沈黙のういザード 

豚さん

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20話 最優先事項

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面談が終わり、ソファから立ち上がると、社長はごく自然な所作で先に立ち、扉へ向かった。

「では、出口までご一緒しましょう」

「え、あ……ありがとうございます」

 憂が慌てて頭を下げると、社長は歩調を緩め、隣に並ぶように廊下を進む。
 革靴の音が、静かなフロアに柔らかく響いていた。

 しばらく歩いたところで、社長はふと思い出したように口を開く。

「そういえば――理恵から聞きましたよ」

「……?」

「お姉さんの受験勉強を、憂さんが見てあげているとか」

 憂は一瞬、目を瞬かせ、それから少し照れたように首をすくめた。

「いえ……そんな、大したことじゃ……」

「大したことですよ」

 社長は即答だった。

「自分の勉強もあるでしょうに、誰かの将来のために時間を使う。それを当たり前のようにやれる人は、案外少ない。本当に、立派だと思います」

 その言葉に、憂は足取りをほんのわずかに緩め、視線を落とす。

「……でも、葉月姉のほうが、ずっとすごいです」

「ほう?」

「家事もして、アルバイトもして……それで、わたしのことまで気にかけてくれて。だから……勉強を見るくらい、当然というか……」

 言葉の端々に、気負いのない感謝が滲んでいた。
 社長はそれを聞き、どこか誇らしげに、穏やかに頷く。

「いいお姉さんに恵まれましたね」

「……はい」

 小さいが、迷いのない返事だった。

 エレベーターホールが見えてきたところで、社長はふっと肩の力を抜くように笑う。

「……理恵にも、もう少し愛嬌があればいいのですが」

 冗談めいた言い方に、憂は思わず口を開いてしまった。

「それは……えっと……旦那様の日頃の行いが、あんまり良くないから、じゃないですか……その……女の人って、好きな人の前ほど、愛嬌とか……恥ずかしくて出せないものなので……」

 一瞬の沈黙。
 次の瞬間、社長は堪えきれないように声を出して笑った。

「これは一本取られましたね。手厳しい」

「え、す、すみません……!」

「いえいえ。でも……否定できないのが悔しいところです」

 そう言ってから、社長は少し胸を張る。

「もっとも、家ではちゃんと大人しくしているつもりなのですが」

「つもりなんですね」

 憂の即ツッコミに、社長は一瞬言葉に詰まり、また笑った。

「いやはや、観察眼が鋭い。将来が楽しみです」

 エレベーターの前で立ち止まり、社長がボタンを押す。
 その間、憂は一度息を整え、少し真剣な表情になった。

「……あの」

「はい?」

「わたし、今日お話して思いました」

 憂は視線を上げ、まっすぐ社長を見る。

「理恵さんの旦那様って……すごく素敵な方だな、って」

 一瞬、社長が目を瞬かせる。

「そう言われると、照れますね」

「本当です。ちゃんと人の話を聞いてくれて……わたしの将来のことも、真剣に考えてくれているのが伝わってきました」

少し間を置き、憂は続ける。

「それに……理恵さんのことも、すごく大事にしているんだなって」

 社長は一度、軽く咳払いをした。
 さっきまでの冗談めいた空気を、そっと整えるように。

「……そう見えたのなら、安心しました」

声は落ち着いていて、飾りがない。

「夫婦のことは、外から見れば分かりにくいものですから」

「でも……理恵さんの話をしているとき、隠そうとしてない感じがして、大事にしてるのが、そのまま出てました」

 社長は小さく息を吐き、苦笑する。

「彼女には、かなり見透かされていますからね。私がどう思っているかなんて、今さら隠せるものでもない」

 そして、少しだけ真面目な目で、憂を見る。

「だからこそ……あなたの将来の話も、いい加減には聞けませんでした。中途半端な言葉で済ませていい話ではありませんから」


 そう言ってから、ふっと表情を和らげる。
 エレベーターが到着し、静かな音とともに扉が開いた。
 中に入ろうとした憂は、ふと足を止める。

「……あの」

「はい?」

「理恵さん、今日……体調があまり良くないって言ってて。検査に行くって……」

 社長の表情が、ほんの一瞬だけ引き締まる。

「そうでしたか」

 それから、すぐに静かな微笑みに戻った。

「実は、私もこのあと病院に向かうところなんです。合流できそうですね」

「……よかったです」

 憂が心から安堵したように言うと、社長はエレベーターのボタンを押しながら、穏やかに告げた。

「今日は来てくれて、ありがとうございました。気をつけて帰ってください」

「はい……こちらこそ、ありがとうございました」

 扉が閉まり、静かな振動とともに下降を始める。
 数字が一つずつ下がっていくのを眺めながら、憂は胸の奥に残る、妙にあたたかな余韻を感じていた。

 ――この部屋で聞いた言葉は、きっと、これから先も消えない。

 そう思っていた、そのとき。

「……ああ、そうだ」

 社長が、思い出したように言った。

「このまま、実家までお送りしましょうか。時間はありますし」

「えっ?」

 憂は一瞬きょとんとし、それから慌てて首を振った。

「い、いえ、大丈夫です! 家、そんなに遠くないですし」

「そうですか? ですが、もう夕方ですし――」

「女子高生の心配をする前に、奥様を最優先事項にしてください!」

 憂は間髪入れず、少しだけ呆れたように言った。
 ぴたり、と社長の動きが止まる。

「……」

「理恵さん、体調よくないんですよ。検査って言ってましたし」

 憂は腕を後ろに回し、きっぱりと言い切った。

「わたしは一人で帰れますけど……理恵さんは、旦那様が一緒にいたほうが、きっと安心すると思います」

 社長は小さく息を吐き、苦笑した。

「参りました。完全に正論ですね。おっしゃる通りです」

「ですよね」

「はい。これはもう、即病院直行です」

 社長はそう言ってから、柔らかく微笑んだ。

「ご心配、ありがとうございます。……理恵も、あなたのそういうところには、今でも素直に心を開いているんだと思います」

 憂は少し照れくさそうに微笑みながら言った。

「旦那様……すりおろしリンゴのエピソード、すごく素敵でしたよ」

 社長は黙って、口元だけ緩めて笑った。

 やがてエレベーターは一階に到着し、扉が開く。

「では、本当に気をつけて」

「はい。理恵さんにも、よろしくお伝えください」

「ええ、必ず」

 軽く会釈を交わし、憂が外へ向かうのを、社長は静かに見送った。

 ――素敵な人だ。

 それは尊敬とも、安心とも違う、けれど確かな実感だった。

 理恵さんが、あの人を選んだ理由が、少しだけ分かった気がして。

 憂は、胸の奥のあたたかさを抱えたまま、夕暮れの街へと歩き出した。
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