沈黙のういザード 

豚さん

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24話 勇気の謝罪

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 鍋の具材が、だいぶ減ってきたころ。
 土鍋のぐつぐつという音も、さっきより少し穏やかになっていた。

 葉月が湯気の向こうで笑って、憂が「おいしい……」と頬をゆるめて、
 リナも相変わらずツンとした顔のまま、ちゃんと箸を進めている。

 ――その空気が、ふっと切れたのは。
 リナが、箸を置いた瞬間だった。

「……ねぇ」

 低い声。
 葉月と憂が、同時に顔を上げる。

 リナは、深く息を吸ってから、膝を揃えた。
 畳に手を置き――正座。

 背筋はまっすぐ。
 表情はいつもの強気なままなのに、目だけが、決定的に違っていた。
 その場の温度が、すっと下がる。

「……大切な話がある」

「……うん」

 憂は、箸をそっと置いた。
 葉月も、笑みを消して頷く。

 リナの喉が、小さく上下する。
 何度も、言葉を飲み込んでから。

「私……、日本に来たのは……謝りたかったから」

 その一言で、憂の胸の奥が、きし、と鳴った。

「雪乃さんは……」

 リナは、一度目を伏せる。
 そのまま、しばらく顔を上げられなかった。

「……小さい頃、ドイツで何度か会ったことがあるの」

 憂と葉月が、黙って聞く。

「私、歌が好きで……でも、全然うまくなくて……」

 リナの唇が、かすかに震える。

「雪乃さんはね……歌い方とか、息の使い方とか……
 『声は楽器だから、大事にしなさい』って……」

 ぽつり、ぽつりと。

「私に、音楽を教えてくれた人だった。ちゃんと向き合ってくれた、大人だった」

 ぎゅっと、拳を握る。

「……尊敬してた。すごく、優しくて……でも、強い人で……」

 そこで、言葉が途切れた。

「……クリスマスの日に……たまたま、近くで会って……一緒に、少し話して……」

 リナは、膝の上で指を組み直した。

「雪乃さん……紙袋、持ってたの」

 憂の胸が、微かにざわつく。

「中身……クリスマスケーキだって……」

 そこで、リナはほんの一瞬だけ、懐かしそうに目を細めた。

「今日はね、憂と一緒に食べるのって……すごく、楽しそうに……」

 そして、ふと思い出したように、リナは続けた。

「それだけじゃなくて……もう一つ、ノートも持ってた」

 憂と葉月が、同時に息を呑む。

「少し古いノートで……大事そうに、抱えてて……」

 リナは、当時の光景をなぞるように言った。

「『これはね、葉月との交換日記』って……ちょっと誇らしそうに……」

 葉月の肩が、わずかに揺れた。

「『最近、ちゃんと返事くれるの』って……
『前より、字が大人っぽくなってきたでしょ』って……」

 くすっと、ほんのかすかな笑み。

「それから……ノートの後ろのほう、指で叩いて……」

 リナは、その仕草まで覚えていた。

「『ここにはね、二人のための曲を書いてるの』って……」

 憂の指先が、ぎゅっと握られる。

「『憂には、少し優しいメロディで』
 『葉月には、怖いけど元気が出るやつ』って……」

 声が、少しだけ震えた。

「『一緒に歌えるようにしたいの』って……そんなこと……
 本当に、嬉しそうに……自慢してた……」

 短い沈黙。

「……帰ったら……ケーキ食べて……ノート広げて……」

 リナは、言葉を探す。

「『今日は、二人の声を思い浮かべながら、少し直すの』って……」

 その先が、続かない。

 居間に、重い静けさが落ちた。

 憂は、視線を伏せたまま、小さく息を吸う。

「……雪姉……そんなとこまで……」

 葉月は、唇を噛みしめたまま、しばらく視線を落としていた。
 やがて、小さく息を整える。
 感情を押し込めた、落ち着いた声。

「……雪姉ちゃん……そんなところまで、ちゃんと考えてたんだね」

 声が、少しだけ柔らぐ。

 息が、浅くなる。

「そんな……ごく普通の話を……当たり前みたいに……してた……」

 リナの唇が、震え始める。

「……それで……一緒に、横断歩道を渡って……」

 リナの声が、少しだけ震え始める。

「……私……その時……考え事、してて……」

 リナは、視線を落としたまま続けた。

「私……ずっと、一人だったから……」

 畳の上で、指先が強く絡む。

「……正直……羨ましくて……」

 喉が詰まる。

「なんで……私には、そういう人……いないんだろうって……」

 唇を噛みしめる。

「それで……ぼーっとして……前、ちゃんと見てなくて……車の音に……
 気づくのが、遅れた……」

 畳に落ちる影が、揺れる。

「右から……すごいスピードで、車が来て……私……動けなかった……」

 唇を噛みしめる。

「その時……雪乃さんが……」

 声が、折れた。

「私の腕を、思いきり掴んで……何も言わずに……突き飛ばした……」

 息を詰めたまま、続ける。

「私は……転んで……道路の外に……」

 沈黙。

「……雪乃さんは……そのまま……」

 リナの目から、涙が落ちた。

「……間に合わなかった」

 ぽたり。
 畳に、重い音もなく、涙が染みる。

「……亡くなったの」

 正座のまま、深く頭を下げる。

「……ごめんなさい……」

 声は、かすれていた。

「私が……ちゃんと前を見ていれば……私が、ぼんやりしてなければ……」

 額が、畳に近づく。

「雪乃さんは……今も、生きて……あなたたちのそばに、いられた……」

 肩が、大きく震える。

「……それなのに……私は、生きてる……」

 声にならない嗚咽。

「家族の命を……大事な未来を……私が……奪った……」」

 もう一度、深く。

「……本当に……ごめんなさい……!」

 声が掠れる。
 でも、言葉だけは止めなかった。

「……クルージングで出会った時言えなかった。
 怖かったの。憎まれるのが。見捨てられるのが……」

 リナは涙をこぼしながら、もう一度頭を下げる。

「だから……せめて、謝りたくて……日本に来た」

 しん、と静かになった居間で、憂がゆっくりと息を吸う。

「……そっか」

 憂は、何かが腑に落ちたみたいに小さく頷いた。

「そうだったんだ……リナ、ずっと……一人で抱えてたんだね」

 リナが顔を上げる。
 涙で濡れたまつ毛が、震えている。

「でも……わたし……謝らなくていいんだよ」

 憂は、迷いなく言った。
 やわらかい声なのに、芯がある。

「苦しかったんでしょ。怖くて、言えなくて……でもずっと、忘れられなかったんでしょ」

 リナの唇が、ぎゅっと結ばれる。
 声にならない嗚咽がこぼれかけて、彼女は必死に堪えた。

 葉月も、そっと頷いた。

「うん……リナちゃん、来てくれてありがとう。それ、謝罪じゃなくて……勇気だよ」

 そして葉月は、少しだけ眉を下げて、いつもの調子に寄せるように笑った。

「にしてもさぁ~雪姉ちゃん、つめたいよねー」

 ぽろっと、愚痴みたいに。
 でも、その声の奥は泣きそうだった。

「肝心なこと、何にも話さないで成仏しちゃうんだもん。
 ずるいよね。ほんと……置いてく側が、一番勝手」

 憂も、息を吐いて小さく笑う。
 笑ってるのに、目の奥が熱い。

「……うん。雪姉らしい、っていうか……」

 リナは、震える声で言った。

「……ごめんなさい。私、何度言っても……足りない」

「足りないならさ」

 葉月は、リナの目を見た。

「今度から、ちゃんと生きてよ。雪姉ちゃんが助けたかった未来を、ちゃんと続けてよ」

 リナの涙が、また溢れた。
 でも今度の涙は、さっきより少しだけ、ほどけていた。



 鍋をほぼ平らげ、ほうじ茶を飲んだ憂は、
 ソファにもたれたまま、すやすやと寝息を立て始めた。

 毛布をかけると、春の夜風のように穏やかな寝顔だった。

「……幸せそうだね」

 葉月が皿を片付けながら微笑む。

 リナも思わず頬をゆるませる。

「……ほんと、無防備で……ずるい子」

 その声に、わずかに温度があった。

 リナは食器をまとめてシンクへ運ぶ。

 「手伝うよ、葉月先輩」

 「助かる~。ありがと」

 二人で静かに皿を洗っていると……

 葉月がふと、水を止めた。

 部屋に静寂が落ちる。

「……ねぇ、リナちゃん」

「……なに?」

 葉月の声は、先ほどより少し低い。

「雪姉ちゃんのこと……事故のこと。さっき、全部言ってくれたよね」

 握っていた皿がカタリ、と音を立てた。
 リナの指が震えている。

「……うん」

「怖かったよね」

 その言葉が落ちた瞬間、リナの胸の奥に押し込めていた感情が溢れ出す。

「……こわかった……ずっと……ずっと言えなかった……
 だって……雪乃さんは……私なんかを助けて……死んじゃった……」

 嗚咽がこぼれる。

「私なんか……助かってよかったの? 本当に、よかったの……?」

 皿を落としそうに震える手。

 葉月は驚いたように見つめ、すぐにリナの背中へ腕を回した。

「泣いていいよ。ずっと抱えてたんだよね……」

 リナは声にならない声で泣き続ける。

 十分泣いて、息が震えるころ。

 葉月はリナの肩をしっかり掴み、涙をこらえた声で言った。

「リナちゃん」

「……っ」

「その言い方、雪姉ちゃんだったら——絶対に怒るよ。ものすごく怒るよ」

 リナの呼吸が止まる。

 葉月は深く息を吸い、あの“姉として叱る時の真剣な表情”になった。

「雪姉ちゃんはね、自分のせいで誰かが苦しむのを一番嫌う子だったの。
 私のせいで罪悪感を背負わないでって、いつも言ってた」

 リナの瞳が大きく揺れる。

 葉月の声は震えながらも、強かった。

「もし今のリナちゃんの言葉を聞いたら、雪姉ちゃん……絶対にこう言うよ」

『私は助けたかったの。あなたを助けたいと思ったの。その気持ちを……否定しないで』

 リナの膝が崩れそうになる。

「だから……私なんかが助かってよかったのかなんて、二度と言わないで。
 それは雪姉ちゃんの気持ちを踏みにじることになるよ」

 「……そんな……私……」

 リナの涙が、またぽろぽろとこぼれた。

 葉月は優しく微笑んだ。

「雪姉ちゃんは、あなたが生きてる未来を喜ぶ子だよ。
 あなたが笑って、泣いて、怒って……憂ちゃんの横でごはん食べてるその姿をね——あの子は絶対に喜ぶ」

 リナは胸に手を当て、震えた息を吐いた。

「……ありがとう……葉月先輩……」

「いいの。リナちゃんは……もう、うちの子みたいなもんだから」

 その言葉を聞いて——
 リナは初めて、涙の中で小さな笑みを見せた。

 ソファでは、憂がすやすや眠っている。

 涙を流すリナを責めるでもなく、ただ静かに眠っているその寝顔は——
 不思議なくらい、優しかった。

「……憂の友達になれて、よかった」

 リナは小さな声で呟く。

 葉月がうなずき、微笑んだ。

 土鍋の少し残った温度が、三人をやわらかく包み込んでいた。
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