沈黙のういザード 

豚さん

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7話 祖母の味

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ベルテントの外で、小さく火が鳴った。

 夜の森は、昼とはまるで別の顔をしている。
 木々は影となり、焚き火の明かりだけが、人の存在をかろうじて示していた。

 秋香は静かな所作で、コーヒーを淹れていた。

 ケトルから湯を注ぐ音。
 粉がふくらみ、ゆっくりと香りが立ちのぼる。

 それは深く、どこか懐かしい匂いだった。

「どうぞ、葉月さん」

「ありがとう」

 葉月はマグを受け取り、一口、そっと口に含む。

「……おいしい」

 焚き火の熱と、夜の冷えた空気。
 そのあいだに、コーヒーの苦味と温かさが、ちょうどよく溶けていた。

「ねえ、秋香ちゃん」

「はい」

「……さっき、シャワールームでね」

 葉月は、あの女の子の話を、ゆっくり語った。

 突然、そこに現れたこと。
 何も言わず、ぎゅっと抱きしめられ、秋香のことを大事に想っているか、確かめられたこと。

 がんばりすぎていないかと心配していて、「いままで、ありがとう」と伝えてほしいと託され、野菜ジュースはあるかと、妙に生活的なことを聞かれたこと。

 そして――
 目を瞬かせた、その一瞬で、気づいたら、もう、いなくなっていたこと。

 話し終えると、コーヒーの表面が、わずかに揺れていた。

 火の音と、森のざわめきだけが残る。

「……そうでしたの」

秋香はマグを胸元に抱き、しばらく黙ったまま、炎を見つめていた。

「…………」

長い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いて、ぽつりと呟いた。

「……もしかしたら。わたくしの……祖母かもしれません」

「……え?」

 葉月は、驚きながらも、すぐには否定しなかった。

「出発する前のことなのですが……」

 秋香は、ぽつりぽつりと話し始める。

「キャンプに行く前日の夜、ナイフを研いでいたのです」

「うん」

「そのとき……誰かが、そばを歩いたような音がして」

 風の音ではない。
 動物とも違う。

「一度ではありませんでした。研ぐたびに、かすかな物音がして……」

 秋香は、マグを少し強く握る。

「不思議でしたが……なぜか、怖くはなかったのです」

 それから、ゆっくりと続けた。

「祖母は……とても苦労した時代を生きた人でした」

秋香は、炎を見つめたまま、ゆっくり言葉を紡ぐ。

「祖母は……最期の頃、よく子どもの頃の話をしていました。『あの頃が一番幸せだった』って。  だから、もしかしたら……わたくしに見せてくれたのは、祖母が一番安心できた、あの頃の姿なのかもしれません」

 そう前置きして、焚き火の向こうを見つめる。

 揺れる炎に、過去の景色を重ねるように。

「祖母は、戦時中を生きた人でした」

 それだけで、声の調子が、わずかに変わる。

 食べ物がなく、配給は足りず、幼い頃から働きに出ていたこと。

 空腹を抱えたまま、夜をやり過ごすのが、当たり前だったこと。

「戦争が終わってから……しばらくして、学校で給食が始まったそうです」

 秋香は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「その日、初めて出たのが……カレーだったんです」

 ほんの少し、口元が緩んだ。

「こんなに、おいしいものがあるのかって」

 祖母は、そう言って、何度も話してくれたという。

 白いごはんに、温かいルウがかかっていて。
 湯気が立ちのぼる匂いだけで、胸がいっぱいになったこと。

「お腹がいっぱいになる、というより……生きていていいんだって、初めて思えた味だったそうです」

 焚き火が、ぱちりと小さく弾ける。

「だから……祖母は、カレーが好きでした」

 特別な日でなくても。
 豪華なものでなくても。

「また、食べられる。それだけで、明日を信じられたから、と」

 秋香は、マグを両手で包みながら、静かに息を吐いた。

「去年の少し前……祖母は、認知症になりまして」

 葉月は何も言わず、ただ、隣で聞いている。

「わたくし、できるだけ介護をしました。おむつを替えて、一緒にごはんを食べて……」

 秋香の声は静かだが、確かに揺れていた。

「だんだん、子どもみたいな話し方になって……名前も、分からなくなって」

 一度、息を吸う。

「……わたしのことも、忘れてしまいました」

 葉月の指が、マグの縁をきゅっと握る。

「……つらかったです」

 秋香は、小さく微笑もうとして、うまくできなかった。

「でも……祖母のことが、大好きでしたから」

 ぽつり、と。

「苦じゃありませんでした」

 しばらく、沈黙。

 焚き火の音が、その隙間を埋める。

「……最期の日」

 秋香は、視線を落とした。

「お昼に、野菜ジュースを飲ませたのです」

 喉が、かすかに鳴る。

「そしたら……おいしいって」

 声が、震えた。

「それだけ言って……そのまま……」

 ぽろり、と。

 涙が、コーヒーの表面に落ちた。

(……今、葉月さんが話してくれた子が……「おいしかったよね?」って言ったの……あれは、祖母が……わたしに返してくれた言葉だったんだ……)

秋香は、胸元でマグを強く握りしめた。

「……あのときの……祖母の最後の言葉が……今、ちゃんと……返ってきたみたいで……」

声が途切れ、肩が震える。

「……ごめんなさい」

「謝らなくていいよ」

 葉月はすぐに秋香の隣へ寄り、そっと肩を抱いた。

「……大事な話、してくれてありがとう」

 秋香は、しばらく声を殺して泣いた。

 やがて、葉月の胸元に額を預ける。

「……葉月さん」

「うん」

「……秘密、話してしまいました」

 秋香はそう言って、少しだけ困ったように微笑んだ。
 焚き火の光に照らされた瞳は、もう隠すつもりのない色をしている。

 葉月は、その横顔を一瞬見て、マグを持つ手をゆっくり下ろした。

「じゃあ……あたしも、話すね」

 葉月は、少し間を置いてから言った。

「……あたしのお母さんね」

 夜風が、テントの布を静かに揺らす。

「……ずっと前に、両親は離婚してて」

 焚き火が、ぱちりと小さく弾ける。

「それで……あたしは、父のほうに引き取られたんだ」

「……」

「雪姉ちゃんと、憂ちゃんと一緒に、お母さんと暮らしてた」

 葉月は、炎の向こうを見つめたまま続ける。

「でも……雪姉ちゃんが、交通事故で……亡くなって」

 一拍、呼吸を整える。

「そのことが、きっかけになって……お母さん、記憶を失ったんだ」

「……そんな……」

 秋香の声は、思わず漏れた、という調子だった。

「あたしのことも、自分に娘がいたことも……全部、分からなくなって」

 声が、ほんの少しだけ震える。

「それで……今も、病院にいるよ」

 少しだけ、視線を落として。

「ちょくちょく、お見舞いには行ってる」

 しばらくの沈黙。

 焚き火の音だけが、夜を埋める。

「……お父さんもね」

 葉月は、ぽつりと言った。

「数年前に……癌で、亡くなったの」

「……」

「だから……今、あたしの家族は……」

 言葉を探し、小さく笑う。

「……まあ、ちょっと複雑かな」

 少しだけ、声が曇る。

 その横で、秋香の肩が、かすかに震えていた。

「……葉月さん……」

 声が、掠れる。

「わたし……今のお話を聞いて……」

 言葉を続けようとして、一度、唇を噛みしめる。

「……耐えられません」

 ぽろり、と。
 焚き火の光の中で、秋香の瞳から涙が落ちた。

「もし……わたしだったら……」

 声が震え、言葉が途切れる。

「……心が、壊れてしまいますわ……きっと……落ち込んで……
 立ち上がれなくなってしまいます……」

 両手でマグを抱えたまま、秋香は、静かに涙を流した。

「どうして……そんなに、平気そうに……」

 葉月は、しばらく何も言わず、焚き火を見つめていた。

 それから、小さく息を吐いて、笑う。

「……平気じゃないよ」

 ゆっくり、でもはっきりと。

「正直さ、何度も、しんどかった」

 秋香を見る。

「泣いたし、逃げたいって思ったし……なんで、あたしばっかりって、思ったこともある」

 少しだけ、間を置いて。

「でもね……憂ちゃんが、いたから」

 その名前を口にした瞬間、葉月の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

「何も言わなくても、そばにいてくれて……笑ってくれて……」

「……」

「あたし、あの子に、何度も救われたんだ」

 焚き火が、小さく揺れる。

「それに……今はさ」

 葉月は、照れたように肩をすくめる。

「秋香ちゃんも、小鈴ちゃんも、結衣ちゃんもいて……あたし、ひとりじゃないって思えるようになった」

 秋香は、涙を拭いながら、葉月を見つめていた。

「だから……ちゃんと、前向けてる」

 にっと、少し照れくさそうに笑う。

「今のあたし、けっこう、幸せだよ」

 しばらく、沈黙。

 それから、秋香が小さく、息を吸った。

「……葉月さんは……本当に、お強い方ですわ」

「いやいや」

 葉月は、手を振る。

「強いっていうか……運がよかっただけ」

 それから、冗談めかして。

「いい友達に、恵まれたの」

 秋香の口元に、ようやく、小さな笑みが戻る。

「あーー……しんみりしちゃったね」

「ふふ……」

 秋香は、涙を残したまま、小さく笑った。

「でも……悪くないですわ」

 二人は、同じ温度のコーヒーを手に、しばらく黙って、夜を共有する。

 森は、何も言わない。

 けれど――
 確かに、すべてを見届けたように、静かだった。
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