沈黙のういザード 

豚さん

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23話 七色の覚悟

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診察室を出るころには、午後の光は少し傾いていた。

「……このあと、時間あるかい?」

千秋の父が、白衣を脱ぎながら声をかける。

「よければ、近くの定食屋に一緒に行かないかい? あそこ、結構美味しいんだ。それに……娘の話も、少し聞いてほしくてね」

憂は一瞬だけ迷ってから、小さく頷いた。

「……はい」



 病院近くの定食屋は、昼時らしく賑わっていた。
 どこか家庭的な匂いに、憂の胃が正直に鳴る。

「好きなもの、頼みなさい」

「……いいんですか?」

「遠慮は要らないよ。好きなだけ食べなさい」

 その一言で、憂の遠慮は吹き飛んだ。

 ――結果。
テーブルの上には、唐揚げ定食、焼き魚、煮物と和え物の小鉢二種、さらに、カツ丼と親子丼。
さらに、単品のコロッケ、メンチカツ、エビフライ、餃子。
もはや一人分とは思えない量だった。

 憂は、箸を止めることなく、黙々と食べている。

 千秋の父は、湯飲みを持ったまま、しばらくその様子を眺めていたが――

「噂には聞いていたけど……本当に、よく食べるね」

「……はい。おいしいです」

 もぐもぐしながら、真顔で答える。

「いや、感心してるんだよ。この量を、あんなにきれいに食べる子はなかなかいない」

「……小学生の頃、母がちゃんと食べなさいって」

 その一言に、彼は少しだけ表情を緩めた。

「娘もね」

 箸を置き、ふと話題を変える。

「学校で、いろいろ大変みたいだ」

「千秋は弱音は見せないです。ただ、友達から見ても……少し無理してる気はします」

「社会っていうのは、思っている以上に厳しい。言葉一つで、立場も評価も変わる」

 精神科医らしい、落ち着いた声。

「コミュニケーションもね。正しいことと伝わることは、別だから」

 憂は、少し考えてから言う。

「……でも、千秋は強いです。ちゃんと前を向ける人ですから」

「そう思ってる。娘は、自分で考えて、選んで、進める子だ」

 誇らしげで、まっすぐな父親の顔。

 ――が。

憂が、箸を止めずに言う。

「……そのわりに。千秋、すごく怒ってましたよ」

「えーーー!?」

「お父様から、毎日連絡が来るって」

「……」

「今日はちゃんと食べたか。夜更かししてないか。変な虫がついてないかって」

「……」

 千秋の父は、静かに崩れ落ちた。

「……心配なんだ……」

「過保護すぎます。千秋に着信拒否されて、一週間会話禁止の刑を食らってますよね?」

 千秋の父は、机に突っ伏すように両手で顔を覆い、大人なのに嗚咽を漏らした。

「うっ……ううっ……!」

 思わず憂が眉をひそめる。

「……いや、ガチ泣きじゃないですか。大の大人なんですから、落ち着いてくださいよ」

 父は小さく肩を震わせ、鼻をすすりながら答える。

「だって……我が娘が……!」

 憂はあきれた顔で、でも言葉は毒を込めて返す。

「……一週間なら、よくないですか? 精神科の名医なのに、泣きすぎです」

「よくない! 声が聞けないんだぞ!?」

「学校行ってるだけですから」

「それでもだ!」

 憂は小さく鼻で笑いながら、心の中で思った。

(いや、そこまで泣くって……プロとしてどうなの……)

 完全に親バカだった。

 さらに、追い打ち。

「……そういえば」

 憂が、ふと思い出したように言う。

「葉月姉の誕生日も、来られなかったって」

「……っ」

 千秋の父は、胸を押さえた。

「急な仕事が立て続けに入ってね……約束も、全部ドタキャンになって……それで、妻にも……愛想を尽かされた」

「それ、菊子さん……かなり怒ってません?」

「口をきいてもらえていない……」

声が震える。

「……昨日は、海外から帰ってきた妻に、何も話さず、ずっと部屋にこもられてしまった……まともな会話は、もう一か月以上ない」

「それ、相当ですね」

「精神的に致命傷で、心が折れたよ」

「千秋にはわたしから言っておきますよ。なので、あんまり落ち込まないでください」

「ありがとう、憂君。君は、本当に優しい子だね」

 憂は、最後の一口を食べ終え、手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

 そして、少しだけ真剣な目で言う。

「でも……そこまで落ち込むくらい大切に思ってるって、千秋も、菊子さんも、分かってると思います」

「……そう、だといいんだが」

 「千秋は、ちゃんと前を向いてます。だから――信じてあげてください」

 憂は、はっきり頷いた。

 千秋の父は、しばらく黙ってから、苦笑した。

「……まさか、憂君にカウンセリングされる日が来るとはね」

「立場、入れ替わりましたね」

 昼下がりの食堂。
 笑いとため息が、静かに混じる。

 ――父親も、人間だ。
 完璧じゃない。

 でも、だからこそ。
 この人は、信頼できるのだと。

 憂は、そう思った。

千秋の父は、しばらく黙ったまま、窓の外に視線を向けていた。
曇った空を追うように、ただ遠くを見つめている。

「……ああ、ほら。珍しいな……虹が出ている。こんな日に」

憂も窓の外へ、何気なく目を向ける。

「……雨上がりの虹って、綺麗ですね」

雨上がりの空に、淡く弧を描くものがあった。
この時間、この天気で見るには、少し不釣り合いなほどの――虹。

赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
はっきりとは分かれないのに、確かにそこに在る七つの色。

それを見た瞬間、憂の脳裏に、いくつもの顔が浮かんだ。
立場も考え方も、進む方向さえ違う人たち。
けれど、どれ一つ欠けても、同じ形にはならない。

「……あ」

小さく息を漏らす。
色が重なり、一本の弧になるように――
ばらばらだった思いが、ひとつの答えを描き始めていた。

胸の奥にかかっていた霧が、すっと晴れる。
散らばっていた考えが、一本の線に結び合わさっていく。

憂は、もう一度だけ虹を見つめてから、静かに息を吸った。

「……見つかりました」

 千秋の父が、静かに顔を上げる。

「何か、思いついたのかい?」

 憂は、深く息を吸ってから、まっすぐに彼を見た。

「はい!」

 声は、震えていない。

「母と……ちゃんと、向き合う方法です」

 具体的な言葉は、口にしない。
 それでも――それが逃げではなく、覚悟だということは、はっきり伝わった。

 憂は、椅子から立ち上がり、頭を下げる。

「先生ありがとうございます」

「……礼を言われるようなことはしていないよ」

 憂は、顔を上げた。

「真剣にぶつかる覚悟、持てました。それだけで……十分です」

 そして、少しだけ言い淀んでから。

 視線が、再びまっすぐになる。

「……あの、10月1日、ちょっとお願いがあるんです。その日、協力、してほしいです」

 内容は、語らない。
 頼みも、最小限。

 それでも――

 千秋の父は、ふっと笑った。

 どこか、察したような。
 だが、踏み込みすぎない、あの大人の笑みで。

「分かった。詳しいことは聞かない。なるほど10月1日か。詳しいことは聞かない。必要な時に、力になればいいんだろう?」

 憂は、目を見開いてから、力強く頷いた。

「……はい!」

 その返事を見て、彼は椅子にもたれ、軽く肩をすくめる。

「君は、本当に……面白い子だ」

 時計を見た憂が、慌てて立ち上がる。

「友達にも、協力してもらわないと……!帰って、準備しないと」

「忙しいな」

「はい。でも……今なら、動けます」

 鞄を肩にかけ、深く一礼。

「今日は、本当にありがとうございました」

「こちらこそ」

 千秋の父は、扉の前で足を止めた憂に、穏やかに声をかけた。

「千秋の友達はね……いい人たちに、恵まれている」

 憂は、少しだけ照れたように笑った。

「そうだと、いいです」

「いいに決まってる」

 そう言って、彼は目を細める。

 憂が廊下を駆けていく背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。

「……ああ、間違いない」

 娘の友達は。そして、きっと――娘自身も。

 ちゃんと、未来へ進んでいる。
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