沈黙のういザード 

豚さん

文字の大きさ
164 / 255

8話 貴婦人からの激励

しおりを挟む
 三十人前近いざるそばが、
 いつの間にか、すべて消えていた。

 職人たちは無言のまま一礼し、
 銅鍋も箸も、痕跡すら残さず片づけ、
 まるで潮が引くように部屋を出ていく。

 残ったのは――
 静かな畳の間と、
 湯気を立てる急須だけだった。

 小鈴は、
 自ら急須を取り、
 ゆっくりと茶を注ぐ。

「……さすがですわ」

 湯呑を差し出しながら、
 どこか感心したように微笑む。

「三十人前は、
 正直……想定外でしたけれど」

「……す、すみません……」

 憂は頬を赤くし、
 両手で湯呑を受け取る。

「いえ」

 小鈴は、
 小さく首を振った。

「よく召し上がる方は……
 見ていて、心が和みますわね」

 その言葉に、
 憂は少しだけ救われた気がした。

 湯呑から立つ湯気が、
 二人の間を、静かに満たす。

 小鈴は、
 一口、茶を含み――
 ゆっくりと息を整えた。

「……さて」

 その一言で、
 空気がわずかに変わる。

「ここからは、
 本題ですわ」

 憂の背筋が、
 自然と伸びた。

「……はい」

 小鈴は、
 憂をまっすぐ見つめる。

「昨年のクリスマス会」

 胸が、
 小さく跳ねる。

「わたくしも、
 あの場におりました」

「……え?」

「ええ。
 客として、ですが」

 淡々とした声。

「そのとき――
 あなたは、“あなたではなかった”」

 憂は、
 言葉を失う。

「……雪乃さん、ですわね」

 静かな断定。

「あなたの中にいる、
 もう一人の人格」

 小鈴は、
 視線を逸らさない。

「……どうして……」

 小鈴は、
 少しだけ目を伏せた。

「雪乃さんご本人が、
 あの場で話してくださいました」

 小鈴は、静かに続ける。

「クリスマスパーティーの終盤――
 参加者全員が集まった席で」

 憂の心臓が、
 どくん、と強く打った。

「二重人格であることを。
 そして……
 あなたのことを」

 小鈴は、
 淡々と、しかし丁寧に続ける。

「その後、必要な範囲で御陵家のことを、お調べいたしましたの」

 一つひとつ、
 確かめるように言葉を置く。

「ご両親のご離婚のこと、
 お母様のお仕事のこと、
 そして――幼い頃、雪乃さんとご一緒にドイツへ渡られたことまで」

 憂は、
 膝の上で拳を握りしめる。

「……クリスマスの事故」

 小鈴の声が、
 ほんのわずかに低くなる。

「雪乃さんのご逝去ののち、日本へ戻られ、現在は葉月さんと同居なさっている
 ――そのように把握しておりますわ」

 すべて、
 知っていた。

「去年のクリスマス、千秋さんと雪乃さんが連弾なさったピアノ
 ――今でも、よく覚えておりますわ」

 小鈴の瞳が、
 わずかに揺れる。

「……素晴らしいものでした」

 心からの声だった。

「技巧でも、完成度でもございません――
 あれは……祈り、でしたわ」

 憂の喉が、
 きゅっと鳴る。

「……雪姉は……満足した様子で、
 穏やかに眠るように……成仏したと、聞いています」

 小鈴は、
 静かに目を伏せ、
 一度だけうなずく。

「……そうですか。
 それなら……
 よろしゅうございました」

 そして、
 茶を置く。

「では――
 次のお話です」

 空気が、
 再び張り詰める。

「憂さんのお母様について」

 胸が、
 締めつけられる。

「……お母様は、
 記憶喪失でいらっしゃいますね」

 静かな指摘だった。

 問いではない。
 もう、答えを知っている声音。

「……はい……」

 短く返したその声が、
 自分でも分かるほど、震えていた。

 もう、隠せない。
 ごまかす余地もない。

 小鈴は、すでに知っている。
 必要なことも、
 そして――憂が、触れられたくなかったことも。

 だからこそ。

 憂は、
 逃げるように目を伏せ、
 それでも、口を開いた。

 喉が、ひりつく。

「……雪姉は……」

 一拍。
 言葉が、途中で詰まる。

 胸の奥で、
 何かが、ぎゅっと縮こまった。

「……鬼才でした」

 吐き出すように。

「勉強も……音楽も……
 何もかも……」

 視界が、にじむ。

 それでも、
 まだ、止まらない。

「わたしは……
 努力は、しました」

 声が、少しだけ掠れる。

「……ちゃんと、
 してた、つもりです」

 指先が、畳を強く掴む。

「でも……
 いつも……比べられて……」

 息が、詰まった。

 喉の奥が、ひくりと鳴る。

「お母さんは……
 雪姉ばかりで……」

 その瞬間、
 声が、わずかに裏返った。

 言ってはいけないことを、
 口にしてしまった気がして。

 憂は、
 ぎゅっと目を閉じる。

 ――でも。

 小鈴は、遮らない。
 視線も逸らさない。

 慰めも、否定もない。

 ただ、
 真正面から、聞いている。

 それが、
 かえって、辛かった。

 だからこそ、
 憂は止まれなかった。

「……雪姉が亡くなって……」

 言葉にした瞬間、
 胸の奥が、ずきりと痛む。

 声が、
 明らかに震え始める。

「お母さんは……
 壊れて……」

 そこで、
 息が詰まった。

「……記憶を……
 失いました」

 小さく、
 笑おうとして――失敗する。

 喉の奥で、
 音が途切れ、
 代わりに、熱いものが込み上げた。

「……だから……
 東野高校に……」

 声が、細くなる。

「合格したら……
 思い出してくれるかも、って……」

 そこまで言って。

 ――ぽた。

 畳に、
 一粒、涙が落ちた。

 止めようとしても、
 もう、遅い。

「……でも……
 戻りませんでした……」

 声が、完全に崩れる。

 肩が、
 小さく震え始める。

 唇を噛みしめても、
 涙は、次々と溢れた。

 ――沈黙。

 小鈴は、
 すぐには口を開かない。

 泣き止ませようともしない。

 ただ、
 その時間を、
 きちんと与えた。

 やがて。

 憂の嗚咽が、
 声になり始めた。

「……っ……
 ごめんなさい……」

 意味のない謝罪が、
 何度も零れる。

 小鈴は、
 ゆっくりと立ち上がり、
 本当に、そっと――近づいた。

 畳を踏む足音は、
 ほとんど聞こえない。

 そして、
 憂のすぐ隣に腰を下ろす。

 触れない。
 抱き寄せない。

 けれど、
 逃げ場も、作らない。

「……泣きなさい」

 低く、
 しかし、否定の余地のない声音。

「今は、
 泣いてよろしいのです」

 憂の肩が、
 びくりと揺れた。

「ここには、
 責める者も、
 裁く者もおりません」

 静かに、続ける。

「わたくしは承知しております。
 あなたがどれほど耐え、どれほど自分を後回しにしてきたかを」

 その言葉に、
 憂は、ついに堪えきれなくなった。

「……っ……!」

 声を上げて泣いた。

 嗚咽が、
 抑えきれず漏れる。

 小鈴は、
 ほんのわずか、距離を詰める。

 そして――
 憂の背に、
 そっと手を添えた。

 撫でるでもなく、
 押すでもなく。

 ただ、
 そこに在るという触れ方。

「……ええ。
 よく、ここまで参りましたわ」

 厳しさを残した、
 しかし確かな労り。

「弱さは罪ではありません。
 泣くことは、逃げではございません」

 小鈴は、
 静かに、断じる。

「それは――
 生きてきた証です」

 憂の泣き声は、
 すぐには止まらない。

 それでいいと、
 小鈴は理解している。

 急がせない。
 終わりを決めない。

 しばらくして――

 小鈴は、
 少しだけ表情を崩す。

「もし……本当に困ったときは、
 人生の先輩として、
 わたくしを頼りなさい」

 そして――
 ほんのり意地悪に。

「本来なら、
 葉月お姉さんのほうが
 よろしいのではなくて?」

 憂の肩が、
 ぴくりと揺れる。

「……そ、それは……」

 涙声のまま、
 言葉に詰まる。

 小鈴は、
 くすっと笑った。

「冗談ですわ。ですが――
 選択肢のひとつとして、
 わたくしがいることも
 覚えておいてくださいな」

 湯呑の中で、
 茶の表面が、
 小さく揺れていた。

 二人の間に残ったのは、
 追及ではなく、
 静かな理解。

「……はい」

 憂は、
 涙で濡れたまま、
 小さく――けれど確かに、うなずく。

 胸の奥で、
 ずっと張り詰めていたものが、
 はっきりと、ほどけていく。

 それだけで。

 この場所に来た意味が、
 確かに、
 あったのだと――
 初めて、心から思えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について

沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。 かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。 しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。 現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。 その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。 「今日から私、あなたのメイドになります!」 なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!? 謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける! カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...