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同じ夜。
同じ時刻。
家々の明かりが一斉に落ち、街が眠りに入るころ。
郊外の高台に建つ、古い屋敷の中で――
ひとつだけ、白い光が灯っていた。
蛍光灯ではない。
天井から吊るされた、裸電球の、わずかに黄ばんだ光。
長い年月を経た廊下の奥、分厚い木扉の向こうにある一室。
その部屋には、使われなくなったはずの古い木製キャビネットが置かれている。
上に載せられているのは、年季の入ったレコードプレーヤー。
傷のついたダストカバー。
少し歪んだ回転軸。
それでも丁寧に手入れされ、今も現役で使われているものだ。
ターンテーブルの上では、黒いレコードが、ゆっくりと回っている。
スピーカーから流れてくるのは、低く、重たい――古いオーケストラの音。
弦はざらつき、管の音はくぐもり、どこか息苦しい。
録音技術の古さが、逆に、音に影を落としていた。
旋律と呼ぶには、あまりに陰鬱で、あまりに、逃げ場がない。
レコード特有の、かすかなノイズが、一定の間隔で混ざる。
その音に包まれながら――
六地蔵 秋香は、古い作業台の前に腰掛け、黙々と手を動かしていた。
シャリ……
シャリ……
一定のリズムで、乾いた音が、レコードの音楽に静かに溶け込んでいく。
彼女の手にあるのは、使い込まれた一本のサバイバルナイフ。
刃渡りは長すぎず、だが、山で使うには十分な重み。
砥石の上を、刃がゆっくりと滑るたび、金属が、鈍く息をする。
シャリ……
シャリ……
その音に合わせて、秋香は小さく――
鼻歌を歌っていた。
レコードから流れる旋律を、なぞるようで、しかし完全には一致しない。
上品で、どこか楽しげな鼻歌。
不穏なオーケストラと重なることで、奇妙な違和感を生んでいる。
それでも秋香の手は止まらない。
刃を寝かせ、角度を微調整しながら、何度も、何度も。
鼻歌は途切れず、刃を研ぐリズムとぴたりと噛み合っていた。
秋香の表情は、穏やかだった。
楽しげ、と言ってもいい。
口元には、ほんのわずかに、微笑みさえ浮かんでいる。
まるでこの重苦しい音楽が、子守歌であるかのように。
「……よろしいですわ」
一度、鼻歌を止め、手を止める。
ナイフを持ち上げ、裸電球にかざす。
刃先が、細い光の線を反射した。
それを見て、秋香は満足そうに頷く。
「ええ、とても良い仕上がりですこと」
独り言は柔らかく、どこか上機嫌。
まるで、翌日の散策の準備でもしているかのように。
背後で、レコードのオーケストラが一段、低く沈む。
針が溝をなぞる音が、わずかに強くなる。
彼女はポケットから布切れを取り出し、丁寧に刃を拭う。
金属の冷たさが、布越しに、はっきりと伝わる。
拭い終えたナイフを、革製のシースに収めると、小さな「カチリ」という音がした。
その音が、やけに大きく、天井の高い部屋に反響する。
同時に、レコードが一瞬だけ、ノイズを立てた。
秋香は、ふと顔を上げる。
屋敷の廊下の向こうは、闇。
窓はすべて閉じられ、風の音も、外の気配も、ここまでは届かない。
まるで、屋敷そのものが、一瞬――
呼吸を止めたかのようだった。
「……あら?」
だが、すぐに小さく肩をすくめる。
「気のせい、ですわね」
そう言って、再び小さく鼻歌を口ずさみながら、作業台から立ち上がった。
足元には、すでに揃えられた装備。
ロープ。
折り畳みノコギリ。
ファーストエイドキット。
米軍のレーション。
どれも、「楽しいキャンプ」に必要なものばかり。
――本来なら。
秋香はそれらを一つずつ確認しながら、レコードに合わせて上品な鼻歌を続ける。
だが旋律は合わない。
明るいはずの鼻歌が、古いオーケストラに押され、どこか歪んで聞こえた。
「葉月さんも、小鈴さんも、結衣さんも、理恵姐様も……」
名前を呼ぶ声は、変わらず、やさしい。
「きっと、素敵な思い出になりますわね」
そう言って、リュックのバックルを締める。
ぎゅ、と空気が押し出される音。
その瞬間。
裸電球が、ちらり、と揺れた。
一度。
ほんの一瞬。
同時に、レコードが不協和音を噛ませる。
秋香は、動かない。
まるで、それを合図として待っていたかのように。
再び、ナイフの柄に指をかける。
シースの上から、軽く、確かめるように。
「……山は、正直ですの」
誰に向けたとも知れない声。
微笑みは、消えていない。
だがその目は、先ほどよりも、ほんの少しだけ――
冷えていた。
「準備が足りませんと、きちんと……教えてくださいますから」
レコードは回り続け、オーケストラは低く、低く、沈み込む。
それでも針は外れず、何事もなかったかのように音楽は流れ続けた。
秋香はリュックを背負い、古い屋敷の扉へ向かう。
ギィ……と、木と金属が擦れる音。
外は、深い夜。
空には月がなく、星も、見えない。
それでも彼女は、迷いなく、闇の中へ踏み出した。
「さあ……」
楽しげで、鼻歌の余韻を残した声。
「楽しいキャンプの始まりですわ」
屋敷の影が、その背中をゆっくりと包み込んでいく。
同じ夜。
別の場所では、二人分の呼吸が、静かに揃っていることを――
この時の秋香は、まだ、知らない。
――あるいは、知っていても、お気になさらなかったのかもしれない。
夜は、まだ、始まったばかりだった。
同じ時刻。
家々の明かりが一斉に落ち、街が眠りに入るころ。
郊外の高台に建つ、古い屋敷の中で――
ひとつだけ、白い光が灯っていた。
蛍光灯ではない。
天井から吊るされた、裸電球の、わずかに黄ばんだ光。
長い年月を経た廊下の奥、分厚い木扉の向こうにある一室。
その部屋には、使われなくなったはずの古い木製キャビネットが置かれている。
上に載せられているのは、年季の入ったレコードプレーヤー。
傷のついたダストカバー。
少し歪んだ回転軸。
それでも丁寧に手入れされ、今も現役で使われているものだ。
ターンテーブルの上では、黒いレコードが、ゆっくりと回っている。
スピーカーから流れてくるのは、低く、重たい――古いオーケストラの音。
弦はざらつき、管の音はくぐもり、どこか息苦しい。
録音技術の古さが、逆に、音に影を落としていた。
旋律と呼ぶには、あまりに陰鬱で、あまりに、逃げ場がない。
レコード特有の、かすかなノイズが、一定の間隔で混ざる。
その音に包まれながら――
六地蔵 秋香は、古い作業台の前に腰掛け、黙々と手を動かしていた。
シャリ……
シャリ……
一定のリズムで、乾いた音が、レコードの音楽に静かに溶け込んでいく。
彼女の手にあるのは、使い込まれた一本のサバイバルナイフ。
刃渡りは長すぎず、だが、山で使うには十分な重み。
砥石の上を、刃がゆっくりと滑るたび、金属が、鈍く息をする。
シャリ……
シャリ……
その音に合わせて、秋香は小さく――
鼻歌を歌っていた。
レコードから流れる旋律を、なぞるようで、しかし完全には一致しない。
上品で、どこか楽しげな鼻歌。
不穏なオーケストラと重なることで、奇妙な違和感を生んでいる。
それでも秋香の手は止まらない。
刃を寝かせ、角度を微調整しながら、何度も、何度も。
鼻歌は途切れず、刃を研ぐリズムとぴたりと噛み合っていた。
秋香の表情は、穏やかだった。
楽しげ、と言ってもいい。
口元には、ほんのわずかに、微笑みさえ浮かんでいる。
まるでこの重苦しい音楽が、子守歌であるかのように。
「……よろしいですわ」
一度、鼻歌を止め、手を止める。
ナイフを持ち上げ、裸電球にかざす。
刃先が、細い光の線を反射した。
それを見て、秋香は満足そうに頷く。
「ええ、とても良い仕上がりですこと」
独り言は柔らかく、どこか上機嫌。
まるで、翌日の散策の準備でもしているかのように。
背後で、レコードのオーケストラが一段、低く沈む。
針が溝をなぞる音が、わずかに強くなる。
彼女はポケットから布切れを取り出し、丁寧に刃を拭う。
金属の冷たさが、布越しに、はっきりと伝わる。
拭い終えたナイフを、革製のシースに収めると、小さな「カチリ」という音がした。
その音が、やけに大きく、天井の高い部屋に反響する。
同時に、レコードが一瞬だけ、ノイズを立てた。
秋香は、ふと顔を上げる。
屋敷の廊下の向こうは、闇。
窓はすべて閉じられ、風の音も、外の気配も、ここまでは届かない。
まるで、屋敷そのものが、一瞬――
呼吸を止めたかのようだった。
「……あら?」
だが、すぐに小さく肩をすくめる。
「気のせい、ですわね」
そう言って、再び小さく鼻歌を口ずさみながら、作業台から立ち上がった。
足元には、すでに揃えられた装備。
ロープ。
折り畳みノコギリ。
ファーストエイドキット。
米軍のレーション。
どれも、「楽しいキャンプ」に必要なものばかり。
――本来なら。
秋香はそれらを一つずつ確認しながら、レコードに合わせて上品な鼻歌を続ける。
だが旋律は合わない。
明るいはずの鼻歌が、古いオーケストラに押され、どこか歪んで聞こえた。
「葉月さんも、小鈴さんも、結衣さんも、理恵姐様も……」
名前を呼ぶ声は、変わらず、やさしい。
「きっと、素敵な思い出になりますわね」
そう言って、リュックのバックルを締める。
ぎゅ、と空気が押し出される音。
その瞬間。
裸電球が、ちらり、と揺れた。
一度。
ほんの一瞬。
同時に、レコードが不協和音を噛ませる。
秋香は、動かない。
まるで、それを合図として待っていたかのように。
再び、ナイフの柄に指をかける。
シースの上から、軽く、確かめるように。
「……山は、正直ですの」
誰に向けたとも知れない声。
微笑みは、消えていない。
だがその目は、先ほどよりも、ほんの少しだけ――
冷えていた。
「準備が足りませんと、きちんと……教えてくださいますから」
レコードは回り続け、オーケストラは低く、低く、沈み込む。
それでも針は外れず、何事もなかったかのように音楽は流れ続けた。
秋香はリュックを背負い、古い屋敷の扉へ向かう。
ギィ……と、木と金属が擦れる音。
外は、深い夜。
空には月がなく、星も、見えない。
それでも彼女は、迷いなく、闇の中へ踏み出した。
「さあ……」
楽しげで、鼻歌の余韻を残した声。
「楽しいキャンプの始まりですわ」
屋敷の影が、その背中をゆっくりと包み込んでいく。
同じ夜。
別の場所では、二人分の呼吸が、静かに揃っていることを――
この時の秋香は、まだ、知らない。
――あるいは、知っていても、お気になさらなかったのかもしれない。
夜は、まだ、始まったばかりだった。
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