161 / 255
5話 小鈴の裁定
しおりを挟む
障子の向こうから、
足音が聞こえた。
急ぐでもなく、
忍ぶでもない。
ただ、
この場に来ることが当然だとでも言うような、
迷いのない足取り。
空気が、
わずかに張り詰める。
やがて、
障子が静かに開いた。
現れたのは――
驚くほど小柄な人物だった。
着物姿。
落ち着いた色合いの絹が、身体に無駄なく沿っている。
帯の結びは簡素で、
しかし、どこにも隙がない。
背は低い。
体格も華奢。
それなのに。
その人物が一歩、部屋に入った瞬間、
場の空気が、ぴんと張り直された。
――小さいのに、
圧がある。
その人物は、
何の迷いもなく上座へと進み、
静かに腰を下ろした。
ただ座っただけ。
それだけで、
この場の主が誰なのか、誰の目にも明らかだった。
「初めまして」
澄んだ声。
「二条《にじょう》小鈴と申します」
深く、正確な一礼。
「本日は、
わたくしのお遊びにお付き合いくださり、
誠に申し訳ございませんでした」
“お遊び”。
その言葉を、
小鈴は何のためらいもなく口にした。
憂の喉が、
小さく鳴る。
(……お遊び、って……)
小鈴は、
静かに視線を巡らせる。
「まずは、
この場を設けた理由から
お話ししましょう」
視線が、
憂とリナを等しく捉えた。
「御陵 憂さん」
名を呼ばれ、
憂は思わず背筋を正す。
「あなたは、
文化祭で――
本来、立つはずのなかった舞台に立ちましたね」
憂は、うなずいた。
怪我で演奏できなくなった者。
その代役として、
憂と千秋がステージに立った、あの日。
――そう、説明された。
詳しいことは、思い出せない。
胸の奥に、
確かに“何かあった”という感触だけが残っているのに、
そこに至る記憶が、ぽっかりと抜け落ちている。
(雪姉のことだ……うん、たぶん……そうなんだと思う)
否定する理由も、
肯定する確かな根拠もない。
だから、
憂はただ、黙ってうなずくしかなかった。
「壊れるはずだった舞台を、
あなた方は成立させた。
わたくしは、
最初の一音から、最後の拍手まで
そのすべてを、拝見しました」
淡々とした声。
「そのとき、
わたくしは決めたのです」
一拍、間。
「――必ず、お礼をしよう、と」
小鈴は、
わずかに口元を緩めた。
「けれど、
金品で済ませるのは、
あまりに無粋でしょう」
視線が、
リナへ向けられる。
一拍、間を置いてから、
小鈴は静かに言葉を継いだ。
「あなたは――
異国の船の上で憂さんと出会い、
利害も立場も介さず、ただ“音”を通して向き合い、
同じ時間を分かち合う中で互いを選び、互いに受け入れ、
“友人”と呼ぶに足る関係へと至った」
淡々とした口調。
だが、その一語一語には、
紛れもない評価が込められていた。
その一言で、
憂の胸が跳ねた。
「だから、
わたくしのお礼は――」
小鈴は、
はっきりと言い切った。
「二人を、日本で再会させること」
「それも、
偶然ではなく、
必然として」
憂の思考が、
一瞬、止まる。
「あなた方が、
同じ時間を、同じ場所で共有できるように
それが、
わたくしなりの“お礼”です」
憂は、
息を呑んだ。
(……それが……お礼……?)
その沈黙を破ったのは、
リナだった。
ゆっくりと立ち上がり、
一歩、前へ。
そして――
迷いなく、畳に両手をついた。
深い、深い土下座。
「……この度は」
声は低く、
凛としている。
いつもの、
噛みつくような口調ではない。
「日本での滞在ならびに留学の機会をお与えくださり、
さらに住まいまでご用意いただき――」
言葉を選び、
一つひとつ、確かめるように続ける。
「学費の全額負担。
生活に必要な諸費用。
そして――
演奏活動に対する、正当なお給金まで」
そこで、
ほんの一瞬、声が詰まった。
だが、
すぐに持ち直す。
「……身に余るご厚意です。
演奏家として、そして一人の人間として、
心より感謝申し上げます」
深々と、
もう一度頭を下げた。
憂は、
ただ呆然とその背中を見つめていた。
(……リナが……こんな喋り方……)
そこにいたのは、
いつもの友人ではない。
“選ばれる側”として立つ、
一人の演奏家だった。
小鈴は、
その姿を静かに見つめ――
やがて、口を開く。
「……顔をお上げなさい」
リナは、ゆっくりと体を起こした。
次の瞬間――
空気が変わる。
「ただし」
その一言で、
場の温度が、すっと下がった。
「わたくしは、あなたの実力を、まだ認めておりません」
畳に、見えない刃が落ちたような感覚。
憂の心臓が、強く跳ねる。
「期待に値しないと判断した場合」
小鈴の声は、
冷え切っていた。
「留学は打ち切り。即刻、帰国していただきます」
それは、脅しではない。
当然の帰結として語られる、断定。
だが、リナは視線を逸らさなかった。
「……承知しております」
即答。
揺らぎは、ない。
小鈴は、その様子を一瞬だけ見届け――
ふっと視線を切った。
「リナさん」
名を呼ぶ声が、
低く、鋭く落ちる。
「命令です」
その瞬間、憂ははっきりと感じた。
――逆らえば、終わる。
「ここから先は、憂さんと二人で話します。
——ご退席なさい」
「……はい」
即答だった。
リナは一礼し、一切振り返らず、静かに部屋を出ていく。
「え……ええええ……!?」
憂の声だけが、畳に落ちる。
障子が閉まり、再び、完全な静寂。
上座には、小柄な着物の貴婦人。
正座したまま、取り残された憂。
小鈴は、ゆっくりと微笑んだ。
その微笑みは、
優雅で――
どこまでも、底が知れなかった。
「さて、 憂さん」
名を呼ばれた瞬間、
憂は悟る。
ここからが、本当の“お話”なのだと。
足音が聞こえた。
急ぐでもなく、
忍ぶでもない。
ただ、
この場に来ることが当然だとでも言うような、
迷いのない足取り。
空気が、
わずかに張り詰める。
やがて、
障子が静かに開いた。
現れたのは――
驚くほど小柄な人物だった。
着物姿。
落ち着いた色合いの絹が、身体に無駄なく沿っている。
帯の結びは簡素で、
しかし、どこにも隙がない。
背は低い。
体格も華奢。
それなのに。
その人物が一歩、部屋に入った瞬間、
場の空気が、ぴんと張り直された。
――小さいのに、
圧がある。
その人物は、
何の迷いもなく上座へと進み、
静かに腰を下ろした。
ただ座っただけ。
それだけで、
この場の主が誰なのか、誰の目にも明らかだった。
「初めまして」
澄んだ声。
「二条《にじょう》小鈴と申します」
深く、正確な一礼。
「本日は、
わたくしのお遊びにお付き合いくださり、
誠に申し訳ございませんでした」
“お遊び”。
その言葉を、
小鈴は何のためらいもなく口にした。
憂の喉が、
小さく鳴る。
(……お遊び、って……)
小鈴は、
静かに視線を巡らせる。
「まずは、
この場を設けた理由から
お話ししましょう」
視線が、
憂とリナを等しく捉えた。
「御陵 憂さん」
名を呼ばれ、
憂は思わず背筋を正す。
「あなたは、
文化祭で――
本来、立つはずのなかった舞台に立ちましたね」
憂は、うなずいた。
怪我で演奏できなくなった者。
その代役として、
憂と千秋がステージに立った、あの日。
――そう、説明された。
詳しいことは、思い出せない。
胸の奥に、
確かに“何かあった”という感触だけが残っているのに、
そこに至る記憶が、ぽっかりと抜け落ちている。
(雪姉のことだ……うん、たぶん……そうなんだと思う)
否定する理由も、
肯定する確かな根拠もない。
だから、
憂はただ、黙ってうなずくしかなかった。
「壊れるはずだった舞台を、
あなた方は成立させた。
わたくしは、
最初の一音から、最後の拍手まで
そのすべてを、拝見しました」
淡々とした声。
「そのとき、
わたくしは決めたのです」
一拍、間。
「――必ず、お礼をしよう、と」
小鈴は、
わずかに口元を緩めた。
「けれど、
金品で済ませるのは、
あまりに無粋でしょう」
視線が、
リナへ向けられる。
一拍、間を置いてから、
小鈴は静かに言葉を継いだ。
「あなたは――
異国の船の上で憂さんと出会い、
利害も立場も介さず、ただ“音”を通して向き合い、
同じ時間を分かち合う中で互いを選び、互いに受け入れ、
“友人”と呼ぶに足る関係へと至った」
淡々とした口調。
だが、その一語一語には、
紛れもない評価が込められていた。
その一言で、
憂の胸が跳ねた。
「だから、
わたくしのお礼は――」
小鈴は、
はっきりと言い切った。
「二人を、日本で再会させること」
「それも、
偶然ではなく、
必然として」
憂の思考が、
一瞬、止まる。
「あなた方が、
同じ時間を、同じ場所で共有できるように
それが、
わたくしなりの“お礼”です」
憂は、
息を呑んだ。
(……それが……お礼……?)
その沈黙を破ったのは、
リナだった。
ゆっくりと立ち上がり、
一歩、前へ。
そして――
迷いなく、畳に両手をついた。
深い、深い土下座。
「……この度は」
声は低く、
凛としている。
いつもの、
噛みつくような口調ではない。
「日本での滞在ならびに留学の機会をお与えくださり、
さらに住まいまでご用意いただき――」
言葉を選び、
一つひとつ、確かめるように続ける。
「学費の全額負担。
生活に必要な諸費用。
そして――
演奏活動に対する、正当なお給金まで」
そこで、
ほんの一瞬、声が詰まった。
だが、
すぐに持ち直す。
「……身に余るご厚意です。
演奏家として、そして一人の人間として、
心より感謝申し上げます」
深々と、
もう一度頭を下げた。
憂は、
ただ呆然とその背中を見つめていた。
(……リナが……こんな喋り方……)
そこにいたのは、
いつもの友人ではない。
“選ばれる側”として立つ、
一人の演奏家だった。
小鈴は、
その姿を静かに見つめ――
やがて、口を開く。
「……顔をお上げなさい」
リナは、ゆっくりと体を起こした。
次の瞬間――
空気が変わる。
「ただし」
その一言で、
場の温度が、すっと下がった。
「わたくしは、あなたの実力を、まだ認めておりません」
畳に、見えない刃が落ちたような感覚。
憂の心臓が、強く跳ねる。
「期待に値しないと判断した場合」
小鈴の声は、
冷え切っていた。
「留学は打ち切り。即刻、帰国していただきます」
それは、脅しではない。
当然の帰結として語られる、断定。
だが、リナは視線を逸らさなかった。
「……承知しております」
即答。
揺らぎは、ない。
小鈴は、その様子を一瞬だけ見届け――
ふっと視線を切った。
「リナさん」
名を呼ぶ声が、
低く、鋭く落ちる。
「命令です」
その瞬間、憂ははっきりと感じた。
――逆らえば、終わる。
「ここから先は、憂さんと二人で話します。
——ご退席なさい」
「……はい」
即答だった。
リナは一礼し、一切振り返らず、静かに部屋を出ていく。
「え……ええええ……!?」
憂の声だけが、畳に落ちる。
障子が閉まり、再び、完全な静寂。
上座には、小柄な着物の貴婦人。
正座したまま、取り残された憂。
小鈴は、ゆっくりと微笑んだ。
その微笑みは、
優雅で――
どこまでも、底が知れなかった。
「さて、 憂さん」
名を呼ばれた瞬間、
憂は悟る。
ここからが、本当の“お話”なのだと。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる