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30話 Ich hab dich lieb
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お風呂上がりのアイスを食べ終えて、歯磨きも済ませた夜。
一日の終わりを告げるように、家の中はゆっくりと静まり返っていた。
廊下の向こうから聞こえる生活音も途切れ、時計の針が進む気配だけが、淡く残っている。
葉月の部屋には、柔らかな間接照明だけが灯っていた。
天井の明かりではなく、壁際に置かれた小さなランプ。
橙色の光が、昼の余韻を引き延ばすように、部屋の輪郭をやさしく縁取っている。
葉月は、水色のパジャマのまま、クローゼットの前で髪をブラッシングしていた。
ブラシの音がかすかに夜に溶け、手ぐしを通すたびに髪の艶が光を反射する。
肩に落ちる柔らかな髪を整えながら、葉月は静かに息をついた。
窓の外の月明かりとランプの光が、部屋の中でゆるやかに混ざり合う。
その静かな時間が、今日一日の出来事をそっと包み込んでいた。
その背後で――
コンコン、と小さなノック。
「……葉月姉?」
「どしたの、憂ちゃん」
ドアが開いて、憂がひょこっと顔を出す。
淡いピンク色のパジャマ。胸元に小さなリボンがついた、少し可愛らしいデザイン。
洗い立ての布から、柔軟剤の甘さが、ごく控えめに漂っていた。
「……かわいいじゃん」
「そ、そんなことないよ……」
憂は照れたように視線を落とし、足音を忍ばせるように部屋へ入ってくる。
葉月はそれを見て、思わず、ふっと笑った。
「ねえ、憂ちゃん」
「なに?」
「数日さ、キャンプ行くでしょ。だからさ……」
葉月はベッドに腰を下ろし、ぽんぽん、と隣を叩いた。
マットレスがやわらかく沈み、掛け布団が小さく揺れる。
「たまには一緒に寝よ」
「……いいの?」
「いいのいいの、おいで~」
憂は少しだけ迷ってから、そっとベッドに近づいた。
布団をめくった瞬間、空気が、わずかに変わる。
干した布の、清潔な匂い。
強く主張するほどではない、けれど確かに、昼の時間を通ってきたことがわかる匂い。
乾いた綿の感触と、うっすら残る温もり。
そこに、葉月の匂いが静かに重なる。
石鹸とシャンプーの名残。
そして、長い時間をこの布団で過ごしてきた人の、落ち着いた気配。
憂は布団に身を沈め、思わず、小さく息を整えた。
洗い立てのシーツはさらりとしていて、指先が気持ちよく滑る。
布団の奥には、昼間の名残のような、ほんのりとした温かさが残っていた。
それは「お日様」という言葉をわざわざ思い浮かべなくても伝わる、安心の感触だった。
まるで、「ここなら大丈夫」と静かに言われているみたいで。
「……あのさ」
憂が、ぽつりと声を落とす。
「理恵さんって……どんな人なの?」
「んー?」
葉月は布団に背中を預け、天井を見上げながら考えた。
掛け布団越しに、互いの体温が、ゆっくりと伝わってくる。
「雪姉ちゃんと似てるところはあるけど……でも、違うタイプかな」
「違う?」
「うん」
声が、少しだけ真面目になる。
「――理恵姐さんはね、すごく情熱的で、音楽作りに一切妥協しない、自分の信じた道をぐいぐい突き進むタイプなんだ」
葉月は指先で布団をなぞりながら続けた。
「時々、人に厳しいし、冷たいって思われることもあるけど……
それは、いい作品を作るためで、自分も他人も力を出し切らせるためなんだと思う」
少し間を置いて、葉月は静かに付け足す。
「……文化祭のときさ」
憂の肩が、ぴくりと動く。
「本当は、理恵姐さんが来る予定だったんだよ」
「え……?」
「でも直前で風邪ひいちゃって、熱も高くて、結局来られなかった」
葉月は苦笑した。
「本人、すごく悔しがってた。なんでこのタイミングなんだって」
布団の中で、葉月の指先が、きゅっと握られる。
「だからね……雪姉ちゃんと千秋ちゃんが代理で助けてくれたって聞いて」
声が、少し柔らぐ。
「すごく感謝してたよ。二人がいてくれて、本当に助かったってって」
憂の胸の奥が、静かに、じんわり温かくなる。
「理恵姐さん、そういうところはちゃんと素直で、助けてもらったことをちゃんと覚えてる人だよ」
憂は少し身を縮める。
その拍子に、布団の中の空気が揺れ、葉月の匂いが、より近くなる。
「……なんかこわそうって思ってた」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
葉月は、ぽんぽんと憂の頭を撫でた。
その手の温もりと一緒に、葉月の匂いが、憂の髪に、そっと移る。
「性格はあれだけど、頼りになる人だよ」
憂は小さく息を吐いて、笑った。
「……ありがとう、葉月姉」
「ん? 紹介したこと?」
少し間を置いて、憂は胸の奥に溜めていた気持ちを、ドイツ語で小さな声でこぼす。
「Ich hab dich lieb,Hadzuki-neechan」
「……え?」
葉月が首を傾げる。
「なにが?」
憂は布団に顔を埋め、布の匂いと葉月の気配に、そのまま身を預ける。
「……内緒」
小さく身を丸めて。
「おやすみ、葉月姉」
「……おやすみ、憂ちゃん」
葉月は微笑み、そっと電気を落とした。
暗闇の中でも、布団の温もりは消えない。
静かな部屋。
二人分の呼吸が、ゆっくり、同じリズムに揃っていく。
昼の名残と、葉月の匂いに守られながら。
――数日後の別れを前にした夜は、あたたかく、穏やかに更けていった。
一日の終わりを告げるように、家の中はゆっくりと静まり返っていた。
廊下の向こうから聞こえる生活音も途切れ、時計の針が進む気配だけが、淡く残っている。
葉月の部屋には、柔らかな間接照明だけが灯っていた。
天井の明かりではなく、壁際に置かれた小さなランプ。
橙色の光が、昼の余韻を引き延ばすように、部屋の輪郭をやさしく縁取っている。
葉月は、水色のパジャマのまま、クローゼットの前で髪をブラッシングしていた。
ブラシの音がかすかに夜に溶け、手ぐしを通すたびに髪の艶が光を反射する。
肩に落ちる柔らかな髪を整えながら、葉月は静かに息をついた。
窓の外の月明かりとランプの光が、部屋の中でゆるやかに混ざり合う。
その静かな時間が、今日一日の出来事をそっと包み込んでいた。
その背後で――
コンコン、と小さなノック。
「……葉月姉?」
「どしたの、憂ちゃん」
ドアが開いて、憂がひょこっと顔を出す。
淡いピンク色のパジャマ。胸元に小さなリボンがついた、少し可愛らしいデザイン。
洗い立ての布から、柔軟剤の甘さが、ごく控えめに漂っていた。
「……かわいいじゃん」
「そ、そんなことないよ……」
憂は照れたように視線を落とし、足音を忍ばせるように部屋へ入ってくる。
葉月はそれを見て、思わず、ふっと笑った。
「ねえ、憂ちゃん」
「なに?」
「数日さ、キャンプ行くでしょ。だからさ……」
葉月はベッドに腰を下ろし、ぽんぽん、と隣を叩いた。
マットレスがやわらかく沈み、掛け布団が小さく揺れる。
「たまには一緒に寝よ」
「……いいの?」
「いいのいいの、おいで~」
憂は少しだけ迷ってから、そっとベッドに近づいた。
布団をめくった瞬間、空気が、わずかに変わる。
干した布の、清潔な匂い。
強く主張するほどではない、けれど確かに、昼の時間を通ってきたことがわかる匂い。
乾いた綿の感触と、うっすら残る温もり。
そこに、葉月の匂いが静かに重なる。
石鹸とシャンプーの名残。
そして、長い時間をこの布団で過ごしてきた人の、落ち着いた気配。
憂は布団に身を沈め、思わず、小さく息を整えた。
洗い立てのシーツはさらりとしていて、指先が気持ちよく滑る。
布団の奥には、昼間の名残のような、ほんのりとした温かさが残っていた。
それは「お日様」という言葉をわざわざ思い浮かべなくても伝わる、安心の感触だった。
まるで、「ここなら大丈夫」と静かに言われているみたいで。
「……あのさ」
憂が、ぽつりと声を落とす。
「理恵さんって……どんな人なの?」
「んー?」
葉月は布団に背中を預け、天井を見上げながら考えた。
掛け布団越しに、互いの体温が、ゆっくりと伝わってくる。
「雪姉ちゃんと似てるところはあるけど……でも、違うタイプかな」
「違う?」
「うん」
声が、少しだけ真面目になる。
「――理恵姐さんはね、すごく情熱的で、音楽作りに一切妥協しない、自分の信じた道をぐいぐい突き進むタイプなんだ」
葉月は指先で布団をなぞりながら続けた。
「時々、人に厳しいし、冷たいって思われることもあるけど……
それは、いい作品を作るためで、自分も他人も力を出し切らせるためなんだと思う」
少し間を置いて、葉月は静かに付け足す。
「……文化祭のときさ」
憂の肩が、ぴくりと動く。
「本当は、理恵姐さんが来る予定だったんだよ」
「え……?」
「でも直前で風邪ひいちゃって、熱も高くて、結局来られなかった」
葉月は苦笑した。
「本人、すごく悔しがってた。なんでこのタイミングなんだって」
布団の中で、葉月の指先が、きゅっと握られる。
「だからね……雪姉ちゃんと千秋ちゃんが代理で助けてくれたって聞いて」
声が、少し柔らぐ。
「すごく感謝してたよ。二人がいてくれて、本当に助かったってって」
憂の胸の奥が、静かに、じんわり温かくなる。
「理恵姐さん、そういうところはちゃんと素直で、助けてもらったことをちゃんと覚えてる人だよ」
憂は少し身を縮める。
その拍子に、布団の中の空気が揺れ、葉月の匂いが、より近くなる。
「……なんかこわそうって思ってた」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
葉月は、ぽんぽんと憂の頭を撫でた。
その手の温もりと一緒に、葉月の匂いが、憂の髪に、そっと移る。
「性格はあれだけど、頼りになる人だよ」
憂は小さく息を吐いて、笑った。
「……ありがとう、葉月姉」
「ん? 紹介したこと?」
少し間を置いて、憂は胸の奥に溜めていた気持ちを、ドイツ語で小さな声でこぼす。
「Ich hab dich lieb,Hadzuki-neechan」
「……え?」
葉月が首を傾げる。
「なにが?」
憂は布団に顔を埋め、布の匂いと葉月の気配に、そのまま身を預ける。
「……内緒」
小さく身を丸めて。
「おやすみ、葉月姉」
「……おやすみ、憂ちゃん」
葉月は微笑み、そっと電気を落とした。
暗闇の中でも、布団の温もりは消えない。
静かな部屋。
二人分の呼吸が、ゆっくり、同じリズムに揃っていく。
昼の名残と、葉月の匂いに守られながら。
――数日後の別れを前にした夜は、あたたかく、穏やかに更けていった。
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