沈黙のういザード 

豚さん

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7話 マリーの言葉

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来週の日曜日の昼下がり。
真夏の強い日差しを避けるように、憂は木製の扉を押した。

店内に足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気と、深煎りコーヒーの落ち着いた香りが迎えてくれる。

外の暑さが嘘のように、ここだけ時間の流れが、ゆっくりとほどけていた。

「……ここで、よかったよね」

小さくつぶやきながら、憂は店内を見渡す。

落ち着いた照明。
ゆったりとしたソファ席。
どこか、気持ちまで静かになる喫茶《コメリア・テラス》。

今日は、マリーと二人きり。
リナは公演の準備で忙しく、今日は来られないと聞いている。

——だからこそ、この時間を選んだ。

「大切な話があるの」と伝えて誘ったとき、マリーは理由を深く聞かず、ただ静かにうなずいてくれた。

憂は奥のソファ席に腰を下ろし、背もたれに身を預けて、小さく息を吐く。

「……ここ、落ち着きますね」

「でしょう?」

向かいのソファで、マリーが嬉しそうに微笑んだ。

実は、マリーは約束の時間より十分ほど早く、この店に来ていた。
先に席を取り、窓際のソファで静かに待っていたのだ。

淡いミントグリーンのワンピースは、夏の日差しをやさしく反射する涼やかな色合いだ。
生地は薄手で、風を受けるたびにさらりと揺れ、見た目にも触感にも清涼感がある。

袖は七分から肘あたりまでの軽いパフスリーブになっていて、レースは控えめに、透け感を活かした仕様。肩や腕を覆いながらも暑苦しさはなく、直射日光を避けつつ風通しの良さを感じさせる。

胸元の装飾は簡素にまとめられ、白に近いレースと小さなボタンが縦のラインを作っている。その分、ウエストの切り替えがはっきりし、軽く結ばれた細いリボンが全体を引き締めていた。

スカートは膝丈で、裾にかけてゆるやかに広がるシルエット。重ねフリルは一段だけに抑えられ、歩くたびに涼風を含んで、柔らかく波打つ。

――明らかに、友達に会うためのおしゃれ。

その穏やかな佇まいが、これから切り出す話の重さを、少しだけ和らげてくれる気がした。

それに気づいて、憂は少し胸が温かくなった。

「マリーさん、今日は……いつもより雰囲気、違いますね?」

「あら、分かります? お友達と会うの、嬉しくて……」

 少し照れたように笑う。

二人は向かい合って腰を下ろす。
分厚すぎるメニューを開き、思わず顔を見合わせる。

「……量、相変わらず本気ですね……」

「安心しますわ。足りない心配がないですもの」

注文を済ませ、少し雑談を交わしたあと――

憂はカップに視線を落としたまま、口を開いた。

「……今日は、相談があって」

マリーはすぐに察し、声を柔らかくする。

「ええ。憂さんのお母さんのこと、ですわね」

憂は小さくうなずいた。

「……母が事故で、記憶を失っていて。PTSDもあって……」

言葉を選びながら、ゆっくり話す。

「……優しいんです。とても。でも、わたしのことを分かるときと分からないときがあって……
 娘としてじゃなく、初めて会った人みたいに、丁寧で距離のある優しさで。
 戻ってほしいって思う自分と、今のままでもって思おうとする自分が、ずっと揺れてて……」

声が、わずかに揺れた。

「たまに……知らない人に親切にされているみたいで。それが、いちばん……つらいです」

声が、少しだけ震えた。

マリーは遮らず、ただ聞いていた。

「……苦しいですわね」

静かな声。

「どちらも、間違いではありません。戻ってほしいと思うのも、今を大切にしたいと思うのも……全部、愛情です」

憂は、はっと顔を上げる。

マリーはカップを両手で包みながら続けた。

「私の今の彼も……バイク事故で、記憶を失いました。私のことも、過去の思い出も……戻っていません」

それでも、と微笑む。

「でも……優しさは、変わらなかったんです。初対面みたいに、何度でも丁寧に、大切にしてくれる」

少し照れたように視線を逸らす。

「今は、彼のご実家で、一緒に暮らしていますの」

「……えっ!?」

「ふふ。驚きますよね」

「すごい……覚悟……」

マリーは穏やかにうなずいた。

「記憶は戻らなくても……今を一緒に積み重ねられるなら、私は、それで幸せだと思っています」

その言葉に、憂の胸の奥が、少しずつほどけていく。

「……ありがとうございます」

「いいえ。憂さんは、もう十分、頑張っています」

――と、そこで。

マリーは少しだけ言い淀み、
頬に指を当てた。

「……ただ」

「……ただ?」

「少しだけ……愚痴を、よろしいかしら」

憂は即座に前のめりになる。

「ぜひ!!」

マリーは声を潜め、困ったように微笑む。

「……着替えを、覗かれました」

「――――えっ」

「悪気はないんですの。『そこにいると思わなかった』って……」

憂の顔が、みるみる赤くなる。

「の、覗……」

そして、数秒。

憂はじっとマリーを見つめ、ふっと息を吐いた。

「それ……マリーさんの悪い癖、出てますよね」

マリーは一瞬きょとんとして、次の瞬間、視線を逸らした。

「あら……分かってしまいました?」

「分かります!!完全にここから先、勢いで行く人の顔でした!!」

「否定はしませんわ」

「しないんですか!?」

「だって……もし」

さらっと言う。

「そのまま押し倒されていたら……普通に、受け入れていましたもの」

「軽い!!想像よりずっと軽い!!」

憂が机に突っ伏す。

「もう……マリーさん、ブレーキどこ置いてきたんですか!?」

「昔から、勢い任せなところが……」

「そこ反省するとこです!!」

マリーはくすくす笑う。

「でも……乱暴な人だったら、嫌でした。戸惑って、慌てて、謝ってくれて……
 だから、悪くなかったんです」

「……ああ……」

憂は天を仰ぐ。

「それに、女性として、ちゃんと見られたのも……?」

「ええ」

素直にうなずく。

「正直……胸が、温かくなりました。記憶は失くしていても……私を見る目だけは、あの頃の彼と、何も変わっていなかったんですもの」

「……恋愛強者……」

「まあ。そう聞こえました?」

「いえ、もういいです……」

 二人の笑い声が、静かな喫茶店に柔らかく弾んだ。

 少しして、憂は真面目な声になる。

「……でも。マリーさんが、幸せなら……それで、いいですよね」

 マリーは、優しく微笑んだ。

「ええ。記憶が戻らなくても……今を大切にできれば、幸せはあります」

 夏のアイスコーヒーが、ゆっくりと溶けていく。

 しばらくして、マリーはふとカップを置き、優しい声で続けた。

「……憂さん」

「はい?」

「きっと、お母さんは……憂さんの今を、ちゃんと見ていますよ」

 憂は唇を噛みしめる。

「……勉強は、頑張ったんです。母に、胸を張って報告できるくらい……」

 声にならない続きが、胸の奥で滲む。

「マリーさんと一緒に、フランス語も覚えて。発音がきれいだって、褒めてもらって……
 それを、そのまま――聞いてほしかっただけなのに」

 それは自慢だった。
 娘が、母に見せたかった成長だった。

 でも、届いたのは。
 よくできましたではなく、初めて会った人への賞賛だった。

「でも……それだけじゃ、無理でした。母が覚えていないから、虚しいんです」

 マリーは、くすっと小さく笑った。

「ふふ……」

「え?」

「憂さん……」

 少し首を傾げて、穏やかに。

「それだけで、済むと思っていました?」

「……え?」

「勉強を頑張るのも、もちろん立派です。でも……」

 マリーは、指先でカップの縁をなぞりながら言う。

「憂さんには、……もっと、素晴らしい見せ方がある気がしますの」

「……見せ方?」

「ええ」

 にっこりと、意味ありげに微笑む。

「全力で、生きている姿ですわ。報告できなくても、お母さんは憂さんの成長を感じ取っています。
 迷っても、泣いても……それでも前に進んでいる、その姿を」

 マリーは、やさしく言い切った。

「――きっと、お母さんは、それを一番、誇りに思います」

 憂の目に、じんわりと熱がにじむ。

「……わたし……」

「はい」

「……もう少し、頑張ってみます」

 マリーは満足そうにうなずいた。

「……そういえば、憂さん」

「はい?」

「お母さんの……昔のご家族の写真は、ありますか? 過去の幸せを振り返るのに、いいきっかけになるかも……」

 唐突な問いに、憂は一瞬だけ言葉を探した。

「……あります。アルバムも……スマホの中にも、少し」

 マリーは、ほっとしたように微笑む。

「よかった……」

 そして、静かに続けた。

「今すぐでなくていいのです。でも……もし、よろしければ」

 視線を少し落とし、優しい声で。

「憂さんがこのときが一番、幸せだった。そう思えるご家族の写真を……いつか、送っていただけませんか?」

 憂は、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。

「……え、でも……どうして?」

「ふふ、秘密ですわ。でも、きっと役に立つはずです」

「……はい」

 小さく、でもはっきりとうなずく。

「今は……まだ、選べないかもしれませんけど……でも、必ず。一番大切な一枚を、送ります」

 マリーの表情が、柔らかくほどけた。

「ええ。約束ですわね」

「約束です」

 マリーは満足そうにうなずいた。

「それでこそ、憂さんですわ」

 夏のアイスコーヒーの氷が、小さく音を立てて溶けていく。

 喫茶店の穏やかな空気の中で――
 二人の間に、言葉以上の約束が、確かに交わされていた。
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