沈黙のういザード 

豚さん

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16話 迷えることの誠実

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しばしの沈黙のあと、小鈴は、そっと視線を落とした。

「……少し、現実的なお話をしても、よろしいでしょうか」

 その声色が変わったことに、憂は自然と背筋を伸ばす。

「二条家の人間として――わたくしが東京大学を目指す理由は、決して夢や憧れだけではございませんの」

 理恵は何も言わず、黙って続きを促す。

「二条家は、表向きは旧家、名家と呼ばれますけれど……実態は、複数の企業と資産を抱える家ですわ」

 淡々とした口調。
 感情を挟まない、事実の説明。

「将来、わたくしが直接経営に関わるかどうかは分かりません。けれど、何も知らないまま名だけを背負う立場になることだけは、許されませんの」

 小鈴は、静かに手を重ねた。

「東京大学という場所は、学力の象徴であると同時に、政界、官界、財界――あらゆる中枢と、現実的な距離が近い」

 言葉を選びながら、続ける。

「人脈。思考の癖。物事の決め方。責任の取り方。そういったものを、同じ空気の中で学べる場所ですわ」

 憂は、思わず息を呑む。

 それは、受験の話でありながら、未来の生き方そのものの話だった。

「ですから」

 小鈴は顔を上げ、まっすぐ憂を見る。

「わたくしにとっての東京大学は、行けたら嬉しい場所ではなく、行けるかどうか、自分の価値を試される場所なのです」

 室内が、静まり返る。

 理恵が、ぽつりと呟いた。

「……相変わらず、重たい人生だねぇ」

「承知しておりますわ」

 小鈴は苦笑する。

「ですが、これが二条家の娘として生まれた以上、避けては通れない現実ですもの」

 そして、小鈴はふっと表情を和らげた。

「ただ――」

 少しだけ、声が柔らかくなる。

「憂さんは、わたくしと同じ理由で進路を考える必要は、ございませんわ」

「……え?」

「東京大学を目指す理由は、人それぞれでよろしいのです」

 小鈴は、優しく続ける。

「世間体でも、誰かの期待でもなく……自分が、そこで何を学びたいのかその先で、どんな大人になりたいのか」

 小さく、うなずく。

「それがまだ見えないのでしたら、今は無理に決めなくても、よろしいのですわ」

 その言葉に、憂の胸が、少しだけ軽くなる。

「迷っている、ということは――真剣に考えている証拠ですもの」

 理恵が、にやりと笑った。

「ほらね。小鈴は重たいけど、言うことは優しい」

「理恵さん……それ、褒めてます?」

「失礼だな。褒めてるんだけど」

 そう前置きしてから、彼女は続けた。

「うちの旦那、卒業生だけどさ。受けるだけでも相当きついし、実際、あの人も――合格したあとが、また地獄だったみたい」

 一瞬、笑ってから、少しだけ目を細める。

「周りは化け物みたいなのばっかりでさ。ついていくだけで必死、寝る時間削って、何度も心折れかけてた。
 それでも食らいついて、ようやく居場所を作ったって感じ」

 軽い口調のまま、言葉だけが妙に重かった。

「だからね。受かったからって、楽になるわけじゃない。あそこは――覚悟がないと、最後まで立っていられない場所だよ」

 笑い混じりではあるが、その言葉に冗談はなかった。
 小鈴は一度それを受け止めてから、静かに憂のほうへ視線を向ける。

「けれど……もし、憂さんが再来年、東大で受験なさるのでしたら」

 すっと背筋を正し、冗談めいた貴婦人の口調で微笑む。

「わたくしも、より一層、励む気持ちになれますわ」

 その声音とは裏腹に、瞳だけは、はっきりと本気だった。

 理恵は、その様子を横目で見てから、憂に視線を向ける。

「で、憂」

「……はい」

「ほんとうに、行きたいの?」

 飾り気のない、率直な問い。

 憂は、すぐには答えられなかった。

「……正直まだ、分かりません」

 東京。
 学問。
 離れる家族。
 逃げている気がする自分。

 どれも、まだ整理がついていない。

 小鈴と理恵は、顔を見合わせてから、同時に小さく笑った。

「それでいいんだよ」

 理恵が言う。

「やりたいことが見つかれば、進路なんて変わる。それが普通」

「ええ」

 小鈴も、静かにうなずく。

「今は迷えること自体が、誠実なのだと思いますわ」

 理恵は、腕を組み、少し考えてから付け加えた。

「それにさ。一人で抱え込まなくていいんだよ。うちの旦那に相談するのも、ありじゃない?」

 さらりとした提案。

「東大も、進路も、経験者の意見は、役に立つよ」

 憂は、少し驚きながらも、その言葉を胸に落とした。

「……ありがとうございます」

 まだ、答えは出ない。
 けれど。

 ここには、急かさず、決めつけず、考える時間をくれる大人がいる。

 憂は、その事実に、静かに救われていた。

 理恵は、ふっと微笑むと、立ち上がった。

「そうだ、憂。せっかくだし、車でうちの旦那の会社まで行ってみる?
 話を聞けば、いろいろ参考になると思うよ」

 穏やかな提案。けれど力強く、姉御のような包容力があった。

 憂は、理恵の提案に少しだけ戸惑ったように視線を落とした。

「……でも……お仕事の、お邪魔になったりしませんか……?」

 遠慮がちだが、本心だった。
 相手は社会の第一線で働く大人だ。自分の存在が負担にならないか、不安になる。

「大丈夫大丈夫。あの人、邪魔されるほど繊細じゃないから」

 そう言いながら、スマホを取り出し、さっと画面を操作する。

「ほら、今聞いてみるね」

 数秒後。
 理恵の表情が、微妙に引きつった。

「……あー……」

 画面をちらりと見て、ため息まじりに言う。

「午前中は会議続きで無理だってさ。でも――」

 指を滑らせ、届いた返信を読み上げる。

「『午後なら調整可能。ぜひお越しください。……できれば、理恵の顔も拝見したい』――って、ここまではまだいいんだけど」」

 理恵は一度そこで区切り、深いため息をつく。

「でも、問題はこの続き」

 さらに続く文面。

「『今朝も会いましたが、あれは出勤前の理恵でしたので。本来の嫁成分が不足しております』」

 憂が瞬きをする。

「『最近は声だけでも元気が出ます。画面越しでは物足りません。できれば直接――』……はいはい、終了」
 
 理恵は無言で画面を伏せた。

「……ね? 毎日会ってるのに、これだよ」

 もう一度スマホを持ち上げ、追撃のように届いた新着メッセージを見る。

「……あ、追伸きた」

「『憂さんがいらっしゃると伺い、理恵がどんな困った顔をするのかも含めて、非常に楽しみにしております』」

 小鈴が、さっと視線を逸らす。

「……お兄様、紳士の皮を被った、なかなかの変態ですわね」

小鈴の涼しい一言に、理恵は間髪入れずに切り返した。

「それ、ブーメラン。憂の話になると、急に距離感おかしくなるの、あんたも大概だからね?」

 理恵がさらっと言い切り、今度は憂の方を見る。

 小鈴はくるりと背筋を伸ばし、上品に咳払いをひとつ。

「――夜中に……憂さんに、あのようなお教えをなさった件、まさに寝耳に水の教育でございますわ。それを考えれば、今の発言など、可愛らしい小石にすぎませんことよ」

 貴婦人の口調は完璧だが、言葉の端々に小さな毒気がある。

「えっ、そんなふうに言われると……」

 憂は思わず目を瞬かせる。

 理恵は、にやりと笑って反撃する。

「はいはい、でもさ、あれは仕方ないじゃん。初体験の講義だし、やり方がちょっと特殊なだけで……何が悪いっていうの?」

 小鈴の瞳が一瞬きらりと光る。

「……特殊、ですって……? まったく、名家の嫁として、そんな破廉恥な行為を恥じることなく平然と振る舞うとは、まったく……」

 憂は思わず手を上げ、二人の間に入る。

「……あの、やめてください……恥ずかしすぎます……!」

 顔を赤くし、声を震わせながらも必死に制止する。

 理恵も小鈴も、一瞬手を止め、憂の顔を見返す。

「……そうですね、これ以上は……まずいことになりそうですわね」

 小鈴はわずかに肩を落とし、頬を赤く染めながら小さくうなずいた。

「理恵さん……それに、わたくしも少し反省いたしますわ」

 小鈴は静かに俯き、手を胸にあてて小さくため息。

「ふふ、そうだね。あたしも反省しま~す」

 室内に、微妙な沈黙が訪れる。
 誰もが一瞬、互いの顔を見合わせて、苦笑を浮かべた。

 「……まあ、いいか。とりあえず、紅茶でも淹れようか」

 理恵が、ふっと肩の力を抜いて立ち上がる。
 テーブルの上のティーセットに手を伸ばし、ポットを傾けて三人分のカップに注ぐ。
 香ばしいアールグレイの香りが、部屋にゆっくりと広がった。
 小鈴は、そっとカップを受け取り、両手で包むように持つ。

 「……ありがとうございますわ、理恵さん」

 一口、静かに啜る。
 熱い紅茶が喉を通るたび、さっきまでの毒気と熱が、少しずつ溶けていくようだった。
 憂も、カップを両手で持ち、ふうっと息を吐く。

 「……おいしい……」

 小さな声で呟くと、理恵がにやりと笑った。

 「憂の顔、ようやく普通に戻ってきたね」

 「理恵さん……!」

 憂はまた少し赤くなるが、今度は恥ずかしさの中に、ほんのり安心したような柔らかさがあった。
 小鈴も、もう一口紅茶を飲んでから、静かに背筋を伸ばす。

 「……ふう。やはり、紅茶は落ち着きますわね」

 貴婦人口調は変わらないが、声の端に、いつものような毒はもうほとんどない。
 三人とも、カップを口に運ぶ動作が、まるで暗黙の休戦の合図のようだった。
 紅茶の湯気が、部屋の空気を優しく包む。
 さっきまでのバチバチした空気は、香りとともにどこかへ溶けていった。
 理恵が、カップをテーブルに置いて、軽く息を吐く。

「で、どうする?午後なら時間は取れるみたいだけど」

 突然振られ、憂は一瞬だけ迷うように視線を揺らした。
 けれど、すぐに小さく息を吸い、はっきりと口を開く。

「……行きたい、です」

 思った以上に素直な声だった。

「直接、お話を聞けるなら……自分の進路のこと、ちゃんと考える材料にしたいです。ご迷惑でなければ……お願いします」

 理恵は、その表情を見て、少しだけ目を細める。

「うん。いい顔だね」

 軽く笑って、立ち上がる。

「休憩時間も終わりましたし、わたくしは――本日分の受験勉強に戻らせていただきますわ」  

 小鈴は、ぴん、と背筋を伸ばして、気品ある口調で答える。  

 少し残念そうに、しかし毅然とした態度で微笑む。

「憂さんのために体も動かしたい気持ちはございますけれど、学問の道をおろそかにはできませんもの」

 その一言には、貴婦人としての矜持と、日々積み重ねてきた自律が滲んでいた。

 理恵は、その様子を眺めて、軽く鼻で笑う。

「ふふ、さすが貴婦人。ちょっと変わり者なところもあるけど、そういう芯の強さはブレないね」

 小鈴は答えず、ただ一度、静かに頷いた。

 憂は二人のやり取りを見つめながら、胸の奥が少しずつ落ち着いていくのを感じていた。
 急かされることも、決めつけられることもない。
 選ぶ時間も、考える余地も、ちゃんとここにある。

 ――焦らなくていい。
 答えは、自分で見つければいい。

 そう思えたことが、何よりの救いだった。
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