忘れたふりの隣で ~マリーがいた季節~  ※番外編のみR18

豚さん

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2章 思い出せない朝食

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朝の光がカーテンの隙間から差し込み、
木の床をやわらかく照らしていた。

春の風が少し冷たくて、
湯気の立つ紅茶の香りが部屋に広がる。

昨日の夜、マリーはあの青いペンダントを胸元にかけたまま、
客間の布団に身を沈めて眠った。

その姿がどこか幼く見えて、俺は妙に胸が痛んだ。

彼女は記憶を失っていると言った。
けれど、話す仕草も、言葉の間の呼吸も、
どこか「日本に慣れている人」のようだった。

目を覚ますと、キッチンから包丁の音がした。
こんがり焼けた匂い――だし巻き卵の匂い。

「……マリーさん?」

リビングへ出ると、エプロン姿のマリーが振り返った。
白いブラウスの袖をまくり、髪を後ろで束ねている。
フライパンの上で、卵がふわりと転がった。

「あ……おはようございます、優さん」

「これ……作ったの?」

「はい。でも、どうしてか自分でも不思議で……気づいたら、手が動いていたんです」

そう言って、少しだけ首を傾げる。

テーブルの上には味噌汁、焼き魚、だし巻き卵、そして小さな梅干し。
それはまるで、昔から日本の朝を知っている人の手料理のようだった。

「すごいね。味、見てみた?」

「味見をした瞬間、胸の奥が少し痛くなりました。――なぜか“懐かしい”と感じて」

マリーは箸を指先で扱いながら、ふとつぶやく。

「C’est étrange…(不思議……)」

その声は、どこか切なく響いた。
俺は彼女の横顔を見つめた。

青い瞳の奥で、なにかを思い出そうとするようにまばたきをしていた。

朝食を終えたあと、俺は机の上に置かれた弁当箱に気づいた。

彼女が包んだらしい、丁寧な折り畳みの布。
中を開けると、紅茶の香りをまとわせたサンドイッチ。

「お弁当……作ってくれたの?」

「はい。あなたが出かけると聞いたので」

「いや、別に……そんなつもりじゃ……」

「わたし、何かしていないと、不安なんです」

マリーは、テーブルの縁に指をそっと置いた。
その手が、かすかに震えているのがわかった。

「ありがとう。……でも、無理はしないでね」

「無理、じゃないと思うんです。……こうしていると、誰かのことを思い出せそうで」

俺は言葉を失った。

紅茶の香りが、再び部屋に漂った。

アールグレイ――。

どこかで、この香りに包まれた記憶がある気がした。
でも、思い出そうとするたびに、頭の奥が痛む。

「大丈夫ですか?」

マリーの声が、少し焦ったように聞こえた。

「うん……ちょっと、立ちくらみかな」

「紅茶、淹れましょうか?」

「ありがとう。でも、もう少しこのままで」

窓の外で風がカーテンを揺らす。
マリーの髪がその風に揺れ、陽光を反射して柔らかく光った。

まるで春そのもののような色。


「……マリーさん」

「はい?」

「この香り、好き?」

「ええ。フランスでも、よく飲んでいました。アールグレイ。……でも、どうして好きだったのかまでは、思い出せません」

少し笑って、彼女はティーカップを両手で包み込んだ。

その指先がかすかに震え、けれどその笑顔は穏やかだった。
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