207 / 255
20話 リンゴの温度
しおりを挟む
駅から少し歩いた、どこにでもあるような住宅街。
古びた街灯がぼんやり照らす路地を抜けると、
新しくもお洒落でもない、昭和レトロなアパートの前に理恵は立ち止まった。
憂は思わず足を止めた。
「……え?」
「は? なに、その顔」
理恵は鍵束をジャラつかせながら、鼻で小さく笑う。
「まさかさ。タワマンとか想像してたわけ?」
「い、いえ……!」
慌てて首を振るけど、心当たりがありすぎて自分でも苦笑いになる。
「どうせお金持ちの家とか思ってたんでしょ」
図星を突かれて、憂は小さく頷くしかなかった。
「……びっくりした?」
「……はい」
「だろうね」
悪びれもせず、理恵はドアを開けた。
中は、ごく普通の一人暮らしの部屋だった。
コンパクトなキッチン、少し黄ばんだ壁紙、低めのテーブル、
長く使われてクタッとしたソファ。
高級感なんて微塵もない。
けれど、そこにはちゃんと生活の匂いがあった。
洗い物の残り香、洗濯物の柔軟剤、昨日までの人の気配。
「突っ立ってないで入んな。靴ちゃんと揃えな。癖出てるから」
「は、はいっ」
条件反射で返事をしてしまい、憂は内心で小さく苦笑する。
理恵はエプロンを頭から被りながら、淡々と言った。
「ここね。彼氏と一番長くいた場所」
その声は、いつもの鬼の先輩と同じく、迷いがない。
「引っ越す話も何度か出たけどさ。結局、ここが一番落ち着いたのよ。
あの家みたいに広くても、気取っても、息苦しいだけだった」
その言葉に、憂の胸の奥が少しだけ温かくなる。
理恵が、こんな普通の場所を「落ち着く」と言えることが、なんだかすごく嬉しかった。
「じゃ、晩ご飯作るわよ。レッスン後なんだから、栄養ぶち込まなきゃでしょ。
葉月みたいな感動レベルは無理だから。期待して文句言うの禁止ね?」
「そんな……!」
憂が思わず笑うと、理恵はちらりと横目で見てくる。
「笑ってる余裕あるなら、さっさと手伝え」
「……はい。やります」
「よし」
並んでキッチンに立つ。
フライパンで豚肉がジュウジュウと音を立て、生姜と醤油の香りが部屋いっぱいに広がっていく。
「今日のメニューね」
生姜焼き。
味噌汁。
肉じゃが。
サラダと漬物。
「……ちゃんとしすぎじゃないですか」
「普通だから、それ」
理恵は鼻で笑う。
「外で身体酷使した日は、ちゃんとしたもん食う。それだけの話」
その背中は、レッスン中の鬼の先輩と変わらないくらい、迷いがない。
いや、もしかしたら家の中のほうが、もっと素で、もっと強いのかもしれない。
食卓に料理が並ぶ。
豪華じゃない。
でも、ちゃんと生きてるご飯。
「いただきます。……おいしいです」
「でしょ。これで十分なのよ」
しばらく、箸の音だけが続いた。
静かで、温かくて、なんだか安心する時間。
食後、理恵は立ち上がる。
「……ちょっと待ってて」
冷蔵庫の野菜室からリンゴを一つ取り出し、引き出しからおろし金を出す。
しゃり、しゃり、と静かな音が響く。
「風邪こじらせたとき、あの人がやってくれたの」
声が、少しだけ低くなる。
「向こう、どうしても外せない仕事の日でさ。本当は来なくていいって言ったのに。
でも、スーツのまんま。ネクタイ緩めただけで、汗臭くて疲れてる顔して」
リンゴが、器に溜まっていく。
「料理なんて全然できない人でさ。包丁持つ手が震えるって笑ってた」
くすっと、理恵が小さく笑う。
「だから、すりおろしならいけるだろって」
「で、あたしが熱でぼーっとしてたら……黙って、手、握ってくれて」
器に盛られた、すりおろしリンゴを、憂の前にそっと置く。
「食べな」
「……いただきます」
一口。
甘くて、やさしい味。
体温みたいな温かさが、じんわり広がる。
「……おいしいです」
「特別じゃないでしょ」
「でも……あったかいです」
理恵は、少しだけ目を伏せた。
照れを隠すように鼻で笑い、スマホを取り出す。
画面を操作し、何でもない調子で言う。
「この人」
差し出された画面。
「小鈴の兄貴」
「………………え?」
思考が、一瞬止まる。
「……小鈴さんの……お兄さん、ですか?」
「そう。幼馴染だからさ。ガキの頃から知ってる」
画面に映るのは、端正という言葉だけでは足りないほど整った顔立ちの男だった。
彫りの深すぎない輪郭に、涼しげな目元。けれどその視線は鋭さよりも、どこか人を安心させる柔らかさを帯びている。
小鈴とよく似た、上品な造作。
ただしこちらは、時間と経験を重ねた分だけ、微笑みに余裕と艶がある。
口元がわずかに緩むだけで、場の空気が静かに和らぐ。派手さはないのに、目を離せなくなる――
そんな大人の色気を自然に纏っていた。
「……すごく……かっこいいですね」
「でしょ。無駄に」
「無駄……」
「顔が」
憂は深く息を吐いた。
「……小鈴さん、全然言わないですよね」
「自慢になるの、嫌なんだって。あの子、昔からそういうとこある」
少し迷って、憂は口を開く。
「……失礼だったら、すみません」
「なに?」
「理恵さん……玉の輿って、言われたり……」
一瞬。
理恵の手が止まる。
「言われるよ。山ほど」
軽い口調。
だが、笑ってはいない。
「最初は遠回し。若いのにすごいですねとか。そのうち、露骨になった」
食事会。
彼が席を外した隙。
「若いだけ。本気にしない方がいい。彼の足を引っ張る存在だ」
淡々と語られる言葉が、重い。
「スタジオにも電話来たよ。あなたの将来のためにって」
さらに、理恵は続ける。
「あの家――二条家周りの女たちも、陰で散々邪魔をされた。
あの女みたいなのが隣にいたら、家名が汚れるって。
パーティーの席でわざと聞こえるように囁いたり、
知り合いの雑誌記者にネタ流したり……全部、知ってたよ」
憂の胸が、きゅっと締まる。
名家の長男と、普通の出自の理恵。
周囲の女たちの嫉妬と、伝統を重んじる者たちの抵抗。
それがどれだけ重かったか、想像するだけで息苦しい。
理恵は、肩をすくめる。
「でもね」
声が、低くなる。
「泣かなかった。逃げなかった」
理恵は、リンゴの器に指先を置いたまま、視線を上げた。
逃げも照れもない、まっすぐな目。
「こんながさつで、口も悪くて、愛想もないあたしを」
鼻で小さく笑う。
「あいつは、直した方がいいなんて、一度も言わなかった」
声が、少しだけ低くなる。
「家がどうとか、身分がどうとか、一度も持ち出さなかった」
視線が、憂を射抜く。
「横に立つのが当たり前みたいな顔でさ。
守る側とか、守られる側とか、そういう上下、最初から作らなかった」
リンゴの器を、軽く押す。
「それに――」
一瞬だけ、言葉を選ぶように間が空く。
「あたしが、周りの女たちにどう陰口叩かれて、どれだけ邪魔されてたかも、全部、知ってた」
憂の胸が、きゅっと締まる。
「直接言われたことも、陰でやられたことも」
淡々としているのに、重い。
「でさ。あたしが何も言わなくても」
理恵は、肩をすくめた。
「ちゃんと、言ってくれた」
――おい、あいつは俺の大事な人だから。
――変な目で見るのやめろよ。
――俺の隣にいるのはこいつでいいんだよ。
それで終わり。
「俺の問題だからって、サラッと言ってのけた」
短く笑う。
「かっこつけすぎでしょ」
でも、その笑いは、どこか懐かしくて、柔らかかった。
理恵は、はっきり言う。
「条件で手放すほど、あたしは軽くない」
一歩も引かない声。
「好きになってくれたことも、ちゃんと人として扱ってくれたことも、全部ひっくるめて――選んだ」
憂は、息を忘れていた。
胸の奥に、熱がじわりと広がる。
「……理恵さん」
名前を呼ぶ声が、自然と丁寧になる。
「強いですね」
理恵は一瞬きょとんとし、それから鼻で笑った。
「強いんじゃなくて、ただ……逃げたら、全部終わっちゃうって、分かってただけ」
それだけなのに、その言葉は、憂の胸に深く刺さった。
憂は、深く息を吸った。
「……分かります」
静かに。
ぎゅっと、手を握る。
「わたしも……いじめで、傷ついたことがあります。
周りの目とか、言葉とか、全部、怖くて、逃げたくなったことが……」
理恵は一瞬黙り、それから小さく笑った。
「……そっか」
そして、まっすぐ言う。
「だからさ。覚悟のないやつ、嫌い。……あたしは選んだ。全部ひっくるめて」
憂は、はっきりと答えた。
「……一緒に、行きたいです」
一瞬の沈黙。
そして、理恵は笑った。
●
静けさが戻る。
リンゴの器はもう空で、テーブルの上には、洗い終えた食器が伏せられている。
理恵は、エプロンを外しながら、ふっと息をついた。
「……あー」
いつもの調子。
けれど、どこか腹を決めた声。
「憂」
「……はい?」
呼ばれただけで、背筋が伸びる。
理恵は壁にもたれ、腕を組んだ。
「来月、結婚するんだ」
一瞬、音が消えた気がした。
「……え?」
あっさり。
でも、その目は冗談じゃない。
「入籍も式も、もう決まってる」
憂の頭の中で、言葉がぐるぐる回る。
喉が小さく鳴る。
「そ、それじゃ……」
「うん」
理恵は、ためらいなく続けた。
「スタジオ、閉める」
きっぱりと。
「この場所も、レッスンも、仕事としては終わり」
憂は息を飲む。
「……仕事、やめちゃうんですか?」
憂の問いは、慎重だった。
責めるでも、縋るでもなく、
ただ確かめるように。
理恵は、少しだけ目を伏せる。
「……やめる、って言い方は好きじゃないな」
それから、肩をすくめた。
「今の仕事、嫌いじゃないよ。むしろ、好き」
即答だった。
「踊るのも、教えるのも、ステージに立つのもさ」
でも、と言葉を切る。
「二条家に嫁ぐってのは、趣味で好き勝手やる、とは違う」
現実的な声。
「名前も、立場も、全部ついて回る」
憂は黙って聞いている。
理恵は、少しだけ困ったように笑った。
「あたしさ」
視線が、真っ直ぐ憂を捉える。
「旦那のいい女でいたいんだよ」
照れも、誤魔化しもない。
「支えられる側じゃなくて、隣に立てる女でいたい」
憂の胸が、きゅっと鳴る。
「……それが、理恵さんの選択……」
「そう」
短く、強く。
「全部捨てるわけじゃない。でも、優先順位は変える」
理恵は、軽く息を吐いた。
「仕事は仕事。好きなものは好き」
そして、少しだけ柔らかくなる。
「でも今は、選ばれた女でいる覚悟をちゃんと形にしたい」
憂は、静かに頷いた。
それは逃げでも、諦めでもない。
理恵が、自分で選んだ未来だった。
でも、すぐに視線を憂に戻す。
「でもね。選んだ以上、半端なことはしたくない」
憂は、ぎゅっと手を握った。
「……理恵さん……」
「でさ」
そこで、理恵は少しだけ言いにくそうに視線を逸らし、それから、真っ直ぐに戻した。
「最後の生徒――あんたにする」
「……わたし……?」
「そう」
即答だった。
「他の生徒たちの様子も見てきたし、今日のあんたの顔見て、確信した」
一歩、距離が近づく。
「努力をやめない。逃げない。覚悟がある」
厳しい目。
でも、切り捨てる色はない。
「甘い指導はしない。逃げ道も、慰めも、用意しない」
はっきりと。
「……あたしの全部、あんたに叩き込む」
胸が、熱くなる。
「理恵さんの……全部……」
「そう」
理恵は小さく笑った。
「だから、覚悟しな。泣いても、縋っても、途中でやめさせない」
でも、その目はどこか、嬉しそうだった。
憂は、深く息を吸う。
「……お願いします」
頭を下げず、目を逸らさず。
「最後まで、ついていきます」
一瞬、理恵が黙る。
それから――
「……いい顔するようになったじゃん」
いつもの、少し意地悪な笑い。
「じゃあ決まり」
指を一本立てる。
「明日から、地獄。本気の、最後」
憂は、はっきりと頷いた。
逃げない。
信じる。
選んだ道を、最後まで歩く。
この夜から――
すべてが、本当の意味で動き出した。
古びた街灯がぼんやり照らす路地を抜けると、
新しくもお洒落でもない、昭和レトロなアパートの前に理恵は立ち止まった。
憂は思わず足を止めた。
「……え?」
「は? なに、その顔」
理恵は鍵束をジャラつかせながら、鼻で小さく笑う。
「まさかさ。タワマンとか想像してたわけ?」
「い、いえ……!」
慌てて首を振るけど、心当たりがありすぎて自分でも苦笑いになる。
「どうせお金持ちの家とか思ってたんでしょ」
図星を突かれて、憂は小さく頷くしかなかった。
「……びっくりした?」
「……はい」
「だろうね」
悪びれもせず、理恵はドアを開けた。
中は、ごく普通の一人暮らしの部屋だった。
コンパクトなキッチン、少し黄ばんだ壁紙、低めのテーブル、
長く使われてクタッとしたソファ。
高級感なんて微塵もない。
けれど、そこにはちゃんと生活の匂いがあった。
洗い物の残り香、洗濯物の柔軟剤、昨日までの人の気配。
「突っ立ってないで入んな。靴ちゃんと揃えな。癖出てるから」
「は、はいっ」
条件反射で返事をしてしまい、憂は内心で小さく苦笑する。
理恵はエプロンを頭から被りながら、淡々と言った。
「ここね。彼氏と一番長くいた場所」
その声は、いつもの鬼の先輩と同じく、迷いがない。
「引っ越す話も何度か出たけどさ。結局、ここが一番落ち着いたのよ。
あの家みたいに広くても、気取っても、息苦しいだけだった」
その言葉に、憂の胸の奥が少しだけ温かくなる。
理恵が、こんな普通の場所を「落ち着く」と言えることが、なんだかすごく嬉しかった。
「じゃ、晩ご飯作るわよ。レッスン後なんだから、栄養ぶち込まなきゃでしょ。
葉月みたいな感動レベルは無理だから。期待して文句言うの禁止ね?」
「そんな……!」
憂が思わず笑うと、理恵はちらりと横目で見てくる。
「笑ってる余裕あるなら、さっさと手伝え」
「……はい。やります」
「よし」
並んでキッチンに立つ。
フライパンで豚肉がジュウジュウと音を立て、生姜と醤油の香りが部屋いっぱいに広がっていく。
「今日のメニューね」
生姜焼き。
味噌汁。
肉じゃが。
サラダと漬物。
「……ちゃんとしすぎじゃないですか」
「普通だから、それ」
理恵は鼻で笑う。
「外で身体酷使した日は、ちゃんとしたもん食う。それだけの話」
その背中は、レッスン中の鬼の先輩と変わらないくらい、迷いがない。
いや、もしかしたら家の中のほうが、もっと素で、もっと強いのかもしれない。
食卓に料理が並ぶ。
豪華じゃない。
でも、ちゃんと生きてるご飯。
「いただきます。……おいしいです」
「でしょ。これで十分なのよ」
しばらく、箸の音だけが続いた。
静かで、温かくて、なんだか安心する時間。
食後、理恵は立ち上がる。
「……ちょっと待ってて」
冷蔵庫の野菜室からリンゴを一つ取り出し、引き出しからおろし金を出す。
しゃり、しゃり、と静かな音が響く。
「風邪こじらせたとき、あの人がやってくれたの」
声が、少しだけ低くなる。
「向こう、どうしても外せない仕事の日でさ。本当は来なくていいって言ったのに。
でも、スーツのまんま。ネクタイ緩めただけで、汗臭くて疲れてる顔して」
リンゴが、器に溜まっていく。
「料理なんて全然できない人でさ。包丁持つ手が震えるって笑ってた」
くすっと、理恵が小さく笑う。
「だから、すりおろしならいけるだろって」
「で、あたしが熱でぼーっとしてたら……黙って、手、握ってくれて」
器に盛られた、すりおろしリンゴを、憂の前にそっと置く。
「食べな」
「……いただきます」
一口。
甘くて、やさしい味。
体温みたいな温かさが、じんわり広がる。
「……おいしいです」
「特別じゃないでしょ」
「でも……あったかいです」
理恵は、少しだけ目を伏せた。
照れを隠すように鼻で笑い、スマホを取り出す。
画面を操作し、何でもない調子で言う。
「この人」
差し出された画面。
「小鈴の兄貴」
「………………え?」
思考が、一瞬止まる。
「……小鈴さんの……お兄さん、ですか?」
「そう。幼馴染だからさ。ガキの頃から知ってる」
画面に映るのは、端正という言葉だけでは足りないほど整った顔立ちの男だった。
彫りの深すぎない輪郭に、涼しげな目元。けれどその視線は鋭さよりも、どこか人を安心させる柔らかさを帯びている。
小鈴とよく似た、上品な造作。
ただしこちらは、時間と経験を重ねた分だけ、微笑みに余裕と艶がある。
口元がわずかに緩むだけで、場の空気が静かに和らぐ。派手さはないのに、目を離せなくなる――
そんな大人の色気を自然に纏っていた。
「……すごく……かっこいいですね」
「でしょ。無駄に」
「無駄……」
「顔が」
憂は深く息を吐いた。
「……小鈴さん、全然言わないですよね」
「自慢になるの、嫌なんだって。あの子、昔からそういうとこある」
少し迷って、憂は口を開く。
「……失礼だったら、すみません」
「なに?」
「理恵さん……玉の輿って、言われたり……」
一瞬。
理恵の手が止まる。
「言われるよ。山ほど」
軽い口調。
だが、笑ってはいない。
「最初は遠回し。若いのにすごいですねとか。そのうち、露骨になった」
食事会。
彼が席を外した隙。
「若いだけ。本気にしない方がいい。彼の足を引っ張る存在だ」
淡々と語られる言葉が、重い。
「スタジオにも電話来たよ。あなたの将来のためにって」
さらに、理恵は続ける。
「あの家――二条家周りの女たちも、陰で散々邪魔をされた。
あの女みたいなのが隣にいたら、家名が汚れるって。
パーティーの席でわざと聞こえるように囁いたり、
知り合いの雑誌記者にネタ流したり……全部、知ってたよ」
憂の胸が、きゅっと締まる。
名家の長男と、普通の出自の理恵。
周囲の女たちの嫉妬と、伝統を重んじる者たちの抵抗。
それがどれだけ重かったか、想像するだけで息苦しい。
理恵は、肩をすくめる。
「でもね」
声が、低くなる。
「泣かなかった。逃げなかった」
理恵は、リンゴの器に指先を置いたまま、視線を上げた。
逃げも照れもない、まっすぐな目。
「こんながさつで、口も悪くて、愛想もないあたしを」
鼻で小さく笑う。
「あいつは、直した方がいいなんて、一度も言わなかった」
声が、少しだけ低くなる。
「家がどうとか、身分がどうとか、一度も持ち出さなかった」
視線が、憂を射抜く。
「横に立つのが当たり前みたいな顔でさ。
守る側とか、守られる側とか、そういう上下、最初から作らなかった」
リンゴの器を、軽く押す。
「それに――」
一瞬だけ、言葉を選ぶように間が空く。
「あたしが、周りの女たちにどう陰口叩かれて、どれだけ邪魔されてたかも、全部、知ってた」
憂の胸が、きゅっと締まる。
「直接言われたことも、陰でやられたことも」
淡々としているのに、重い。
「でさ。あたしが何も言わなくても」
理恵は、肩をすくめた。
「ちゃんと、言ってくれた」
――おい、あいつは俺の大事な人だから。
――変な目で見るのやめろよ。
――俺の隣にいるのはこいつでいいんだよ。
それで終わり。
「俺の問題だからって、サラッと言ってのけた」
短く笑う。
「かっこつけすぎでしょ」
でも、その笑いは、どこか懐かしくて、柔らかかった。
理恵は、はっきり言う。
「条件で手放すほど、あたしは軽くない」
一歩も引かない声。
「好きになってくれたことも、ちゃんと人として扱ってくれたことも、全部ひっくるめて――選んだ」
憂は、息を忘れていた。
胸の奥に、熱がじわりと広がる。
「……理恵さん」
名前を呼ぶ声が、自然と丁寧になる。
「強いですね」
理恵は一瞬きょとんとし、それから鼻で笑った。
「強いんじゃなくて、ただ……逃げたら、全部終わっちゃうって、分かってただけ」
それだけなのに、その言葉は、憂の胸に深く刺さった。
憂は、深く息を吸った。
「……分かります」
静かに。
ぎゅっと、手を握る。
「わたしも……いじめで、傷ついたことがあります。
周りの目とか、言葉とか、全部、怖くて、逃げたくなったことが……」
理恵は一瞬黙り、それから小さく笑った。
「……そっか」
そして、まっすぐ言う。
「だからさ。覚悟のないやつ、嫌い。……あたしは選んだ。全部ひっくるめて」
憂は、はっきりと答えた。
「……一緒に、行きたいです」
一瞬の沈黙。
そして、理恵は笑った。
●
静けさが戻る。
リンゴの器はもう空で、テーブルの上には、洗い終えた食器が伏せられている。
理恵は、エプロンを外しながら、ふっと息をついた。
「……あー」
いつもの調子。
けれど、どこか腹を決めた声。
「憂」
「……はい?」
呼ばれただけで、背筋が伸びる。
理恵は壁にもたれ、腕を組んだ。
「来月、結婚するんだ」
一瞬、音が消えた気がした。
「……え?」
あっさり。
でも、その目は冗談じゃない。
「入籍も式も、もう決まってる」
憂の頭の中で、言葉がぐるぐる回る。
喉が小さく鳴る。
「そ、それじゃ……」
「うん」
理恵は、ためらいなく続けた。
「スタジオ、閉める」
きっぱりと。
「この場所も、レッスンも、仕事としては終わり」
憂は息を飲む。
「……仕事、やめちゃうんですか?」
憂の問いは、慎重だった。
責めるでも、縋るでもなく、
ただ確かめるように。
理恵は、少しだけ目を伏せる。
「……やめる、って言い方は好きじゃないな」
それから、肩をすくめた。
「今の仕事、嫌いじゃないよ。むしろ、好き」
即答だった。
「踊るのも、教えるのも、ステージに立つのもさ」
でも、と言葉を切る。
「二条家に嫁ぐってのは、趣味で好き勝手やる、とは違う」
現実的な声。
「名前も、立場も、全部ついて回る」
憂は黙って聞いている。
理恵は、少しだけ困ったように笑った。
「あたしさ」
視線が、真っ直ぐ憂を捉える。
「旦那のいい女でいたいんだよ」
照れも、誤魔化しもない。
「支えられる側じゃなくて、隣に立てる女でいたい」
憂の胸が、きゅっと鳴る。
「……それが、理恵さんの選択……」
「そう」
短く、強く。
「全部捨てるわけじゃない。でも、優先順位は変える」
理恵は、軽く息を吐いた。
「仕事は仕事。好きなものは好き」
そして、少しだけ柔らかくなる。
「でも今は、選ばれた女でいる覚悟をちゃんと形にしたい」
憂は、静かに頷いた。
それは逃げでも、諦めでもない。
理恵が、自分で選んだ未来だった。
でも、すぐに視線を憂に戻す。
「でもね。選んだ以上、半端なことはしたくない」
憂は、ぎゅっと手を握った。
「……理恵さん……」
「でさ」
そこで、理恵は少しだけ言いにくそうに視線を逸らし、それから、真っ直ぐに戻した。
「最後の生徒――あんたにする」
「……わたし……?」
「そう」
即答だった。
「他の生徒たちの様子も見てきたし、今日のあんたの顔見て、確信した」
一歩、距離が近づく。
「努力をやめない。逃げない。覚悟がある」
厳しい目。
でも、切り捨てる色はない。
「甘い指導はしない。逃げ道も、慰めも、用意しない」
はっきりと。
「……あたしの全部、あんたに叩き込む」
胸が、熱くなる。
「理恵さんの……全部……」
「そう」
理恵は小さく笑った。
「だから、覚悟しな。泣いても、縋っても、途中でやめさせない」
でも、その目はどこか、嬉しそうだった。
憂は、深く息を吸う。
「……お願いします」
頭を下げず、目を逸らさず。
「最後まで、ついていきます」
一瞬、理恵が黙る。
それから――
「……いい顔するようになったじゃん」
いつもの、少し意地悪な笑い。
「じゃあ決まり」
指を一本立てる。
「明日から、地獄。本気の、最後」
憂は、はっきりと頷いた。
逃げない。
信じる。
選んだ道を、最後まで歩く。
この夜から――
すべてが、本当の意味で動き出した。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる