沈黙のういザード 

豚さん

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6話 逃げられないほど、近かった

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 障子が閉まり、部屋には、二人きりの静けさが落ちた。

 畳の目が、やけにくっきり見える。
 自分の呼吸音が、少しだけ大きい。
-
 憂は正座したまま、膝の上で指を強く組んだ。

(……なに、言われるんだろう……)

 怒られるのか。
 責められるのか。
 それとも――もっと、別の何かなのか。

 喉が、きゅっと鳴る。

 上座では、小鈴が、静かにこちらを見ていた。

 小柄な身体。
 着物に包まれた所作は、どこまでも優雅。

 だが――
 先ほどまで感じていた張り詰めた気配は、
 いつの間にか、すっかり姿を消していた。

「……そんなに、身構えなくてもよろしいのですよ」

 声音は、驚くほどやわらかい。
 それがかえって、逃げ場を奪う。

 憂は、思わず顔を上げた。

「い、いえ……その……」

 言葉が続かない。

 小鈴は、ふっと微笑み――
 すっと立ち上がった。

 そのまま、
 上座から降りる。

 畳を渡る足音が、
 やけに近い。

 そして――
 ためらいもなく、
 憂の隣に腰を下ろした。

「……え?」

 思わず、声が漏れる。

 肩と肩の距離が、近い。

 香のほのかな匂い。絹の衣擦れ。

 逃げ場が、ない。

「……葉月さんは、少し賑やかすぎますもの」

 何気ない口調。
 だが、選別するような響き。

「あなたの隣のほうが……
 わたくしは、落ち着きますわ」

「……えっ」

 憂は、反射的に体を引きかける。

 だが――
 小鈴は気づいた様子もなく、
 さらに、ほんのわずか距離を詰めてきた。

「静かで、丁寧で……
 呼吸まで、整っていらっしゃる」

 胸の奥を、撫でるような声。

「とても……居心地がよろしいですの」

 逃げる理由を、与えない言い方だった。

「……ですから」

 小鈴の瞳が、
 きらりと光る。

「あなたの歌が、
 忘れられませんでしたわ」

 憂の胸が、どくんと鳴る。

「文化祭での歌も、拝見しております。
 ええ……とても、整っていて、美しかった」

 一拍。

「……ですが」

 そこで、小鈴は、にっこりと微笑んだ。

「クルージングで歌われた、
 あなたのほうが――」

 間を置き、確信をもって告げる。

「ずっと、素敵でしたわ」

 憂は、はっきりと身を引いた。

「な、なに言って……!」

「英語で歌われた、あの一曲」

 小鈴は、うっとりと目を細める。

「あの伸びやかな発声……息と音が、境目なく溶け合い、
 声がそのまま海へ還っていくようでしたわ」

 静かな陶酔。
 否定を許さない評価。

「映像を、何度繰り返したことか……」

 気づけば、小鈴の身体は、ほとんど密着する距離にあった。

「……あの瞬間で」

 小鈴は、憂のほうへ身を寄せ、
 嬉しそうに告げる。

「わたくし――完全に」

 囁くように。

「あなたの“ファン”になってしまいましたの」

「……ひ、ひえ……!」

 憂は、完全に逃げ腰だ。

「ち、近いです!
 ちょっと近いです、小鈴さん……!」

「まあ」

 小鈴は小さく目を瞬かせ、悪びれもせず微笑んだ。

 ふわり、と。
 距離が縮まった瞬間、憂の鼻先をくすぐる。

 それは香水のように主張の強いものではなく、
 乾いた絹と、ほのかに甘い和花、そして焚き染めたお香が溶け合ったような――
 着物特有の、落ち着いた、それでいて逃げ場のない匂いだった。

「可愛らしい反応ですこと」

 まったく引く様子がない。

 ――けれど次の瞬間、小鈴は軽く息を整え、扇を閉じるように仕草を改めた。

「……先ほどは、少々言葉が過ぎましたわね」

 わずかに視線を落とし、しかし姿勢は崩さない。
 謝罪であっても、品位は失わない。

「憂さん、リナさん。お二人があまりにも楽しそうにお話しなさっているものですから
 ……つい、わたくし、心が狭くなってしまいましたの」

 自嘲するように、ほんの小さく微笑む。

「嫉妬など、淑女には似つかわしくない感情ですのに……それを理由に、きつく申し上げてしまいましたわ」

 扇の先で空をなぞり、顔を上げる。

「どうかお許しくださいませ。本来は――」

 声の調子が、柔らかくほどける。

「わたくしもご一緒に、楽しくお喋りをさせていただきたかっただけなのですから」

 その微笑みは、先ほどよりもずっと穏やかで、場の空気を、ゆっくりと和らげていった。

 まったく引く様子がない。

 周囲のざわめきが、いつの間にか遠のいていた。
 気づけばこの場にいるのは、小鈴と憂、二人きり。

 沈黙。
 ほんの数秒。

 ――その沈黙を、破ったのは小鈴だった。

「……静かですわね」

 にこり。
 先ほどまでと同じ、貴婦人の微笑み。

 なのに。

「二人きりですと……こうして、憂さんの反応が、よく見えますわ」

 一歩、詰める。

「……えっ」

 憂は反射的に、半歩下がった。

「ほら。今もそうして、距離を取ろうとなさる」

 楽しそうに、観察する視線。

「逃げ方が、実に可愛らしいですこと」

「に、逃げてませんっ……!?」

 否定する声が、少し裏返る。

 小鈴は、扇を閉じたまま、胸元に抱く。

「大丈夫ですわ。
 わたくし、憂さんを傷つけるような真似は――」

 間。

「――身体には、いたしませんもの」

「そこ、強調するところじゃないです!!」

 即ツッコミ。

 だが小鈴は、首をかしげるだけ。

「愛情というものは、時に強く、深く、制御が難しいものですわよ?」

 目が、きらりと光る。

「特に……拒まれないと分かった瞬間は」

「……え?」

「先ほど、憂さんは――わたくしの感情を、否定しませんでしたわよね」

 一歩。
 また一歩。

「それはつまり……
 受け止める余地があると解釈しても、よろしいのでは?」

「だ、だめです!!解釈、拡張しすぎです!!」

 憂は両手をぱっと前に出す。

「その……! お気持ちは、ありがたいですけど……!」

 後ずさり。
 壁が、背中に当たる。

「ち、ちょっと落ち着きましょう……? ほら、深呼吸とか……!」

 その様子に、小鈴は――
 心底、嬉しそうに微笑んだ。

「まあ……」

 とろり、と声が甘くなる。

「壁際で、必死に説得を試みる憂さん……想像以上に、愛おしいですわ」

「今の状況、可愛い判定しないでください!!」

 憂は必死に視線を逸らす。

「そ、それに……小鈴さん、近いです……!」

「近くなければ、分かりませんでしょう?」

 真顔で。

「憂さんが、今、どれほど動揺なさっているか」

「分からなくていいです!!」

 一拍。

 そして小鈴は、ふっと距離を戻した。

 ほんの、半歩。

「……ご安心なさい」

 声は、元の貴婦人のそれに戻る。

「わたくし、理性を失うほど無粋ではありませんわ」

 にこり。

「――ただし」

 憂の耳元に、そっと囁く。

「失いかけている自覚は、ございますけれど」

「ひぃっ……!」

 憂は完全に引いた。

 小鈴は満足そうに扇を開く。

「ふふ。今の反応……覚えておきますわね」

 その笑みは、優雅で、
 ほんの少しだけ――危険だった。

「……それと」

 ふと、首を傾げる。

「“憂様”とお呼びしたほうが、よろしいかしら?」

「だ、だめです!!」

 即答だった。

「それは……さすがに……やめてください……!」

 憂は必死に首を振る。

「憂で……じゅ、十分ですから……!」

 一瞬。
 沈黙。

 そして――

「……ふふ」

 小鈴は、心底楽しそうに笑った。

「ええ、分かりましたわ。では……憂さん」

 その呼び方が、
 なぜか余計に距離を縮める。

「逃げなくても、取って食べたりはしませんのに」

「取られそうです!!」

 思わず叫ぶ。

 小鈴は、くすくすと肩を揺らした。

「まあまあ。その怯えたお顔も……」

 じっと、見つめる。

「とても、愛らしいですわ」

「ひえええ……!」

 完全に、怖がっている。

 だが――
 その様子を見つめる小鈴の瞳には、
 支配ではなく、
 確かに、純粋な好意が宿っていた。

 憂は、はっきりと理解する。

 この人は――
 とても、怖い。

 けれど同時に、
 とても、本気なのだと。

 障子の外で、
 風が、静かに鳴った。

 二人の距離は、
 もう――
 逃げられないほど、近かった。
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