沈黙のういザード 

豚さん

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5話 御陵泉の喪失

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 病室の扉をノックすると、静かな返事が返ってきた。

「どうぞ」

 カーテン越しの午後の光の中、ベッドに座る女性がこちらを見た。
 整えられた髪、薄く微笑む唇。
 ――御陵 泉。
 戸籍上は「母」。
 けれど、その瞳に、憂を知る光はない。

「こんにちは。お加減、いかがですか」

 憂は、いつもより少し低い声で言った。
 丁寧で、落ち着いた、大人の声。

「ええ、おかげさまで」

 泉は穏やかにうなずく。

「……ええと、お名前は……」

「憂です」

 すぐに答える。

「前にも、葉月姉と一緒にお見舞いに来ています」

「ああ……そうでしたね」

 思い出せなくて、ごめんなさい
 その一言はない。
 代わりに、初対面の相手に向けるような、距離のある微笑だけがある。

 椅子に腰を下ろし、憂は手提げ袋から小さな箱を取り出した。

「今日は、少しお話ししたくて」

「まあ。ありがとうございます」

 泉は嬉しそうに身を乗り出す。
 ――その仕草だけは、どこか懐かしい。
 憂は、胸の奥でそっと息を詰めた。

「最近ですね……新しいお友達ができたんです」

「お友達?」

「はい。フランス人の女の子で。留学生なんです」

 泉の目が、少し輝いた。

「フランス。素敵ですね」

「それで……」

 憂は、ほんの少しだけ声を明るくする。

「一緒にいるうちに、フランス語を教えてもらって。簡単な会話なら」

 照れたように、でもどこか誇らしげに。

 憂は一度、呼吸を整える。
 言葉を思い出す、というより――
 音の流れをなぞるように。

「 Maman, tu sais, j’ai récemment rencontré une amie française,
et grâce à elle, le français me plaît de plus en plus.
 (ねえお母さん、最近フランス人の友達に出会ってね、
その子のおかげで、フランス語がだんだん好きになってきたの)」

 子音が硬く跳ね、母音はやわらかく溶ける。
 舌の位置も、息の抜き方も、迷いがない。
 病室の静けさの中で、フランス語の旋律だけが、すっと浮かび上がった。

 憂は、母の反応を見なかった。
 見れば、きっと声が震えてしまうから。

 沈黙。

 そして。

 泉が、ゆっくりと顔を上げた。

「……あら」

 その声は、戸惑いよりも先に、理解を含んでいた。

「発音、きれいですね。“grâce à elle” の r も、ちゃんと喉で鳴ってる」

 憂の喉が、きゅっと詰まる。

 泉は、少し懐かしむように微笑んだ。

「フランス語、難しいでしょう?でも……そう。好きになれたなら、何よりね」

 ——知っている。
 この人は、分かっている。

 憂は、ゆっくりと母を見る。

「……フランス語、分かるんですか?」

 泉は、当然のことのようにうなずいた。

「ええ。昔、仕事で使っていたから。通訳ほどじゃないけれど、会話なら問題なく」

 その一言で、胸の奥が、音もなく崩れた。

 ——覚えているのは、言葉。
 ——忘れているのは、わたし。

「……そう、だったんですね」

 憂は、笑った。
 ちゃんと、形だけは。

「素敵です」

 本当は、何一つ素敵じゃない。

 泉は、ふと首を傾げる。

「それにしても……」

 穏やかな声で、無邪気に言った。

「あなたがフランス語を話すなんて。ご家族は、驚かれたでしょう?」

 その瞬間、胸の奥で、何かがはっきりと音を立てて折れた。

「……はい」

 憂は、少しだけ視線を落とす。

「皆、驚いていました」

 ——お母さんだけが、驚かなかった。

 泉は、満足そうに微笑んだ。

「きっと、努力されたのね。あなた、とても真面目な方だから」

 “方”。

 娘ではなく、
 一人の「他人」としての評価。

 憂は、膝の上で手を握りしめる。
 爪が、わずかに食い込む。

 勇気を出した。
 避けてきたお見舞いに来た。
 覚えていないと分かっていても、話しかけた。
 それでも――

 母は、フランス語を理解し、発音を褒め、仕事の記憶は保ったまま、
 娘だけを失っていた。

 これ以上の残酷が、あるだろうか

「あなたは……」

 泉は、どこか遠慮がちに言う。

「とても落ち着いていて、しっかりしてる。きっと、ご両親に大切に育てられたんでしょうね」

 その言葉が、胸に深く刺さる。

 ――ここにいるのに。
 ――目の前にいるのに。
 ――育てた人として、あなたはわたしを見ない。

「……ありがとうございます」

 憂は、膝の上で指を組む。
 震えそうになるのを、必死に抑えて。

「でも」

 泉は、少し困ったように微笑んだ。

「すみません。やっぱり……あなたと、どういう関係だったのかは、思い出せなくて」

「大丈夫です」

 即答だった。
 あまりに自然で、憂自身が驚くほど。

「今は……こうしてお話しできるだけで、十分ですから」

 泉は、ほっとしたように息をつく。

「優しいんですね、憂さん」

 その言葉に、胸が締めつけられる。

 優しくなんかない。
 本当は――
 名前を呼んでほしい。
 叱ってほしい。
 昔みたいに、何気なく笑ってほしい。

 でも。

 それを望む権利が、自分にあるのか分からない。

 憂は、扉の前で一度だけ立ち止まった。

 ――もう一言だけ。
 言わないと、きっと後悔する。

「……あの」

 泉が顔を上げる。

「この前……七回忌だったんです」

「……差し支えなければですが、ご身内の方が、お亡くなりになられたのでしょうか?」

 その反応に、胸がきゅっと縮む。
 それでも、憂は続けてしまった。

「長女の……雪乃の」

 その瞬間だった。

 泉の表情から、色が消えた。

「――っ」

 呼吸が、急に浅くなる。
 手が、シーツを強く掴む。

「ちが……う……」

 焦点の合わない視線が、宙を彷徨う。

「……やめて……その名前……」

 声が震え、言葉が途切れる。

「雪……ゆき……っ、いや……!」

 泉は、頭を押さえた。
 身体が、無意識に後ずさる。

「……来ないで……! 血の……音が……!」

「お母さ――」

 憂は、反射的に立ち上がる。
 でも、その一歩が――引き金だった。

「いやあああっ!!」

 叫び声が、病室に響く。

 廊下から、慌ただしい足音。
 看護師が二人、駆け込んでくる。

「大丈夫ですよ、泉さん」
「ここは安全です、深呼吸しましょう」

 泉は抵抗するように首を振り、誰かを振り払うように腕を振った。

「……だめ……だめなの……」

 その姿を、憂は――ただ立ち尽くして見ていた。

 自分の声が。
 自分の言葉が。
 この人を、壊してしまった。

「……すみません」

 誰に向けた言葉かも、分からないまま。

 憂は、小さく頭を下げる。

 看護師の一人が、気づいて目を向けた。
 憂の肩にそっと手を置き、静かに言った。

「……今日は、ここまでにしましょうね。あなたが悪いわけじゃないんですよ。
 また来てください。待ってますから。」

 憂は、うなずくことしかできなかった。
 看護師の声は、優しく、でも確かだった。
 それでも、胸の痛みは消えなかった。

 病室を出る前、最後に一度だけ、振り返る。

 そこにいるのは――
 母ではなく、過去に囚われた、一人の患者だった。

 扉が、静かに閉まる。

 廊下に出た憂は、立ち止まらなかった。

 泣かなかった。
 声も、出なかった。

 ただ、曲がり角の自動ドアに差し込む光に、一瞬だけ――ガラスに、自分の顔が映る。

 ひどく静かで、泣くことさえ忘れたような、とても悲しそうな顔。

 憂は視線を逸らし、そのまま、ゆっくりと歩き去っていった。
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