カゼノセカイ

辛妖花

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2話

司の居たセカイ

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  雨の降りしきる朝、目を覚ました陽子はとても後悔していた。真奈美らしき人影が言った「騙されちゃダメ」と言う言葉を思い出して、頭を抱え苦悩する。
  3人で住み始めたアパートの寝室のベッドから出て、リビングに行く。そこのソファーに痣だらけの司が倒れる様に眠っている。今朝早く、夫は出張に行った。1週間は帰って来ない。
  3ヶ月間の幸せな日々は泡と消え、待っていたのは過酷な現実だった。
  陽子はもうずっと考えていたが、何故新しい夫の機嫌を損ねたのか分からなかった。アルコールも取らない真面目な人だったから安心していたが、この人も自分の言う事を聞かないと、暴力を振るう人だった。しかも、外面が物凄く良く、頭も良かったので、陽子が助けを求めても信じてもらえなかった。
  もうどうしていいか分からず、眠り続ける司の頭を撫で、涙を流した。

「母さんのせいで、ごめんね···」

  今の夫は陽子への執着が酷く、相手を管理をしようとするタイプの人間だった。それから外れると罵声と暴力を振るう。頬を平手打ちするだけだが、手加減無しの力任せなので、吹っ飛ばされたり気絶したりしていた。その後は決まって、我に返り駆け寄り抱きしめ謝罪をする。初めの頃はそれを信じたが、もう今はとても信じられない。司にまで暴力を振るい、陽子に泣き付き謝罪をするなんて。
  今も何故自分はベッドで、司がソファーで眠っているのか思い出せなかった。最近は頻繁に記憶が無い事が増えている。そのせいもあり、夫の口の上手さも相まって、周りには精神病扱いを受けて、誰も陽子の話しをまともに聞いてくれ無くなっていた。

  孤独と絶望でいつも死にたいと願っていた。

  しかし、目の前の司には自分しか守れる人は居ないと思い、ギリギリの所で踏ん張っていた。

  真奈美のアルバムを見る事が増えていた。

  司が目を覚ますと、母親の陽子は目の前で座り込み、うつむき泣いていた。びっくりしたが、それよりも心配になり肩をぎゅっと抱きしめる。

「大丈夫だよ。僕が居るから」

  そう言われた陽子はさらに涙を流し、声を上げ泣いた。守っているつもりが、実は守られていたのだと感じた。真奈美の事を思い出す。あの子もそうだったのだろうか。

「ありがとう。今日は休みだし、お父さんも居ないから、どこか出かけようか?」
「本当!じゃあバラ園と、昆虫博物館に行きたい!あそこのふわふわパンケーキ食べよう!」
「良いね!母さんもそれ好き」

  2人とも笑顔になった。司は気を使い、陽子の好きな物を選んだ。陽子も気付いていた。

  陽子の運転する車で出かける2人。つい最近まであった幸せな日々が戻って来たようだった。
  1週間、楽しい日々はあっという間に過ぎて行く。

  それからは、努めて夫の言う事に従う日々が続く陽子。そうすれば夫は暴力を振るわず、優しくさえあった。司もそれを察したのか、父親に話しかける事を止めた。
  陽子は少し安堵していた。このまま平穏に暮らして行けると思っていたからだ。

  そんな時の出来事だった。夜10時過ぎ、司は部屋で眠り、夫は風呂に入っていてリビングには陽子1人。なんとなくテレビを見ていた。遅く帰って来た夫のご飯の後の片付けの為に時間を潰す。ニュースが読まれる。

「近頃、虐待をして逮捕された容疑者が連続して謎の死を遂げる事件が起きています。どの容疑者も逮捕直後か拘留中でしたが、未だ犯人の特定が」

  虐待と聞いて思わずテレビのチャンネルを変える陽子。スイーツ特集の番組が流れた。何か身震いする様な言い知れぬ恐怖が襲う。ただ、夫はまだ風呂で、シャワーを浴びている音が聞こえる。
  不意にカタン、とリビング横の寝室から物音が聞こえる。陽子の心臓の鼓動が早くなる。誰も居ないはずのそのドアが、ギィィっと普段しない音を立てて10センチほど開いた。
  陽子は思わずソファーから立ち上がり後ずさりする。脂汗が出る。息を飲む。すると、寝室の奥の暗闇からすーっと人影が近づき、ドアの隙間からこちらを覗いてきた。陽子は思わず悲鳴を上げそうになる。その時、

  「騙されちゃ···ダメ」

  小さくか細い声が聞こえた。以前も聞いた聞き覚えのある声。やはり真奈美の声だ。恐ろしさは薄れ、思わず声をかけていた。

「真奈美?真奈美なの!?」

  しかし、その問いかけに答えぬまま、瞬きの合間に消えてしまう。一体何だったのか。本当にあれが真奈美なのだろうか。陽子は本当に自分は精神病になってしまったかも知れない、とも思った。
  その時、夫が風呂から上がって来た。ソファーの前で寝室の少し開いた所を見て、立ち尽くしている陽子に不思議そうに夫が声をかける。

「どうした?中途半端にドアを開けっ放しにして」

  困惑していた陽子は、少し苛立っている夫に気付かず、誤魔化そうと無意識に答えてしまう。

「いえ···、何か黒いものが居たような気がして···」

  言い終える頃にハッと何かに気づき夫を見るが、時すでに遅く、見る見る鬼の形相に変わっていった。

「何だと!お前掃除もまともに出来ないのか!!」

  ゴキブリが出たと勘違いした夫は豹変。陽子が必死に釈明しようとするが聞く耳持たず、とうとうまた頬を平手打ちされてしまった。ソファーから窓まで吹き飛び、窓に強くぶつかる。鈍い音がした。その場にくずおれる。
  窓ガラスが割れなくて良かった等と現実逃避をして、茫然自失の陽子を突然、駆け寄り強く抱きしめる夫。泣きながら謝罪を延々と続けた。その目に涙が流れる事は無かった。

  それから陽子は本当に精神を蝕まれていく。体調も悪くなり、病院に通う様になってしまった。洗脳の様な状態で、自分でも夫の呪縛から逃れられなくなっていた。
  唯一の暴力のストッパーが居なくなり、残された司がその餌食となる。

  あれから1年、陽子は入退院を繰り返していた。それでも司を守ろうと必死に夫の要望を叶えていた。誰かに相談しようとは考えが及ばなかった。もう、限界はとうに超えていた。

  毎日暴力を振るわれる訳では無かったが、いつ機嫌を損ねるかとビクビクする日々だった司。それは母親の陽子も同じだった。
  そんな日が続く中、小学校5年生になっていた司は周りの異変を感じていた。

「司、なんで昨日来なかったの?」

「司!貸した本早く返してよ!」

「司君!宿題はどうしたの?」

「司!何回教科書忘れるんだよ」

「司、もう何回同じ話しするの?」

  司には身に覚えの無い事ばかりだった。どうしてこんな事になってしまったのだろう。司には分からなかった。思い当たると言えば、クラスメイトの男の子が、上靴をゴミ箱に捨てられていたり、教室で授業中に手紙が回され、男の子を無視する様にと書かれていりした事を助けようとした事くらいだ。

  陽子はその司の異変を感じていた。夫に殴られる度に、1つづつ忘れていく様だった。それは最近の出来事に留まらず、ずっと覚えていた事まで忘れてしまう様になっていった。

  そのせいもあり、司は学校で虐められる様になってしまった。
  父親の暴力も日に日に増えていく。
  そして、クラスでのいじめも暴力へと変わる。司の家庭事情を知らない担任は、自分の保身に走り、司を無視する様になっていた。抵抗する気も失せる司。

  司は全てに絶望していた。

  陽子は司の目から光が失われていくのが悲しかった。無力な自分を嘆き、悔しさでいっぱいだった。今、自分は司に何が出来るのかと考えあぐねていた。


  そんなある休日。いつもの様に、朝早くどこかへ出かけていく父親。疲れ切った顔に微笑を浮かべ、司にゆっくり近づいた陽子は、優しく抱きしめた。その耳元で囁く。

「辛い思いさせてごめんね···。本当にごめんね···謝る事しか出来な···」

  言い終わる前に泣き出してしまう陽子。表情が薄くなった司は顔色を変えず、陽子を強く抱きしめ返した。そして陽子を両手で離し、顔を見て司は言った。

「オムライスが食べたい」

  司の思いもよらない言葉に驚き、陽子は思わず司の両の眼を交互に覗き込んだ。その目に光が戻った気がして嬉しくなり、頬が緩む。

「分かったすぐ作るね!」

  そう言って、慌てて台所に行き冷蔵庫を確認する。しかし、食材がほとんど無かった。陽子は、せっかく司にしてやれる事を見つけたのに、諦める訳にはいかないと思った。踵を返し、司に向き直る。

「食材買いに、ちょっとそこのスーパーまで買いに行ってくるから、待っててね司!すぐ戻って来るから!」
「うん。気をつけてね」

  朝を過ぎた昼前の陽の光を浴び、司の笑顔が輝いて見えた。
  陽子は急いで車を走らせた。


  父親が突然、昼に家に帰って来た。母親の陽子はまだ帰って来ていない。
  唐突な罵声と暴力に、もう体は耐えられなかった。

「お···父さん、ゆ···許して···」

  涙が溢れて止まらなくなった。「死にたくない!」それは言葉にはならなかった。

  動かなくなった事にようやく気付き、血相を変え、慌てて出て行く父親。と、開け放たれたドアから、すれ違いで慌てて駆け寄る陽子。

「司!!つかさー!!返事してーー!!」

  呼びかけながら、携帯電話で助けを求める。

  陽子の叫びも虚しく、開いたままの司の目にはもう何も映らなかった。遠くで救急車の音が聞こえてくるが、司はそのまま息を引き取った。



  陽子は、母子シェルターがある事を後で知った。誰も教えてはくれなかった。誰も手を差し伸べてはくれなかった。自分から調べる方法も分からなかった。自分を守れるのは自分だけだったのに、それすら忘れていた。そのせいで、司は死んだのだ。陽子はそう自分を責め続けた。

  それをずっと見つめる真奈美の影が、陽子の手に重なる。

  涙の海に溺れた陽子の目には、それは見えなかったが、司は小学校5年生だった事に気づき、真奈美の事も思い出していた。悔しさと無念さで息も詰まる程泣き崩れる陽子だった。
  


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