が、ひりつくように渇いていた。
(……一口だけ……)
憂はためらいながら、
そっと湯呑を両手で包み込む。
陶器越しに伝わる、やさしい温度。
持ち上げた瞬間、
湯気とともに、深く澄んだ香りが立ちのぼった。
唇に触れた、その刹那――
舌の上に広がる、
濃く、柔らかな旨み。
(……玉露だ……)
苦味はほとんどなく、
ただ、静かに、体の奥へ沁みていく。
張りつめていた心拍が、
ほんのわずかに落ち着いた、そのとき――
――バンッ。
障子が、勢いよく開いた。
「……ちょっと。
なにその、湿っぽい顔」
鋭く、よく通る声。
反射的に顔を上げた憂の視界に、
ぱっと白が飛び込んできた。
白凰女学院の制服。
きっちり整えられたブレザー。
きらりと光るボタン。
そして――
金色の髪。
今日はツインテールではない。
肩の横で一つにまとめられた、
軽く跳ねるサイドテール。
「……リナ……!」
その姿を認識した瞬間、
憂の胸の奥で、張りつめていた糸が一気にほどけた。
不安。
緊張。
この屋敷に足を踏み入れてから、
無意識のうちに溜め込んでいた重たいものが、
音を立てて崩れていく。
(……よかった……)
理由なんて、考えなくていい。
ただ――ここに、知っている人がいる。
自分の名前を呼んでくれる人がいる。
それだけで、世界がちゃんと現実に戻ってきた気がした。
「リナ……!
日本に来てくれたんだ……!」
声が、少し上ずる。
自分でも驚くほど、嬉しさが抑えきれなかった。
あの夏のクルーズ以来だ。
同じ空間で、同じ距離で、こうして顔を合わせるのは。
憂の目は、自然とリナの姿を追っていた。
変わらない金色の髪。
強気な目つき。
けれど、その視線が――
まっすぐ自分に向いていることが、どうしようもなく、嬉しい。
「なによ。入学式初日から、お通夜みたいな空気まとって」
リナは鼻で小さく笑い、腕を組み、呆れたようにため息をつく。
その視線は鋭く、どこか馬鹿にしたようで――けれど、間違いなく憂を見ていた。
「……だって」
憂は小さく息を吸い、言葉を選ぶように続ける。
「入学式ひとりだったし、知らない場所で、知らない人ばっかりで……」
一瞬、視線を落としてから、そっと顔を上げる。
「でも……リナの顔、見たら。一気に安心した」
「はぁ?」
リナは眉をひそめる。
「なにそれ。重いんだけど」
「ち、違う!そういう意味じゃなくて……!」
慌てて手を振りながら、それでも、正直に言う。
「……来てくれて、嬉しかったの。本当に」
「はぁ? 当たり前でしょ」
リナは肩をすくめ、ぷい、と視線を逸らす。
「……別に。放っておくわけ、ないでしょ」
その声はぶっきらぼうで、相変わらず強気なのに――
耳元だけが、ほんのり赤かった。
その瞬間、夏のクルーズ船の記憶が、鮮やかによみがえる。
張り詰めた空気。
甲板に響いた、鋭くも美しい音。
プロの演奏家としか思えない、リナのバイオリン。
「……リナ……!」
安心が一気に込み上げ、憂は思わず立ち上がろうとして――
足に、びりっ、と痺れが走る。
「いっ……!」
その場でよろけ、抱きつこうとした体勢のまま、動けなくなる。
「あーあ」
リナは、心底やれやれという顔をした。
「正座なんかしてるからよ」
「だ、だって……待合室って言われたから……!」
「ほんと、まだまだお子様ね」
そう言いながら、
リナは屈み込み――
「ほら。動かないで」
「え、ちょ……!」
指先が、憂の足首に触れる。
「ほれほれ。血、回してあげる」
「リ、リナ……!」
からかうようで、でも、手つきは妙に慣れていて、優しい。
「なに赤くなってんのよ。……ばか」
その距離の近さに、憂の鼓動が早まる。
玉露の香り。
畳の匂い。
金色の髪が、すぐそばで揺れている。
触れれば、何かが変わってしまいそうな沈黙が、ふわりと、その場を包み込んだ。
――とん。
――とん。
廊下の奥から、ゆっくりとした足音が近づく。
空気が、変わる。
「……来たわね」
リナが、低く呟いた。
いつもの軽口は消え、声音だけが、すっと研ぎ澄まされている。
憂は、ふと気づく。
リナの指先が、ほんの少しだけ、強く握られていることに。
(……緊張してる……?)
その事実が、
胸に、小さな痛みを落とした。
「……リナ。大丈夫……?」
小さく声をかけると、リナは一瞬だけこちらを見て――
すぐに視線を逸らす。
「……は?あたしが?」
強がる声。
でも、ほんの一拍、間があった。
「……相手が相手なだけよ」
それだけ言って、憂の手をそっと払うこともせず、そのまま隣に座る。
ふたり並んで、障子の前。
そして――
向こう側に、はっきりと立つ気配。
障子の向こうで、誰かが、静かに微笑んだ気配がした。
憂は、リナのすぐそばで、そっと、息を整えた。
障子の向こうに、人の気配はない。
屋敷全体が、まるで息を潜めているかのようだった。
広い和室。
磨き込まれた柱と、淡い光を含んだ障子。
音という音が吸い込まれてしまいそうな、静謐な空間。
畳の上に正座したまま、
背筋は伸ばしているのに、
時間だけが、じわじわと心を締めつけてくる。
静かすぎる。
あまりにも、静かだ。
時計の音すら聞こえない待ち時間は、
自分の呼吸と、心臓の音だけをやけに大きく感じさせる。
緊張のせいか、
喉が、ひりつくように渇いていた。
(……一口だけ……)
憂はためらいながら、
そっと湯呑を両手で包み込む。
陶器越しに伝わる、やさしい温度。
持ち上げた瞬間、
湯気とともに、深く澄んだ香りが立ちのぼった。
唇に触れた、その刹那――
舌の上に広がる、
濃く、柔らかな旨み。
(……玉露だ……)
苦味はほとんどなく、
ただ、静かに、体の奥へ沁みていく。
張りつめていた心拍が、
ほんのわずかに落ち着いた、そのとき――
――バンッ。
障子が、勢いよく開いた。
「……ちょっと。
なにその、湿っぽい顔」
鋭く、よく通る声。
反射的に顔を上げた憂の視界に、
ぱっと白が飛び込んできた。
白凰女学院の制服。
きっちり整えられたブレザー。
きらりと光るボタン。
そして――
金色の髪。
今日はツインテールではない。
肩の横で一つにまとめられた、
軽く跳ねるサイドテール。
「……リナ……!」
その姿を認識した瞬間、
憂の胸の奥で、張りつめていた糸が一気にほどけた。
不安。
緊張。
この屋敷に足を踏み入れてから、
無意識のうちに溜め込んでいた重たいものが、
音を立てて崩れていく。
(……よかった……)
理由なんて、考えなくていい。
ただ――ここに、知っている人がいる。
自分の名前を呼んでくれる人がいる。
それだけで、世界がちゃんと現実に戻ってきた気がした。
「リナ……!
日本に来てくれたんだ……!」
声が、少し上ずる。
自分でも驚くほど、嬉しさが抑えきれなかった。
あの夏のクルーズ以来だ。
同じ空間で、同じ距離で、こうして顔を合わせるのは。
憂の目は、自然とリナの姿を追っていた。
変わらない金色の髪。
強気な目つき。
けれど、その視線が――
まっすぐ自分に向いていることが、どうしようもなく、嬉しい。
「なによ。入学式初日から、お通夜みたいな空気まとって」
リナは鼻で小さく笑い、腕を組み、呆れたようにため息をつく。
その視線は鋭く、どこか馬鹿にしたようで――けれど、間違いなく憂を見ていた。
「……だって」
憂は小さく息を吸い、言葉を選ぶように続ける。
「入学式ひとりだったし、知らない場所で、知らない人ばっかりで……」
一瞬、視線を落としてから、そっと顔を上げる。
「でも……リナの顔、見たら。一気に安心した」
「はぁ?」
リナは眉をひそめる。
「なにそれ。重いんだけど」
「ち、違う!そういう意味じゃなくて……!」
慌てて手を振りながら、それでも、正直に言う。
「……来てくれて、嬉しかったの。本当に」
「はぁ? 当たり前でしょ」
リナは肩をすくめ、ぷい、と視線を逸らす。
「……別に。放っておくわけ、ないでしょ」
その声はぶっきらぼうで、相変わらず強気なのに――
耳元だけが、ほんのり赤かった。
その瞬間、夏のクルーズ船の記憶が、鮮やかによみがえる。
張り詰めた空気。
甲板に響いた、鋭くも美しい音。
プロの演奏家としか思えない、リナのバイオリン。
「……リナ……!」
安心が一気に込み上げ、憂は思わず立ち上がろうとして――
足に、びりっ、と痺れが走る。
「いっ……!」
その場でよろけ、抱きつこうとした体勢のまま、動けなくなる。
「あーあ」
リナは、心底やれやれという顔をした。
「正座なんかしてるからよ」
「だ、だって……待合室って言われたから……!」
「ほんと、まだまだお子様ね」
そう言いながら、
リナは屈み込み――
「ほら。動かないで」
「え、ちょ……!」
指先が、憂の足首に触れる。
「ほれほれ。血、回してあげる」
「リ、リナ……!」
からかうようで、でも、手つきは妙に慣れていて、優しい。
「なに赤くなってんのよ。……ばか」
その距離の近さに、憂の鼓動が早まる。
玉露の香り。
畳の匂い。
金色の髪が、すぐそばで揺れている。
触れれば、何かが変わってしまいそうな沈黙が、ふわりと、その場を包み込んだ。
――とん。
――とん。
廊下の奥から、ゆっくりとした足音が近づく。
空気が、変わる。
「……来たわね」
リナが、低く呟いた。
いつもの軽口は消え、声音だけが、すっと研ぎ澄まされている。
憂は、ふと気づく。
リナの指先が、ほんの少しだけ、強く握られていることに。
(……緊張してる……?)
その事実が、
胸に、小さな痛みを落とした。
「……リナ。大丈夫……?」
小さく声をかけると、リナは一瞬だけこちらを見て――
すぐに視線を逸らす。
「……は?あたしが?」
強がる声。
でも、ほんの一拍、間があった。
「……相手が相手なだけよ」
それだけ言って、憂の手をそっと払うこともせず、そのまま隣に座る。
ふたり並んで、障子の前。
そして――
向こう側に、はっきりと立つ気配。
障子の向こうで、誰かが、静かに微笑んだ気配がした。
憂は、リナのすぐそばで、そっと、息を整えた。
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