沈黙のういザード 

豚さん

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30話 人と人をちなぐ架け橋

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 しばらくの沈黙のあと、憂は小さく息を整え、画面の向こうへ深く頭を下げた。

「……聞いてくださって、ありがとうございました」

 言葉は丁寧で、けれどどこか震えを含んでいる。
 泉はゆっくりと首を振り、穏やかに微笑んだ。

「こちらこそ……本当に、素晴らしい時間でした」

 胸のあたりに手を添え、感情を確かめるように続ける。

「曲も、とても美しかった。でも……それ以上にあなたの歌声が、忘れられません。胸に、まっすぐ届きました」

 泉は少しだけ首を傾げ、遠慮がちに尋ねる。

「よろしければ……お名前を教えていただけますか?」

 その一言に、憂の喉がきゅっと鳴った。
 答えは簡単なはずなのに、言葉がすぐには出てこない。

 憂は一度、視線を落とし、それからゆっくりと顔を上げた。

「……その前にどうしても、会ってほしい人がいます」

 泉は驚いたように目を瞬かせる。

「会ってほしい人……?」

 その瞬間だった。

 病室の扉が、控えめな音を立てて開く。

 看護師ではない。
 医師でもない。

 静かな足取りで入ってきたのは、一人の女性だった。

 落ち着いた佇まい。
 大人びた表情。
 腕には、丁寧に布で幾重にも包まれた細長い荷物を抱えている。

 まるで、美術館から運び出される肖像画のように。
 角を傷つけないよう、白い布と深い色の布が重ねられ、紐で静かに留められている。

 その女性――葉月は、病室の空気を壊さないように、ゆっくりと一歩踏み出した。

「……失礼します」

 落ち着いた声。
 どこか懐かしさを含んだ、柔らかな響き。

 泉の視線が、自然とその女性に引き寄せられる。

「まあ……」

 理由は分からない。
 名前も、関係も、思い出せない。

 けれど。

 胸の奥が、また小さく揺れた。

 葉月は一礼し、抱えていた荷物を大切そうに少し持ち上げる。

「今日は、これをお持ちしました。あなたに、見ていただきたくて」

 憂は、その横に立ち、静かに言った。

「この人が……もう一人、どうしても会ってほしかった人です」

 泉は、葉月と、布に包まれたその品を、交互に見つめる。
 記憶は何も語らないのに、心だけが先に反応していた。

「……不思議ですね。初めてお会いしたはずなのに……」

 泉は、そっと微笑む。

「とても、大切なものに触れる前のような気がします」

 病室の空気が、静かに、深く、変わっていった。

葉月は、泉の前までゆっくり歩み寄ると、抱えていた包みを胸に寄せたまま、柔らかく微笑んだ。

「泉さん――お誕生日、おめでとうございます」

 声は穏やかで、押しつけがましさがない。
 初対面の相手にも安心を与える、年上らしい響きだった。

 泉は少し驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに頷く。

「まあ……ありがとうございます」

 葉月は、包みを大切そうに抱え直し、続ける。

「これはですね……マリーさん。あたしの――とても大事なお友達から、託されたプレゼントなんです」

 そう言って、布に包まれた品に、そっと視線を落とす。

「今日という日に、ぜひ見てほしいって、よかったら……開けても、いいですか?」

 泉は、その包みと葉月の表情を交互に見つめる。
 理由は分からないのに、胸の奥が、また温かくなる。

「……ええ。ぜひ」

 泉は、少し照れたように微笑んだ。

「こんなに大切そうに運ばれてきたものなら……きっと、素敵なんでしょうね」

 葉月は、ほっとしたように小さく息をつき、静かに頷いた。

「ありがとうございます」

 葉月は、包みの結び目をほどき、重ねられた布を一枚ずつ外していった。
 最後の布が滑り落ちる。

 現れたのは、一枚のキャンバスだった。

 キャンバスの中の四人は、どこか柔らかな輪郭をしている。
 線は細く、角がなく、撫でるように何度も重ねられていた。

 色使いも穏やかで、強い影はどこにもない。
 まるで淡い光に包まれているかのような、静かな色調。

 そこに描かれているのは、幼い憂と葉月、そして雪乃。

 三人の表情は無邪気で、
 目元が少し大きく誇張されているのに、不思議と作為を感じさせない。
 笑顔は揃っていない。
 それでも、それぞれが確かに「安心している」顔だった。

 下段に描かれた母親は、声を上げて笑ってはいない。
 けれど、口元にはやさしい弧があり、
 三人を見守る視線には、確かな温度が宿っている。

 四人の距離は、とても近い。
 肩が触れ、指先が重なり、
 無意識のまま、互いを確かめ合うような距離。

 ――家族でいることが、当たり前だった時間。

 その空気ごと、このキャンバスの中に、そっと閉じ込められているようだった。

 病室は、しばらく言葉を失ったまま、その絵に見入っていた。

 葉月は包みを開き、中身がよく見える位置に置く。

「これは……泉さんの、昔のお写真をもとにして肖像画として描いてもらったものなんです」

 指先で絵の端を示しながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「とても大切にしていらした時期のお姿だと伺っていて……表情や雰囲気が、できるだけそのまま伝わるようにと」

 そして、絵の上部に描かれた小さな人物たちへ、視線を移す。

「それから……こちらの上のほうに描かれている子たちは、泉さんの娘さんたちです」

 声は静かで、説明は丁寧だった。

「年齢や雰囲気が分かるように、それぞれ少しずつ描き分けてくれているそうです。
 並び方も、泉さんから見て見守る位置になるようにと」

 葉月は、最後にそっと微笑む。

「ご家族への想いも一緒に残したい、というマリーさんの気持ちが込められているんです。……ゆっくりでいいので、じっくり見ていただけたら、うれしいです」

 泉は、しばらく言葉もなくその絵を眺めていた。
 視線は一点に定まらず、描かれた表情や線を、なぞるように行き来する。

「……不思議ですね」

 ぽつりと、独り言のようにこぼれる。

「初めて見るはずなのに……ずいぶん前から、知っている気がします」

 絵の中の自分――
 いや、自分だったはずの誰かを見つめながら、泉は小さく息を吐いた。

「この顔……この空気……」

 言葉を探すように、眉を寄せる。

「……名前が、出てこないのに」

 喉の奥で引っかかっている何かを、確かめるように。

「懐かしい、っていう気持ちだけが先に来るんです。思い出せないのに……ちゃんと、知っていた気がして」

 泉は、もう一度絵に目を向け、静かに微笑んだ。

「……変ですね。でも、悪くない」

 その言葉を聞いた瞬間、
 葉月の肩が、ほんのわずかに震えた。

 堪えていたものが、そこで切れたようだった。

 葉月は一歩前に出て、絵の前に立つ。
 指先で、そっとキャンバスの端に触れ――そのまま、目元を伏せる。

「……本当に……思い出せないんですね」

 声は穏やかなままだったが、
 頬を伝って、静かに涙が落ちた。

 葉月は、涙を拭わない。
 逃げるように笑いもしない。

 ただ、正直に言う。

「左の子は……さっき、歌ってくれた子です」

 泉の視線が、絵の左へと移る。

「それで……」

 少し息を吸ってから、葉月は続けた。

「……真ん中の子は、あたしです」

 声が、わずかに揺れる。

「あなたの娘です。ちゃんと、あなたに抱きしめられて……あなたの声を聞いて、育った子です」

 葉月は、絵の中の少女を見つめながら、微笑んだ。

「だから……思い出せなくても、いいんです」

 涙を浮かべたまま、まっすぐ泉を見る。

「こうして、懐かしいって思ってくれた。それだけで……十分なんです」

 病室には、言葉のない時間が落ちた。

 けれどそれは、悲しみだけの沈黙ではなかった。

 失われた記憶と、確かに残っている想いが、
 同じ場所に並んでいる――
 そんな、静かな感動の空気だった。

 泉は、突然こめかみに手を当てた。

 何かが――
 押し寄せるように、胸の奥でぶつかり合っている。

「……っ」

 呼吸が浅くなる。
 思い出そうとするたび、名前にならない感情だけが溢れてくる。

 その瞬間、葉月が一歩前に出た。

「逃げないで、お母ちゃん」

 声は震えていたが、目は逸らさない。

「今度は……一緒に、向き合いましょう」

 病室に、かすかな電子音が響く。
 ノートパソコンの向こうから、憂の声が流れた。

『……わたしも、ずっと逃げてばっかりで……ごめんね、お母さん』

 画面越しでも分かるほど、必死な表情。

『でも……お母さんも。怖くてもいいから、勇気を出して……前を向いてほしい』

 泉の指先が、わずかに震える。

 そして――
 ゆっくりと、何かを確かめるように、前へ伸びた。

 指が、空を指す。

「……憂」

 続いて、かすれた声で。

「……真ん中は……葉月……」

 その瞬間だった。

「……っ」

 憂の声が、堪えきれずに崩れた。

 画面の向こうで、憂は顔を覆い、泣き出す。

「……ずっと……待ってた……」

 葉月も、もう耐えられなかった。

「お母ちゃん……!」

 呼び慣れた呼び方が、嗚咽に混じる。

「思い出してくれたの……?あたしたちのこと……」

 泉は、二人を交互に見つめる。

 名前を呼んだ理由は、まだ説明できない。
 記憶は、完全には戻っていない。

 それでも――
 胸の奥に、確かに残っているものがあった。

 守りたいと思った感情。
 失くしたはずなのに、消えなかった温度。

 泉は、静かに息を吐いた。

 その目に浮かんだのは、初めて見るはずなのに、どこか「帰ってきた」ような安堵だった。

 泉の視線が、もう一度キャンバスへ戻った。

 四人の中で、最後まで指先が迷う。
 けれど――一番右の少女の前で、ぴたりと止まった。

 しばらく、何も言わない。
 ただ、その顔を見つめ続けている。

 やがて、かすかな息とともに。

「……雪乃」

 その名前を口にした瞬間、
 泉の目から、堪えていたものが零れ落ちた。

「……ごめんなさい……」

 声が震える。

「こんなに……大切な人たちを……忘れてしまって……」

 言葉は続かず、泉は静かに首を垂れた。
 涙が、絵の前に落ちる。

 葉月の目にも、同じものが溢れていた。

「……もう……」

 喉を詰まらせながら、それでも笑おうとする。

「いいんだよ……お母ちゃん」

 その呼び方に、泉の肩が小さく揺れる。

 続いて、ノートパソコンの向こうから、泣き声混じりの声が届いた。

『……いいんだよ、お母さん……』

 憂だった。

『思い出すの、すごく怖かったよね。でも……名前、呼んでくれた』

 画面の向こうで、憂は涙を拭いながら、はっきりと言う。

『それだけで……もう、十分だから』

 泉は、ゆっくりと顔を上げた。

 涙で滲んだ視界の中に、絵と、葉月と、画面の向こうの憂が重なる。

「……ありがとう……」

 それは、母としてでも、過去を取り戻した人としてでもなく――

 今ここにいる、一人の人間としての言葉だった。

 キャンバスの中の四人は、何も変わらず、穏やかに微笑んでいる。

 けれど、その空気は確かに、今の病室と、同じ温度になっていた。

 ――家族でいることが、また始まる。

 そう、誰もが感じていた。
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