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22話 壊れないための忠告
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診察室は、静かだった。
白い壁。簡素な机。窓から差し込む午後の光が、床に細長い影を落としている。
憂は、椅子に腰かけたまま、指先をぎゅっと握っていた。
膝の上で重ねた手が、わずかに震えている。
向かいに座るのは、千秋の父――
白衣の上からでも分かるほど、どこか疲れを滲ませた中年の男性だ。
彼は今、この病院に常勤しているわけではない。
フリーの精神科医として、いくつもの病院を巡りながら診療を続けている。
ここでは――
憂の母のカウンセリングも、彼が担当していた。
記憶を失ったままの母。
雪乃という名前だけを、断片的に覚えている母。
だからこそ、この人に話すのは、少しだけ怖くて、少しだけ安心だった。
「……先生」
憂は、視線を落としたまま、言葉を選ぶ。
「将来のこと、相談しても……いいですか」
千秋の父は、すぐに答えなかった。
一度、ペンを置き、静かに頷く。
「もちろんだよ。今日は千秋の父じゃなくて、一人の大人として聞こう」
その言葉に、憂は小さく息を吸った。
「……わたし、医者になりたいって……思ってて」
声が、少しだけ震える。
言葉にした瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
「東京大学を、受験しようかと……」
千秋の父は、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
「……君のお母さんのため?」
憂の指が、強く握られる。
「……それも、あります」
かすれるような声。
「お母さん……何も覚えてなくて……それでも、苦しそうで……」
言葉が続かない。
沈黙が、部屋に落ちる。
やがて、彼は優しく、しかしはっきりと口を開いた。
「それなら、すすめない」
「……っ」
憂の肩が、わずかに揺れる。
「医者になる理由が、誰かのためだけなら……君は、どこかで壊れてしまう」
その声音には、経験が滲んでいた。
叱責ではなく、警告でもなく――忠告だった。
「……でも」
憂は、思わず言い返す。
「誰かのために、なりたいって思うのは……そんなに、いけないことですか?」
千秋の父は、首を横に振った。
「いけなくはない。ただ、それだけにすると、君が消えてしまう。本当にやりたい仕事が、他にあるんじゃないですか?」
憂は、唇を噛んだ。
「……わかりません」
正直な言葉だった。
「わたし……自分が、何をしたいのか……まだ……」
千秋の父は、その沈黙を責めなかった。
「……僕もね」
彼は、ふっと視線を窓の外に向ける。
「中学生の頃、いじめられていた時期があった」
「……え」
憂は、思わず顔を上げた。
「ちょうど、社会全体で“いじめ”が問題になっていた頃だ。ニュースでは、自殺の話題が続いていて……正直、息が詰まる時代だった」
彼は、苦笑する。
「運動も得意じゃなかったし、クラスの男子には、休み時間になるとわざと荷物を蹴られたり、教科書に落書きされたり、廊下でからかわれたりしてね……逃げようとしても囲まれて、誰も助けてくれなかった。担任の先生は、その現場を見て、逃げずにきちんと向き合ってくれたし、見て見ぬふりもしなかった」
「……それで……?」
憂が、そっと促す。
「それだけで、空気は変わった」
静かな声。
「いじめは、終わったよ」
憂は、息を呑む。
「それで僕は、進路相談で言ったんだ。先生みたいな教師になりたいって……でもね、先生は言った。いじめをなくしたいから教師になるのは、やめたほうがいい、って」
「……どうして……?」
憂の問いに、彼は答えた。
「君が壊れてしまうから」
その言葉は、重かった。
「だから僕は、必死に勉強した。東野高校に入り、東大にも合格した」
憂の目が、少し見開かれる。
「……同じ……」
「そう。憂君と同じ高校だ」
彼は微笑んだ。
「そして、医師になった」
「……後悔は……?」
「一度もない」
即答だった。
「東京へ行ったから、妻にも出会えた。千秋が生まれた」
少し間を置いて。
「そして……千秋は、君と出会った」
憂の胸が、静かに波打つ。
「君の中の、もう一人――雪乃君ともね」
憂は、視線を伏せる。
「……わたし……千秋の役に、立ててますか……?」
不安が、滲む。
千秋の父は、はっきりと言った。
「立っている。それどころか――感謝している」
憂は、顔を上げる。
「医者としてじゃない。一人の父親として」
そして、最後に告げた。
「東大に行くこと自体は、すすめる。でも――医者になるかどうかは、急がなくていい」
まっすぐな視線。
「君自身の本当にやりたいことを、見つけなさい」
診察室の静けさの中で、その言葉は、深く、確かに、憂の胸に残った。
「……はい」
小さな返事。
答えは、まだ出ない。
けれど――
探していいのだと、初めて思えた。
白い壁。簡素な机。窓から差し込む午後の光が、床に細長い影を落としている。
憂は、椅子に腰かけたまま、指先をぎゅっと握っていた。
膝の上で重ねた手が、わずかに震えている。
向かいに座るのは、千秋の父――
白衣の上からでも分かるほど、どこか疲れを滲ませた中年の男性だ。
彼は今、この病院に常勤しているわけではない。
フリーの精神科医として、いくつもの病院を巡りながら診療を続けている。
ここでは――
憂の母のカウンセリングも、彼が担当していた。
記憶を失ったままの母。
雪乃という名前だけを、断片的に覚えている母。
だからこそ、この人に話すのは、少しだけ怖くて、少しだけ安心だった。
「……先生」
憂は、視線を落としたまま、言葉を選ぶ。
「将来のこと、相談しても……いいですか」
千秋の父は、すぐに答えなかった。
一度、ペンを置き、静かに頷く。
「もちろんだよ。今日は千秋の父じゃなくて、一人の大人として聞こう」
その言葉に、憂は小さく息を吸った。
「……わたし、医者になりたいって……思ってて」
声が、少しだけ震える。
言葉にした瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
「東京大学を、受験しようかと……」
千秋の父は、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
「……君のお母さんのため?」
憂の指が、強く握られる。
「……それも、あります」
かすれるような声。
「お母さん……何も覚えてなくて……それでも、苦しそうで……」
言葉が続かない。
沈黙が、部屋に落ちる。
やがて、彼は優しく、しかしはっきりと口を開いた。
「それなら、すすめない」
「……っ」
憂の肩が、わずかに揺れる。
「医者になる理由が、誰かのためだけなら……君は、どこかで壊れてしまう」
その声音には、経験が滲んでいた。
叱責ではなく、警告でもなく――忠告だった。
「……でも」
憂は、思わず言い返す。
「誰かのために、なりたいって思うのは……そんなに、いけないことですか?」
千秋の父は、首を横に振った。
「いけなくはない。ただ、それだけにすると、君が消えてしまう。本当にやりたい仕事が、他にあるんじゃないですか?」
憂は、唇を噛んだ。
「……わかりません」
正直な言葉だった。
「わたし……自分が、何をしたいのか……まだ……」
千秋の父は、その沈黙を責めなかった。
「……僕もね」
彼は、ふっと視線を窓の外に向ける。
「中学生の頃、いじめられていた時期があった」
「……え」
憂は、思わず顔を上げた。
「ちょうど、社会全体で“いじめ”が問題になっていた頃だ。ニュースでは、自殺の話題が続いていて……正直、息が詰まる時代だった」
彼は、苦笑する。
「運動も得意じゃなかったし、クラスの男子には、休み時間になるとわざと荷物を蹴られたり、教科書に落書きされたり、廊下でからかわれたりしてね……逃げようとしても囲まれて、誰も助けてくれなかった。担任の先生は、その現場を見て、逃げずにきちんと向き合ってくれたし、見て見ぬふりもしなかった」
「……それで……?」
憂が、そっと促す。
「それだけで、空気は変わった」
静かな声。
「いじめは、終わったよ」
憂は、息を呑む。
「それで僕は、進路相談で言ったんだ。先生みたいな教師になりたいって……でもね、先生は言った。いじめをなくしたいから教師になるのは、やめたほうがいい、って」
「……どうして……?」
憂の問いに、彼は答えた。
「君が壊れてしまうから」
その言葉は、重かった。
「だから僕は、必死に勉強した。東野高校に入り、東大にも合格した」
憂の目が、少し見開かれる。
「……同じ……」
「そう。憂君と同じ高校だ」
彼は微笑んだ。
「そして、医師になった」
「……後悔は……?」
「一度もない」
即答だった。
「東京へ行ったから、妻にも出会えた。千秋が生まれた」
少し間を置いて。
「そして……千秋は、君と出会った」
憂の胸が、静かに波打つ。
「君の中の、もう一人――雪乃君ともね」
憂は、視線を伏せる。
「……わたし……千秋の役に、立ててますか……?」
不安が、滲む。
千秋の父は、はっきりと言った。
「立っている。それどころか――感謝している」
憂は、顔を上げる。
「医者としてじゃない。一人の父親として」
そして、最後に告げた。
「東大に行くこと自体は、すすめる。でも――医者になるかどうかは、急がなくていい」
まっすぐな視線。
「君自身の本当にやりたいことを、見つけなさい」
診察室の静けさの中で、その言葉は、深く、確かに、憂の胸に残った。
「……はい」
小さな返事。
答えは、まだ出ない。
けれど――
探していいのだと、初めて思えた。
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