沈黙のういザード 

豚さん

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19話 300メートルの選択肢

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 社長室に残っていた笑いの余韻が、ゆっくりと静まっていく。
 ソファに移動し、今度は向かい合う形で腰を下ろした二人の間には、先ほどまでとは違う、落ち着いた空気が流れていた。

 社長――理恵の旦那は、コーヒーを一口飲んでから、少しだけ表情を改める。

「……実は、理恵から少し聞きました」

 憂は姿勢を正し、視線を向ける。

「大学の進路のことで、いろいろ考えているそうですね」

「……はい」

 軽くうなずきながら、憂は正直に答える。

「まだ、はっきり決まってはいなくて……」

 社長は否定も急かしもせず、穏やかに続けた。

「だからこそ、東大を卒業した人間として、一度話を聞いてほしいと」

 その言い方に、憂の肩の力が少し抜けた。

「……ありがとうございます」

 少し間を置いて、憂は問いかける。

「大学生活って……どうでしたか?」

 社長は一瞬だけ視線を遠くにやり、懐かしむように微笑んだ。

「そうですね……」

 静かな声で、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「私は長男で、跡取りでした。正直に言えば、進路はほとんど最初から決まっていたようなものです」

 憂は、黙って耳を傾ける。

「家業を継ぐための学部、将来を見据えた人脈。親が敷いたレールの上を歩いていた、という表現が一番近いでしょう」

 そこで、社長は少しだけ笑った。

「それでも――大学生活自体は、楽しかったですよ」

「……楽しかった、んですね」

「ええ。自由は限られていましたが、その中で学ぶことも、人と出会うことも、すべてが刺激的でした」

 そして、憂のほうをまっすぐに見る。

「だからこそ、あなたが自分で考えているというだけで、私は立派だと思います」

 その一言に、憂は少し驚いたように目を瞬かせる。

「迷っている、というのは、真剣に人生を考えている証拠ですから」

 社長は穏やかに、しかしはっきりと言った。

「……将来、何になりたいか。今、何か考えていることはありますか?」

 憂は、すぐには答えられなかった。

 少し俯き、指先を組みながら、正直な気持ちを口にする。

「……まだ、はっきりとは。でも……もし言うなら、医者になって、病気の人を治す、というのも……ひとつの考えです」

 不安そうに顔を上げる。

「漠然としてますよね……」

 だが、社長は首を横に振った。

「いいと思いますよ。人の役に立ちたい、という理由は、どんな専門職にも必要な原点です」

 続けて、少し視線を和らげる。

 社長は、憂のこれまでを一つひとつ思い返すように、静かに言葉を重ねていった。

「学校では首席。海外、しかもドイツでの生活経験。英語、ドイツ語、フランス語の三か国語を使いこなせる」

 軽く息を吐き、感心したように微笑む。

「正直、日本国内だけで進路を考えるには、少しもったいないですね」

「え……?」

「世界の大学も、視野に入れていい。国際医療でも、研究でも、外交寄りの分野でも――あなたの語学力は、大きな武器になります」

 そして、ほんの少しだけ悪戯っぽく付け加える。

「英会話も完璧、発音もきれい。それに……」

 ちらりと憂を見て、肩をすくめる。

「歌も上手で、顔も可愛い。東大出身、インテリ芸能人という道も、なくはないですね」

「……っ!?」

 憂は一気に顔を赤くした。

「そ、そんなの考えたことありません!」

 社長は声を立てずに笑う。

「冗談ですよ。半分は」

「また半分残してる……」

 小さくぼやきながらも、憂の表情はどこか和らいでいた。

 社長は、最後に静かに言う。

「答えは、今すぐ出さなくていい。ただ――選択肢が多い、ということだけは、覚えておいてください」

 憂は、ゆっくりとうなずいた。

「……はい」

 迷いはまだ消えない。
 けれど、世界が少しだけ広がった気がした。

 ――それだけで、この時間は、十分に意味があった。

 社長――理恵の旦那は、ふと思い出したように憂へ視線を向けた。

「そういえば、憂さん。千秋さんとは、かなり親しいんですよね?」

「……はい。大切なお友達です」

 その返事に、彼は小さくうなずいた。

「やっぱり。実はね、千秋さんのことは、私も知っています」

「え……?」

「ご本人とも何度かお会いしていますし、お父上とは、仕事の関係で長い付き合いがあります」

 少し懐かしむように、言葉を選びながら続ける。

「全国を飛び回っている、有名な精神科医でしょう。学会やパーティーで顔を合わせることも多くてね」

 そして、ふっと表情を和らげた。

「娘さんの話になると、本当に嬉しそうでね。ピアノのこと、ドイツ留学のこと……少し話し出すと、止まらなくなるんですよ」

 憂は、思わず小さく笑った。

「……千秋のお父さんらしいですね」

 社長はその反応を見て、少しだけ声を落とす。

「実は私も、以前――仕事のストレスがかなりきつかった時期に、あの方にカウンセリングを受けたことがあります」

「……そうだったんですね」

「ええ。財閥の家の長男という立場もあって、弱音を吐く場所がなかった。だからこそ、分かるんです。期待される側の重さや、逃げ場のなさが」

 その言葉に、憂は自然と胸が締めつけられるのを感じた。

「もし迷うことがあったら」

 しばしの沈黙のあと、社長は穏やかに言った。

「千秋さんのお父上に会ったほうがいいですよ。同じ東大出身ですし、誠実で、ずっと深い話が聞けますよ」

「そんな……」

 憂は、はっきりと首を振り、背筋を正す。

「いえ。今日は、本当にありがとうございました」

 まっすぐに社長を見つめ、丁寧に言葉を選ぶ。

「進路のことも……人とのご縁のことも……こんなふうに、ちゃんと考えて、真剣に話してもらえるなんて……」

 憂は言葉を探すように、一度視線を落とす。

 そして、少し照れたように、でもまっすぐに微笑んだ。

「正直、思っていませんでした。今日のお話……たぶん、大人になっても、ずっと覚えていると思います」

 小さく、深く頭を下げる。

「本当に……ありがとうございました」

 社長は一瞬、言葉を失い、それから静かに笑った。

「こちらこそ。憂さんとお話しできて、楽しかったですよ」

 その声は、社長としてではなく、ひとりの大人としてのものだった。

 憂は、深く頭を下げる。

 ――少し照れくさくて、でも、あたたかい時間だった。

 社長はふと思い出したように、穏やかな口調で続ける。

「そうだ。千秋さんのお父上ですが――
 来月以降、大阪でのお仕事が増えて、こちらに戻られるそうです。
 詳しい日程がわかり次第、理恵を通してでも、俺からでもご連絡しますよ」

 憂は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、もう一度、丁寧に頭を下げた。

 ――人と人が、静かに繋がっていく音がした気がした。
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