沈黙のういザード 

豚さん

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4話 あなたは、あなたのために

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夜中。

蝉の声も止み、家の中には、熱を帯びた静けさだけが残っていた。
寝苦しさに目を覚ました憂は、そっと布団を抜け出す。

廊下を裸足で歩き、台所へ。
冷蔵庫を開けると、白い光が一瞬だけ闇を切り取った。

麦茶のボトルを取り出し、コップに注ぐ。
氷は入っていないのに、喉を通る冷たさが、ほっと息をつかせた。

「……眠れない?」

背後から、静かな声。

振り向くと、祖母が襖の影に立っていた。
寝巻き姿のまま、心配そうに憂を見ている。

「ごめんなさい……暑くて」

「この家、夜になると熱がこもるからねえ」

祖母はそう言って、憂の手元のコップを見る。

「麦茶、ちょっと分けてもらおうかしら?」

「はい」

憂は急いで、もう一つコップを出した。
二人並んで、台所の小さな椅子に腰を下ろす。

しばらく、麦茶を飲む音だけが続いた。

ふと、祖母がぽつりと言う。

「……葉月ちゃんは?」

「ぐっすりです。さっき見たら、暑いのに平気な顔で寝てました」

「そう」

祖母は少し笑って、でもすぐに視線を落とす。

「あの子、今日はずっと気を張ってたから」

憂は、コップを両手で包んだまま、小さくうなずく。

「……でも、おばあちゃん」

「なあに」

「今日の法要……きっと、お父さんも雪姉も、安心してると思います」

祖母は、驚いたように顔を上げる。

「そう思う?」

「はい」

憂は少しだけ間を置いてから、続けた。

「ちゃんと、やりたかったこともできたし……ちゃんと、笑ってたから」

詳しいことは言わない。
けれど、祖母は何も聞き返さなかった。

「……そう」

祖母は、麦茶のコップを両手で包み、目を細める。

「なら、よかったわ」

台所の時計が、かすかに音を立てている。

祖母は麦茶を一口飲み、ふう、と小さく息を吐いた。
その横顔を見つめながら、憂は少しだけ迷ってから、口を開く。

「……おばあちゃん」

「なあに」

「さっき言った雪姉のこと……少し、ちゃんと話してもいい?」

祖母はすぐにうなずいた。

「ええ。聞かせて」

憂は、指先でコップの縁をなぞりながら、言葉を探す。

「わたし……一時期、二重人格みたいになってたんです」

祖母は驚いた様子を見せず、ただ、目を逸らさずに聞いている。

「雪姉が……わたしの中に、いたことがあって」

沈黙。
けれど、それは拒む間ではなかった。

「去年のときとか……わたしじゃないわたしが、前に出てきてて。
 後から思い出すと、ちゃんと覚えてるんです。
 自分がやったのに、自分じゃない、みたいな……」

祖母は、そっと言った。

「……憂ちゃん、怖くなかった?」

「少し。でも……不思議と、嫌じゃなかったです」

憂は小さく笑う。

「雪姉、すごく楽しそうで。だから……ちゃんと、見送れたんだと思います」

祖母は、しばらく黙ってから、静かにうなずいた。

「そう……」

それだけだった。
否定も、詮索もない。

「憂ちゃんはね」

祖母は、テーブルの木目を見つめながら言う。

「小さいころから、誰かの気持ちを背負い込みやすい子だった。
 だから、そういうことがあっても……私は、不思議だとは思わないよ」

憂の胸が、少しだけ緩む。

「……ありがとう、おばあちゃん」

祖母は、ふっと視線を上げる。

「ところで」

「はい」

「最近の憂ちゃん……泉さんに、少し似てきたね」

憂は、はっとする。

「……やっぱり、そう見えますか?」

「ええ」

祖母は、やさしく笑った。

「話し方とか、考え込むところとか。昔の泉さんも、よく夜中に起きて、台所でぼうっとしてたよ」

憂は、少しうつむく。

「……お母さん、今……記憶があいまいで。自分がどんな人だったのかも、よく分からなくて」

祖母は静かに聞く。

「だから……わたしが、代わりにちゃんとしてなきゃって、思ってて」

その言葉に、祖母の表情が変わった。

「憂ちゃん」

少しだけ、声が低くなる。

「勉強も、頑張ってるでしょう」

「……はい」

「それはね」

祖母は、はっきりと言った。

「泉さんのために、無理してやるものじゃないよ」

憂は言葉に詰まる。

祖母は続ける。

「あなたのお父さん――私の息子と、泉さんが離婚したのはね」

少し間を置いてから。

「誰かが悪かったからじゃない」

祖母の声は、静かだった。

「結婚したころは、同じ方向を向いてた。子供のことも、仕事のことも」

「でも……」

祖母は、ゆっくり首を振る。

「年を取るとね、少しずつズレが見えてくる。教育の考え方、仕事の優先順位、趣味、将来の時間の使い方」

憂は、黙って聞いている。

「仲が良かった夫婦ほど、『うまくいってる』顔を外に見せ続けて、ズレを後回しにしてしまうこともある」

祖母は、ため息のように言った。

「そして、気づいたときには……一緒にいるのが、苦しくなる」

憂は、そっと問いかける。

「……お父さんも、お母さんも?」

「ええ」

祖母はうなずく。

「どちらも、自分を守るために、離れただけ」

そして、ゆっくりと、もう一つ付け加える。

祖母は、遠くを見るように視線を落とす。

「あなたのお父さんが病気になったのは、離婚してから、ずっと後のことなの」

憂の指先が、ぴくりと動く。

「離婚した頃は、体も元気だった。仕事もしてたし、自分では、まだ何でもできるつもりでいた」

麦茶の水面が、わずかに揺れる。

「癌が見つかってからね……ある晩、あの子が私に言ったのよ」

祖母は、淡々と、けれど確かに思い出をなぞる。

「『母さん、俺な……離婚、後悔してる』って」

憂は息を詰める。

「でもね」

祖母は、すぐに首を振った。

「続けて、こう言ったの」

――『泉を責めるつもりはない』
――『あのときは、あれが一番、正しかった』
――『俺が弱ってから一緒にいる方が、ずっと残酷だった』

「『病気になった今だから、そう思うだけだ』
 『元気だった頃の選択まで、間違いにしたくない』ってね」

祖母は、少しだけ寂しそうに笑った。

「後悔と、否定は、別だったんだと思う」

そして、まっすぐに憂を見る。

「だからね、憂ちゃん。泉さんの人生は、泉さんのもの。
 あなたが代わりに背負う必要はない」

憂の目が、少し潤む。

「あなたは、あなたのために生きていい。勉強も、将来も……自分の足で選びなさい」

祖母はそう言って、憂の手に、そっと触れた。

「それが、きっと……泉さんが一番、安心することだから」

台所の外で、葉月の寝息が、変わらず聞こえている。

憂は、ゆっくりとうなずいた。



憂は、音を立てないように指先で襖を押し、ほんのわずかに隙間を作った。
木と紙が擦れる、かすかな気配だけが夜に溶ける。

その向こうで、葉月は布団に横たわっていた。
月明かりが障子を透かし、淡い光となって姉の顔を照らしている。
頬に落ちる影、額にかかる髪、緩んだまぶた。

葉月の寝息は、規則正しく、静かだった。
少し開いた口元から、細く息が漏れている。
暑い夜のせいか、タオルケットは半分ほど蹴られ、肩口が無防備に晒されていた。
寝返りを打った拍子に、布団が小さく波打つ。

(……お姉ちゃん、ぐっすりだ)

憂は、襖の隙間から、その姿をそっと見つめる。
今日一日、法要で背筋を伸ばし、お斎では誰よりも台所に立ち、鍋を見て、火を見て、皆の顔を見ていた姉。

「大丈夫」と言い続けていた背中。
疲れていないふりをして、笑っていた横顔。

それだけじゃない。
病院への往復も、医師との話も、
記憶を失ったままの母の、何気ない一言に傷つかないようにする役目も――
全部、葉月が引き受けていた。

(……わたし、逃げてた)

お見舞いに行きたい気持ちは、確かにあった。
でも、病室のドアを開ける勇気が、どうしても出なかった。
「誰?」と聞かれるかもしれない怖さ。
期待されて、応えられないかもしれない不安。

その間、全部を――
葉月に、任せっぱなしにしていた。

今は、そんな役目を全部脱ぎ捨てたみたいに、
ただの、疲れた女の子として眠っている。

胸の奥が、じんわりと温かくなる。
理由は、もうはっきりしていた。

「……ありがとう、お姉ちゃん」

憂は、吐息に紛れるほど小さな声で囁いた。
言葉は襖を越え、夜の空気に吸い込まれていく。

「お母さんのことも……病院のことも……わたしが行けない間、全部……」

声が、少しだけ揺れる。

「任せきりにして、ごめんね。でも……ありがとう」

葉月は、もちろん返事をしない。
けれど――

寝息が、ふっと途切れた。

次の瞬間、ゆっくりと、深く息を吸い込む音がする。
眠り直す前の、わずかな間。

(……起きてる?)

憂は息を詰めた。
布団の中で、葉月の指先が、きゅっとタオルケットを軽く掴んでいる。
力は弱いのに、意識のある人の仕草だった。

まぶたは閉じたまま。
それでも、長いまつ毛が、ほんの僅かに震えたのを、憂は見逃さなかった。

憂は、気づかないふりをするみたいに、静かに微笑む。

「……わたし、ちゃんと行くね。今度は、一人に」

最後は、約束のように。

葉月の首が、ほんの少しだけ、確かに動いた。
――気のせいじゃない。
それは、はっきりとした頷きだった。

憂の喉が、きゅっと鳴る。
笑ってしまいそうになるのを、必死で堪えた。

(……やっぱり、起きてたんだ)

葉月の寝息は、すぐに戻った。
さっきよりも、少しだけ深く、穏やかで、
何かを受け取ったあとのような、柔らかさを含んでいる。

憂は、それ以上何も言わなかった。
言葉はもう、十分だった。

襖を、静かに閉める。
廊下を戻る足取りは、来たときよりも軽い。

自分の布団に戻り、横になる。
目を閉じると、不思議と、葉月の寝息が遠くから聞こえてくる気がした。

夜の暑さは、まだ残っている。
けれど胸の奥に溜まっていた、重たいものは、
もう、ほとんど消えていた。

その代わりに残ったのは、「ひとりじゃない」という、静かで確かな安心だけだった。
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