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6話 追いつこうとしただけ
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葉月の部屋の前で、憂は足を止めた。
ドアの隙間から、はっきりと明かりが漏れている。
夜も遅いこの時間に、葉月の部屋に灯りが点いていること自体が珍しかった。
ノックをしようとして――憂は、気づいてしまう。
紙をめくる、乾いた音。
一定の間隔で、途切れずに続いている。
(……勉強、してる)
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
そっと扉を開けると、葉月は机に向かっていた。
背筋を伸ばし、分厚い専門書とノートを広げている。
ノートには、几帳面な文字でびっしりと書き込みがあり、何度も読み返した跡が残っていた。
遊び半分ではない。
時間を割いて、覚悟を決めて向き合っている姿だった。
「……葉月姉」
声をかけた瞬間、葉月の手が止まった。
振り返ったその表情は、一瞬だけ――硬い。
「……こんな時間まで、どこ行ってたの?」
低く、落ち着いた声。
責めるようでもあり、心配を隠しているのも分かる声音だった。
憂は、喉が詰まって、すぐに答えられなかった。
ただ、視線を落として、小さく頷く。
「……一人で、行ったんでしょう」
断定だった。
憂の肩が、わずかに震える。
「……うん」
葉月は、しばらく黙ったまま憂を見ていた。
「……先に言うね」
声が、少しだけ厳しくなる。
「無茶だと思った。正直に言って」
憂の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「何が起きるか、分かってたでしょう」
問いかけではない。
お姉ちゃんとしての判断だった。
憂は、唇を噛みしめる。
「……でも」
「でも、行った」
葉月は、深く息を吐いた。
「だから、怒ってるわけじゃない」
その言葉に、憂が顔を上げる。
葉月は立ち上がり、椅子を引いて、静かに言った。
「座りなさい」
有無を言わせない口調だったが、そこに棘はなかった。
憂が椅子に腰を下ろした瞬間、張りつめていたものが崩れる。
肩が震え、視界が滲んだ。
「……話して、混乱させた」
声が、掠れる。
「……余計なこと、言った」
言葉が続かない。
「……わたし、だめだった……」
葉月は、すぐには答えなかった。
机の前ではなく、憂の前に回り込み、しゃがむ。
視線を、同じ高さに合わせる。
「憂ちゃん」
名前を呼ぶ声は、もう厳しくなかった。
「どうしたかったの?」
憂の唇が、震える。
「……ちゃんと、娘として話したかった」
それだけで、限界だった。
溜めていた涙が、一気に溢れる。
「ずっと……避けてた。お姉ちゃんに、任せて……」
声が、ぐしゃっと崩れる。
「怖いって言うのも、苦しいって言うのも……全部……」
憂は顔を覆う。
「それなのに……失敗して……何もできなかった……」
葉月は、そっと憂の手首を取る。
乱暴ではない。でも、逃がさない力。
「見て」
憂は、ゆっくりと顔を上げる。
葉月の目は、真剣だった。
「失敗かどうかは、あたしが決める」
はっきりとした声。
「あなたは、逃げなかった」
憂の呼吸が、止まる。
「結果がどうであっても、それは事実」
葉月は一度、机の上の本に視線を向ける。
「……あたしもね、怖かった」
静かな告白。
「どう接すればいいか分からなくて」
指先で、本の角を押さえる。
「だから、勉強してた」
憂の目が、見開かれる。
「記憶障害のこと。家族の距離の取り方。傷つけない方法……」
小さく首を振る。
「正解なんて、ないって分かってる。でも」
視線が、憂に戻る。
「知らないまま、あなたを一人にしたくなかった」
憂の喉が、詰まる。
「……お姉ちゃん……」
葉月は、憂の肩に手を置いた。
「今日あなたが行ったことは、遅れじゃない」
声が、やわらかくなる。
「追いつこうとしただけ」
その一言で、憂は完全に崩れた。
声を上げて泣く。
堪えていたものが、全部ほどける。
「……ごめん……」
「謝らなくていい」
葉月は、そう言ってから、ほんの一瞬だけ迷うように視線を落とした。
それから、覚悟を決めたように、静かに腕を広げる。
「……おいで」
短い一言。
けれど、それは命令でも、促しでもなく――
迎え入れるための言葉だった。
憂は、耐えていた最後の糸が切れたように、前に倒れ込む。
葉月の胸元に、顔を埋める形になる。
葉月は何も言わず、ただ、憂の背中に腕を回した。
抱きしめるというより、包む。
逃げ場を塞ぐのではなく、居場所を作る抱擁だった。
葉月の胸に顔をうずめると、規則正しい心音が伝わってくる。
さっきまで張りつめていた憂の呼吸が、少しずつ、それに引き寄せられていく。
「……大丈夫」
耳元で、低く、落ち着いた声。
「ここでは、何も頑張らなくていい」
葉月の手が、憂の背をゆっくりと撫でる。
子どもをあやすような、一定のリズム。
憂の涙が、葉月の服を濡らす。
それでも、葉月は離れない。
「泣いていい。崩れていい」
胸に、そっと顎を乗せるようにして続ける。
「今日は……あたしが、あなたの代わりに立ってるから」
憂の体から、少しずつ力が抜けていく。
重みごと預けても、受け止めてくれる場所。
それが、今の葉月の胸だった。
憂は、嗚咽の合間に、かすれた声で呟く。
葉月の胸に顔を埋めた瞬間、憂ははっきりと感じた。
――暑い。
夏の夜の空気が、部屋にこもっている。
机のスタンドライトの熱も、二人の体温も、すべてが重なって、肌にまとわりつく。
それなのに。
葉月の腕の中は、不思議と息ができた。
葉月の胸元から、ほんのりと汗の匂いがする。
一日動き回ったあとの、石鹸と体温が混ざった、ごくありふれた匂い。
でもそれは、憂にとっては――
家の匂いだった。
子どもの頃、夏の夜に抱き寄せられたときの、
記憶の奥に残っている、安心の感触。
葉月は暑さを気にする様子もなく、ただ、憂を包み込む。
汗で少しだけ湿ったシャツ越しに、確かな体温が伝わる。
「……暑いね」
憂が、かすれた声で言う。
葉月は小さく息を吐き、少しだけ微笑った。
「夏だもの」
そう言って、離れない。
むしろ、逃げ場を与えないように、
――いや、戻る場所を失わせないように、
腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
葉月の心音と、体温と、汗の匂い。
全部が混ざって、憂の意識をゆっくり溶かしていく。
暑いのに、苦しくない。
汗ばんでいるのに、不快じゃない。
ただ――
守られている、という感覚だけがあった。
「……いい匂い」
憂が、思わず零す。
葉月は一瞬だけ動きを止め、それから、呆れたように、でも優しく言った。
「何それ」
けれど、腕は緩めない。
「汗だよ」
「……うん」
それでも、憂は顔を離さなかった。
この匂いは、欲しい匂いじゃない。
抱きしめられるための匂いでもない。
帰ってきていい匂いだった。
葉月の胸に預けたまま、憂の体から力が抜けていく。
夏の熱気の中で、ただ一か所だけ、安心して溶けられる場所。
それが、今の葉月だった。
机の明かりが、二人を静かに照らす。
閉じられた本の代わりに、この夜、葉月は――
体温で、答えを渡していた。
ドアの隙間から、はっきりと明かりが漏れている。
夜も遅いこの時間に、葉月の部屋に灯りが点いていること自体が珍しかった。
ノックをしようとして――憂は、気づいてしまう。
紙をめくる、乾いた音。
一定の間隔で、途切れずに続いている。
(……勉強、してる)
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
そっと扉を開けると、葉月は机に向かっていた。
背筋を伸ばし、分厚い専門書とノートを広げている。
ノートには、几帳面な文字でびっしりと書き込みがあり、何度も読み返した跡が残っていた。
遊び半分ではない。
時間を割いて、覚悟を決めて向き合っている姿だった。
「……葉月姉」
声をかけた瞬間、葉月の手が止まった。
振り返ったその表情は、一瞬だけ――硬い。
「……こんな時間まで、どこ行ってたの?」
低く、落ち着いた声。
責めるようでもあり、心配を隠しているのも分かる声音だった。
憂は、喉が詰まって、すぐに答えられなかった。
ただ、視線を落として、小さく頷く。
「……一人で、行ったんでしょう」
断定だった。
憂の肩が、わずかに震える。
「……うん」
葉月は、しばらく黙ったまま憂を見ていた。
「……先に言うね」
声が、少しだけ厳しくなる。
「無茶だと思った。正直に言って」
憂の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「何が起きるか、分かってたでしょう」
問いかけではない。
お姉ちゃんとしての判断だった。
憂は、唇を噛みしめる。
「……でも」
「でも、行った」
葉月は、深く息を吐いた。
「だから、怒ってるわけじゃない」
その言葉に、憂が顔を上げる。
葉月は立ち上がり、椅子を引いて、静かに言った。
「座りなさい」
有無を言わせない口調だったが、そこに棘はなかった。
憂が椅子に腰を下ろした瞬間、張りつめていたものが崩れる。
肩が震え、視界が滲んだ。
「……話して、混乱させた」
声が、掠れる。
「……余計なこと、言った」
言葉が続かない。
「……わたし、だめだった……」
葉月は、すぐには答えなかった。
机の前ではなく、憂の前に回り込み、しゃがむ。
視線を、同じ高さに合わせる。
「憂ちゃん」
名前を呼ぶ声は、もう厳しくなかった。
「どうしたかったの?」
憂の唇が、震える。
「……ちゃんと、娘として話したかった」
それだけで、限界だった。
溜めていた涙が、一気に溢れる。
「ずっと……避けてた。お姉ちゃんに、任せて……」
声が、ぐしゃっと崩れる。
「怖いって言うのも、苦しいって言うのも……全部……」
憂は顔を覆う。
「それなのに……失敗して……何もできなかった……」
葉月は、そっと憂の手首を取る。
乱暴ではない。でも、逃がさない力。
「見て」
憂は、ゆっくりと顔を上げる。
葉月の目は、真剣だった。
「失敗かどうかは、あたしが決める」
はっきりとした声。
「あなたは、逃げなかった」
憂の呼吸が、止まる。
「結果がどうであっても、それは事実」
葉月は一度、机の上の本に視線を向ける。
「……あたしもね、怖かった」
静かな告白。
「どう接すればいいか分からなくて」
指先で、本の角を押さえる。
「だから、勉強してた」
憂の目が、見開かれる。
「記憶障害のこと。家族の距離の取り方。傷つけない方法……」
小さく首を振る。
「正解なんて、ないって分かってる。でも」
視線が、憂に戻る。
「知らないまま、あなたを一人にしたくなかった」
憂の喉が、詰まる。
「……お姉ちゃん……」
葉月は、憂の肩に手を置いた。
「今日あなたが行ったことは、遅れじゃない」
声が、やわらかくなる。
「追いつこうとしただけ」
その一言で、憂は完全に崩れた。
声を上げて泣く。
堪えていたものが、全部ほどける。
「……ごめん……」
「謝らなくていい」
葉月は、そう言ってから、ほんの一瞬だけ迷うように視線を落とした。
それから、覚悟を決めたように、静かに腕を広げる。
「……おいで」
短い一言。
けれど、それは命令でも、促しでもなく――
迎え入れるための言葉だった。
憂は、耐えていた最後の糸が切れたように、前に倒れ込む。
葉月の胸元に、顔を埋める形になる。
葉月は何も言わず、ただ、憂の背中に腕を回した。
抱きしめるというより、包む。
逃げ場を塞ぐのではなく、居場所を作る抱擁だった。
葉月の胸に顔をうずめると、規則正しい心音が伝わってくる。
さっきまで張りつめていた憂の呼吸が、少しずつ、それに引き寄せられていく。
「……大丈夫」
耳元で、低く、落ち着いた声。
「ここでは、何も頑張らなくていい」
葉月の手が、憂の背をゆっくりと撫でる。
子どもをあやすような、一定のリズム。
憂の涙が、葉月の服を濡らす。
それでも、葉月は離れない。
「泣いていい。崩れていい」
胸に、そっと顎を乗せるようにして続ける。
「今日は……あたしが、あなたの代わりに立ってるから」
憂の体から、少しずつ力が抜けていく。
重みごと預けても、受け止めてくれる場所。
それが、今の葉月の胸だった。
憂は、嗚咽の合間に、かすれた声で呟く。
葉月の胸に顔を埋めた瞬間、憂ははっきりと感じた。
――暑い。
夏の夜の空気が、部屋にこもっている。
机のスタンドライトの熱も、二人の体温も、すべてが重なって、肌にまとわりつく。
それなのに。
葉月の腕の中は、不思議と息ができた。
葉月の胸元から、ほんのりと汗の匂いがする。
一日動き回ったあとの、石鹸と体温が混ざった、ごくありふれた匂い。
でもそれは、憂にとっては――
家の匂いだった。
子どもの頃、夏の夜に抱き寄せられたときの、
記憶の奥に残っている、安心の感触。
葉月は暑さを気にする様子もなく、ただ、憂を包み込む。
汗で少しだけ湿ったシャツ越しに、確かな体温が伝わる。
「……暑いね」
憂が、かすれた声で言う。
葉月は小さく息を吐き、少しだけ微笑った。
「夏だもの」
そう言って、離れない。
むしろ、逃げ場を与えないように、
――いや、戻る場所を失わせないように、
腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
葉月の心音と、体温と、汗の匂い。
全部が混ざって、憂の意識をゆっくり溶かしていく。
暑いのに、苦しくない。
汗ばんでいるのに、不快じゃない。
ただ――
守られている、という感覚だけがあった。
「……いい匂い」
憂が、思わず零す。
葉月は一瞬だけ動きを止め、それから、呆れたように、でも優しく言った。
「何それ」
けれど、腕は緩めない。
「汗だよ」
「……うん」
それでも、憂は顔を離さなかった。
この匂いは、欲しい匂いじゃない。
抱きしめられるための匂いでもない。
帰ってきていい匂いだった。
葉月の胸に預けたまま、憂の体から力が抜けていく。
夏の熱気の中で、ただ一か所だけ、安心して溶けられる場所。
それが、今の葉月だった。
机の明かりが、二人を静かに照らす。
閉じられた本の代わりに、この夜、葉月は――
体温で、答えを渡していた。
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