237 / 255
19話 300メートルの選択肢
しおりを挟む
社長室に残っていた笑いの余韻が、ゆっくりと静まっていく。
ソファに移動し、今度は向かい合う形で腰を下ろした二人の間には、先ほどまでとは違う、落ち着いた空気が流れていた。
社長――理恵の旦那は、コーヒーを一口飲んでから、少しだけ表情を改める。
「……実は、理恵から少し聞きました」
憂は姿勢を正し、視線を向ける。
「大学の進路のことで、いろいろ考えているそうですね」
「……はい」
軽くうなずきながら、憂は正直に答える。
「まだ、はっきり決まってはいなくて……」
社長は否定も急かしもせず、穏やかに続けた。
「だからこそ、東大を卒業した人間として、一度話を聞いてほしいと」
その言い方に、憂の肩の力が少し抜けた。
「……ありがとうございます」
少し間を置いて、憂は問いかける。
「大学生活って……どうでしたか?」
社長は一瞬だけ視線を遠くにやり、懐かしむように微笑んだ。
「そうですね……」
静かな声で、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私は長男で、跡取りでした。正直に言えば、進路はほとんど最初から決まっていたようなものです」
憂は、黙って耳を傾ける。
「家業を継ぐための学部、将来を見据えた人脈。親が敷いたレールの上を歩いていた、という表現が一番近いでしょう」
そこで、社長は少しだけ笑った。
「それでも――大学生活自体は、楽しかったですよ」
「……楽しかった、んですね」
「ええ。自由は限られていましたが、その中で学ぶことも、人と出会うことも、すべてが刺激的でした」
そして、憂のほうをまっすぐに見る。
「だからこそ、あなたが自分で考えているというだけで、私は立派だと思います」
その一言に、憂は少し驚いたように目を瞬かせる。
「迷っている、というのは、真剣に人生を考えている証拠ですから」
社長は穏やかに、しかしはっきりと言った。
「……将来、何になりたいか。今、何か考えていることはありますか?」
憂は、すぐには答えられなかった。
少し俯き、指先を組みながら、正直な気持ちを口にする。
「……まだ、はっきりとは。でも……もし言うなら、医者になって、病気の人を治す、というのも……ひとつの考えです」
不安そうに顔を上げる。
「漠然としてますよね……」
だが、社長は首を横に振った。
「いいと思いますよ。人の役に立ちたい、という理由は、どんな専門職にも必要な原点です」
続けて、少し視線を和らげる。
社長は、憂のこれまでを一つひとつ思い返すように、静かに言葉を重ねていった。
「学校では首席。海外、しかもドイツでの生活経験。英語、ドイツ語、フランス語の三か国語を使いこなせる」
軽く息を吐き、感心したように微笑む。
「正直、日本国内だけで進路を考えるには、少しもったいないですね」
「え……?」
「世界の大学も、視野に入れていい。国際医療でも、研究でも、外交寄りの分野でも――あなたの語学力は、大きな武器になります」
そして、ほんの少しだけ悪戯っぽく付け加える。
「英会話も完璧、発音もきれい。それに……」
ちらりと憂を見て、肩をすくめる。
「歌も上手で、顔も可愛い。東大出身、インテリ芸能人という道も、なくはないですね」
「……っ!?」
憂は一気に顔を赤くした。
「そ、そんなの考えたことありません!」
社長は声を立てずに笑う。
「冗談ですよ。半分は」
「また半分残してる……」
小さくぼやきながらも、憂の表情はどこか和らいでいた。
社長は、最後に静かに言う。
「答えは、今すぐ出さなくていい。ただ――選択肢が多い、ということだけは、覚えておいてください」
憂は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
迷いはまだ消えない。
けれど、世界が少しだけ広がった気がした。
――それだけで、この時間は、十分に意味があった。
社長――理恵の旦那は、ふと思い出したように憂へ視線を向けた。
「そういえば、憂さん。千秋さんとは、かなり親しいんですよね?」
「……はい。大切なお友達です」
その返事に、彼は小さくうなずいた。
「やっぱり。実はね、千秋さんのことは、私も知っています」
「え……?」
「ご本人とも何度かお会いしていますし、お父上とは、仕事の関係で長い付き合いがあります」
少し懐かしむように、言葉を選びながら続ける。
「全国を飛び回っている、有名な精神科医でしょう。学会やパーティーで顔を合わせることも多くてね」
そして、ふっと表情を和らげた。
「娘さんの話になると、本当に嬉しそうでね。ピアノのこと、ドイツ留学のこと……少し話し出すと、止まらなくなるんですよ」
憂は、思わず小さく笑った。
「……千秋のお父さんらしいですね」
社長はその反応を見て、少しだけ声を落とす。
「実は私も、以前――仕事のストレスがかなりきつかった時期に、あの方にカウンセリングを受けたことがあります」
「……そうだったんですね」
「ええ。財閥の家の長男という立場もあって、弱音を吐く場所がなかった。だからこそ、分かるんです。期待される側の重さや、逃げ場のなさが」
その言葉に、憂は自然と胸が締めつけられるのを感じた。
「もし迷うことがあったら」
しばしの沈黙のあと、社長は穏やかに言った。
「千秋さんのお父上に会ったほうがいいですよ。同じ東大出身ですし、誠実で、ずっと深い話が聞けますよ」
「そんな……」
憂は、はっきりと首を振り、背筋を正す。
「いえ。今日は、本当にありがとうございました」
まっすぐに社長を見つめ、丁寧に言葉を選ぶ。
「進路のことも……人とのご縁のことも……こんなふうに、ちゃんと考えて、真剣に話してもらえるなんて……」
憂は言葉を探すように、一度視線を落とす。
そして、少し照れたように、でもまっすぐに微笑んだ。
「正直、思っていませんでした。今日のお話……たぶん、大人になっても、ずっと覚えていると思います」
小さく、深く頭を下げる。
「本当に……ありがとうございました」
社長は一瞬、言葉を失い、それから静かに笑った。
「こちらこそ。憂さんとお話しできて、楽しかったですよ」
その声は、社長としてではなく、ひとりの大人としてのものだった。
憂は、深く頭を下げる。
――少し照れくさくて、でも、あたたかい時間だった。
社長はふと思い出したように、穏やかな口調で続ける。
「そうだ。千秋さんのお父上ですが――
来月以降、大阪でのお仕事が増えて、こちらに戻られるそうです。
詳しい日程がわかり次第、理恵を通してでも、俺からでもご連絡しますよ」
憂は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、もう一度、丁寧に頭を下げた。
――人と人が、静かに繋がっていく音がした気がした。
ソファに移動し、今度は向かい合う形で腰を下ろした二人の間には、先ほどまでとは違う、落ち着いた空気が流れていた。
社長――理恵の旦那は、コーヒーを一口飲んでから、少しだけ表情を改める。
「……実は、理恵から少し聞きました」
憂は姿勢を正し、視線を向ける。
「大学の進路のことで、いろいろ考えているそうですね」
「……はい」
軽くうなずきながら、憂は正直に答える。
「まだ、はっきり決まってはいなくて……」
社長は否定も急かしもせず、穏やかに続けた。
「だからこそ、東大を卒業した人間として、一度話を聞いてほしいと」
その言い方に、憂の肩の力が少し抜けた。
「……ありがとうございます」
少し間を置いて、憂は問いかける。
「大学生活って……どうでしたか?」
社長は一瞬だけ視線を遠くにやり、懐かしむように微笑んだ。
「そうですね……」
静かな声で、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私は長男で、跡取りでした。正直に言えば、進路はほとんど最初から決まっていたようなものです」
憂は、黙って耳を傾ける。
「家業を継ぐための学部、将来を見据えた人脈。親が敷いたレールの上を歩いていた、という表現が一番近いでしょう」
そこで、社長は少しだけ笑った。
「それでも――大学生活自体は、楽しかったですよ」
「……楽しかった、んですね」
「ええ。自由は限られていましたが、その中で学ぶことも、人と出会うことも、すべてが刺激的でした」
そして、憂のほうをまっすぐに見る。
「だからこそ、あなたが自分で考えているというだけで、私は立派だと思います」
その一言に、憂は少し驚いたように目を瞬かせる。
「迷っている、というのは、真剣に人生を考えている証拠ですから」
社長は穏やかに、しかしはっきりと言った。
「……将来、何になりたいか。今、何か考えていることはありますか?」
憂は、すぐには答えられなかった。
少し俯き、指先を組みながら、正直な気持ちを口にする。
「……まだ、はっきりとは。でも……もし言うなら、医者になって、病気の人を治す、というのも……ひとつの考えです」
不安そうに顔を上げる。
「漠然としてますよね……」
だが、社長は首を横に振った。
「いいと思いますよ。人の役に立ちたい、という理由は、どんな専門職にも必要な原点です」
続けて、少し視線を和らげる。
社長は、憂のこれまでを一つひとつ思い返すように、静かに言葉を重ねていった。
「学校では首席。海外、しかもドイツでの生活経験。英語、ドイツ語、フランス語の三か国語を使いこなせる」
軽く息を吐き、感心したように微笑む。
「正直、日本国内だけで進路を考えるには、少しもったいないですね」
「え……?」
「世界の大学も、視野に入れていい。国際医療でも、研究でも、外交寄りの分野でも――あなたの語学力は、大きな武器になります」
そして、ほんの少しだけ悪戯っぽく付け加える。
「英会話も完璧、発音もきれい。それに……」
ちらりと憂を見て、肩をすくめる。
「歌も上手で、顔も可愛い。東大出身、インテリ芸能人という道も、なくはないですね」
「……っ!?」
憂は一気に顔を赤くした。
「そ、そんなの考えたことありません!」
社長は声を立てずに笑う。
「冗談ですよ。半分は」
「また半分残してる……」
小さくぼやきながらも、憂の表情はどこか和らいでいた。
社長は、最後に静かに言う。
「答えは、今すぐ出さなくていい。ただ――選択肢が多い、ということだけは、覚えておいてください」
憂は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
迷いはまだ消えない。
けれど、世界が少しだけ広がった気がした。
――それだけで、この時間は、十分に意味があった。
社長――理恵の旦那は、ふと思い出したように憂へ視線を向けた。
「そういえば、憂さん。千秋さんとは、かなり親しいんですよね?」
「……はい。大切なお友達です」
その返事に、彼は小さくうなずいた。
「やっぱり。実はね、千秋さんのことは、私も知っています」
「え……?」
「ご本人とも何度かお会いしていますし、お父上とは、仕事の関係で長い付き合いがあります」
少し懐かしむように、言葉を選びながら続ける。
「全国を飛び回っている、有名な精神科医でしょう。学会やパーティーで顔を合わせることも多くてね」
そして、ふっと表情を和らげた。
「娘さんの話になると、本当に嬉しそうでね。ピアノのこと、ドイツ留学のこと……少し話し出すと、止まらなくなるんですよ」
憂は、思わず小さく笑った。
「……千秋のお父さんらしいですね」
社長はその反応を見て、少しだけ声を落とす。
「実は私も、以前――仕事のストレスがかなりきつかった時期に、あの方にカウンセリングを受けたことがあります」
「……そうだったんですね」
「ええ。財閥の家の長男という立場もあって、弱音を吐く場所がなかった。だからこそ、分かるんです。期待される側の重さや、逃げ場のなさが」
その言葉に、憂は自然と胸が締めつけられるのを感じた。
「もし迷うことがあったら」
しばしの沈黙のあと、社長は穏やかに言った。
「千秋さんのお父上に会ったほうがいいですよ。同じ東大出身ですし、誠実で、ずっと深い話が聞けますよ」
「そんな……」
憂は、はっきりと首を振り、背筋を正す。
「いえ。今日は、本当にありがとうございました」
まっすぐに社長を見つめ、丁寧に言葉を選ぶ。
「進路のことも……人とのご縁のことも……こんなふうに、ちゃんと考えて、真剣に話してもらえるなんて……」
憂は言葉を探すように、一度視線を落とす。
そして、少し照れたように、でもまっすぐに微笑んだ。
「正直、思っていませんでした。今日のお話……たぶん、大人になっても、ずっと覚えていると思います」
小さく、深く頭を下げる。
「本当に……ありがとうございました」
社長は一瞬、言葉を失い、それから静かに笑った。
「こちらこそ。憂さんとお話しできて、楽しかったですよ」
その声は、社長としてではなく、ひとりの大人としてのものだった。
憂は、深く頭を下げる。
――少し照れくさくて、でも、あたたかい時間だった。
社長はふと思い出したように、穏やかな口調で続ける。
「そうだ。千秋さんのお父上ですが――
来月以降、大阪でのお仕事が増えて、こちらに戻られるそうです。
詳しい日程がわかり次第、理恵を通してでも、俺からでもご連絡しますよ」
憂は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、もう一度、丁寧に頭を下げた。
――人と人が、静かに繋がっていく音がした気がした。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる