沈黙のういザード 

豚さん

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18話 社長ごっこ

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社長室の扉が開き、先ほどまでの静けさに、かすかな動きが生まれた。

「憂さんですね。お会いできて光栄です」

低く落ち着いた声に、憂は思わず小さく息を呑む。
理恵との結婚式以来――こうして直接会うのは、久しぶりだった。

憂は椅子に腰掛け、深呼吸をひとつ。
――緊張している。
手は膝の上で軽く組まれ、足もどこか落ち着かない。

あのときの、華やかで少し砕けた雰囲気とは違う。
今、目の前に立つ社長は、確かな落ち着きと威厳を纏っていた。

派手さはない。
けれど、年齢と経験が重なった、若さでは辿り着けない静かな色気がある。

整えられた濃紺のスーツに白いシャツ、控えめなネクタイ。
無駄のない仕草と、ほのかに漂う清潔な香りが、視覚と嗅覚の両方から、憂の心を静かに揺らした。

「……暑いですね」

そう言って、社長は自然な動きでジャケットに手をかける。
肩から上着を脱ぎ、背もたれに掛ける――ただそれだけの所作なのに。

露わになったシャツ越しの腕の線、少し緩んだ首元。
きちんとした印象はそのままに、堅さだけが一段、外れる。

憂の胸が、きゅっと小さく鳴った。
大人の男の余裕と、無防備さが一瞬だけ覗いた、その隙間に。

憂は小さく肩をすくめ、心の中で恐縮する。

「あ、あの……お仕事中に本当に申し訳ありません……」

思わず低めの声で謝罪を口にする。

すると、社長はにっこりと微笑んで答える。

「大丈夫ですよ。今はスケジュールも空いていますし、憂さんが来てくださったら、私のほうで時間を開けますから」

憂の胸の奥で、緊張と同時にほんのわずかに安心感が芽生える。
――スケジュールが空いているから大丈夫、という言葉は、単なるビジネス的なフォローだけではなく、自然な包容力を感じさせる。

しかし、社長はそこからさらに一歩踏み込み、憂を困らせるような言葉を、憂に視線を向けて微かに微笑みながら続けた。

「憂さんが来てくれるなら……他の予定なんて、全部後回しにできますし、しかも――その、困った顔も、なぜか可愛いと思ってしまうんですよね」

憂は思わず背筋を伸ばし、慌てて言い返した。

「……ちょ、ちょっと! そういう言い方、本当にやめてください!」

顔を真っ赤にしながらも、声には抑えきれない動揺が滲む。
それでも、つい小さく笑いがこぼれてしまう。

「そんなふうに言われても、全然嬉しくないですから!変に期待させるようなこと、言わないでください!」

社長は軽く笑い、しかし声のトーンは柔らかい。

「いやいや、変な意味ではないですよ。ただ……憂さんが来てくれると、自然にその場が明るくなるというか――」

社長は微笑みを浮かべ、少し遊ぶような口調で言った。

「……ところで、憂さん。もしよければ、社長椅子に座ってみませんか?」

憂は一瞬、思わず口を開きかけた。

「えっ、でも……わたしはただの来訪者ですし……」

しかし、社長は手を差し伸べ、柔らかく促す。

「せっかく来ていただいたんですから、一度だけでも。ほんの少しで構いませんから、座ってみてください」

憂はためらいつつも、結局椅子に腰を下ろすことに。
背もたれが高く、革の感触がしっかりとしていて、座った瞬間に不思議な安定感と威厳が伝わってくる。
――思わず深く座り直し、背筋を伸ばしてみる。

「……わ、わあ……」

思わず声が漏れる憂。
椅子に座っただけで、なぜか自分が格上になったかのような優越感が湧き上がる。
脚を組み、机を少し手で撫でるだけで、部屋の空気まで自分のものにしたような錯覚すら覚えた。

社長は椅子の後ろで静かに見守り、微笑む。

「似合いますね……まるで、ここが憂さんの会社のようです」

憂は思わず小さく笑い、声を弾ませた。

「……ほんとに、優越感がすごいですね。椅子ひとつで、社長になった気分……」

憂が遠慮がちにそう言うと、向かいの社長は少し目を細め、楽しそうに頷いた。

「そうでしょう。でも、それは椅子の力というより――」

社長は一度言葉を切り、はっきりと続ける。

「憂さんが、そこに座っているからですよ」

「え……?」

憂が戸惑ったように瞬きをすると、社長は構わず、さらりと畳みかける。

「姿勢も視線も落ち着いている。初めてこの部屋に来た人は、たいていもっと縮こまるんですがね」

「い、いえ……内心は、かなりドキドキしてます……」

憂は苦笑しながら視線を逸らす。
その様子を見て、社長はむしろ面白そうに口元を緩めた。

「それでいいんです。緊張していても、逃げずに座っていられる――それだけで十分、素質があります」

「そ、そんな大げさな……」

「大げさではありませんよ」

社長は軽く肩をすくめる。

「では、せっかくですから、今日は私が社員で、憂さんが社長ということで――」

憂は慌てて手を振りつつ、でも少しだけ笑ってしまう。

「ちょ、ちょっと待ってください! わたしが社長って、どういうことですか!」

「そのままの意味です」

社長は冗談めかしながらも、声はやけに穏やかだった。

「決断を迫られる立場に立つと、人は意外な一面を見せる。憂さんなら、きっと優しいけれど、ちゃんと前に進ませる社長になるでしょうね」

「……それ、褒めすぎじゃないですか」

「いえ、評価です」

社長は軽く手を広げる。

「今日は特別な日ですから。社員として、私に指示を出してみてください」

一瞬、憂は言葉に詰まる。
けれど――

「……どんな命令でも、ですか?」

そう聞き返す声は、さっきよりほんの少しだけ前向きだった。

社長は、その変化を見逃さず、にっこりと頷く。

「ええ。今の憂社長の判断を、楽しみにしていますよ」

憂は目を丸くし、ちょっと得意げに机を叩く。

「では……社長であるわたしのために最高のコーヒーを淹れなさい!」

社長はにやりと笑いながら、椅子を少し前に傾け、演技たっぷりに答える。

「かしこまりました、憂社長!」

憂は思わず吹き出し、笑いを抑えきれずに手を叩く。
――たった椅子ひとつで、こんなに楽しい気分になるなんて。
社長の余裕と遊び心が、緊張を和らげ、二人の距離をぐっと近づけた瞬間だった。

憂は小さくため息をつき、椅子の背もたれに体を預ける。
――落ち着いて。これは仕事の話。
そう自分に言い聞かせる。

憂は社長椅子に座ったまま、少し得意げに机を叩きながら言った。

「では……わたし、社長ですから質問しますね。理恵夫人の新婚旅行はどうだったんですか?」

社長は椅子の前に立ち、落ち着いた声で答える。

「おお、憂社長、それはもう……素晴らしい旅でしたよ。景色も食事も、全てが完璧で――」

憂は真面目な顔でうなずく。

「ふむふむ……なるほど、奥様も満足されたんですね」

すると社長は、微かに口元を緩め、目を細めながら言った。

「ええ……ただ、正直言うと……理恵の笑顔が、あまりに眩しくて、ずっと見とれてしまいましたね」

憂は思わず眉をひそめ、腕を組む。

「……それは旅行の感想ですか? それともただの褒め言葉ですか?」

社長は楽しそうに肩をすくめ、さらに追い打ちをかけるように言葉を続けた。

「いやいや、憂社長……褒め言葉も含まれますが……理恵さん、寝る前にふと振り向く姿が、とても……艶っぽくてですね……」

一瞬の間を置いて、社長は目を細め、声のトーンを少し落としながら付け加えた。

「……夜も、実に素晴らしかったですよ。彼女の肌が月明かりに透けて、息づかいが耳元で乱れるたび……もう、理性が飛んでしまうほどで」

憂は一瞬、言葉を失った。
顔がカッと熱くなり、耳まで真っ赤に染まるのが自分でもわかる。

「ちょっ……何を言ってるんですか! 本当にやめてください!」

思わず社長を正座させ、机の前に座らせる勢いで指示する。

「座りなさい! わたしが社長なんですから、正座してちゃんと話を聞きなさい!」

社長は床に正座させられても、なお微笑みを浮かべている。

「はは……わかりました、憂社長。どんな説教でも、聞きます」

憂は両手で顔を押さえ、声を震わせながら怒鳴る。

「社会人として、既婚者として、来訪者のわたしに次々とそんな話をするのは、どういうことですか! 本当にわかっていますか!」

その間、秘書は気まずそうに小さく息を吐き、そっと立ち上がった。
部屋の空気を読み、存在感をできる限り消すように慎重に動く。

「……失礼いたします」

淡い声が、静かに部屋に響く。
秘書の両手にはトレーがあり、上には氷がきらめく冷えたジュースが注がれたグラスが置かれていた。
透明な液面からは、夏の光を反射する小さな波紋が揺れ、爽やかな香りがふわりと部屋に漂う。
その香りだけが、張り詰めた空気をやわらげるようだった。

秘書は足音を立てないよう一歩ずつ慎重に歩き、憂と社長の間をすり抜ける。
ピンと伸びた背筋と凛とした佇まいは、静かな気遣いそのものだった。

「……失礼いたしました」

ジュースをテーブルに置くと、秘書はそっと部屋の隅へ退避する。
視線は下げ、肩はわずかに震えているようにも見えるが、状況をしっかり理解しているのが伝わる。
まるで「ここにいること自体は迷惑ではありません」と示すように、気配を最小限に抑えたその姿に、憂は思わず胸が和らいだ。

「……秘書さん、ありがとうございます……」

小さな声で礼を告げ、憂はグラスを両手で抱える。
氷の冷たさが指先に伝わり、甘く爽やかなジュースの香りが、まだ少し緊張の残る室内に、ゆっくりと穏やかさを運んだ。

社長は正座したまま、顔を少し傾けて楽しげに微笑む。

「憂社長……その、怒った顔も、とても……可愛いですね」

憂は思わず「うっ……!」と声を詰まらせ、机に顔を伏せる。

その空気を壊さないように――
社長は、正座したまま、そっと胸ポケットからスマートフォンを取り出す。

憂がそれに気づいたときには、すでに遅かった。

カメラの向こうに映るのは、重厚な社長机、床まで届くガラス窓、その中央に鎮座する高級な社長椅子。
そして――
その椅子に座り、顔を真っ赤にしながら説教していた憂社長の姿。

「ちょっ!? な、なにしてるんですか!!」

慌てて立ち上がろうとする憂を、社長は片手で制しながら、どこか楽しそうに言う。

「いえ、あまりにも貴重な光景でしたので、社長室にこんなに堂々と座り、私を正座させて説教する人は、そうはいませんから」

「消してください! 今すぐ! そんな写真、誰にも見せないでください!」

社長はスマホの画面を一度確認し、どこか楽しそうに小さく頷いた。

「ええ、大丈夫ですよ。これは……私の個人的な宝物ですから。……ああ、でも――妹に見せたら、きっと大喜びするでしょうね。『まあ、お兄さま……!あの会社で、憂様が社長をお務めになっているなんて……なんて光栄なこと……!』と」

「それが一番ダメです!!」

憂は勢いよく顔を上げ、全力で否定する。

「絶対に見せないでください! お願いしますから!」

社長は肩を揺らして笑いながら、どこか満足そうにスマホを胸元へ戻した。

「冗談ですよ……半分は」

「半分も残さないでください!!」

憂は真っ赤な顔のまま頭を抱え、もう二度と社長椅子には座らない、と心に誓うのだった。

秘書は、そのやり取りを一瞬だけ視界の端で確認し――
何も見なかったかのように、静かに扉の外へと退いていった。

社長はゆっくり立ち上がり、憂のほうを見下ろして、柔らかく微笑む。

「しかし……憂さんがあの椅子に座っている姿、本当に様になっていましたよ」

「もう……」

憂は唇を尖らせ、視線を逸らす。

「調子に乗りすぎました……」

けれど、胸の奥にはまだ、あの椅子に座ったときの、あの不思議な高揚感が残っている。

社長はそんな憂の表情を見て、どこか誇らしげに、そして楽しそうに目を細めた。

――社長室には今日も、少しだけ不真面目で、けれど温かい笑いが、静かに満ちていた。
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