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第一章 風子と小さなご褒美
豆の木
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ユン君と連絡が途絶えた一週間後。
私はゴールデンウィークの熱気が収まった和歌山県白浜を訪れていた。
ここ一年ほど、最も惚れこんでいるカフェが白浜にあるからだ。
私の最推しカフェ「豆の木」は白浜最大の観光地である白良浜から徒歩10分。やや入り組んだ街並みの奥にひっそりとある一軒家の店だ。
栗皮色の壁面が渋い昭和二階建て建築に迎えられ、落ち着いた雰囲気の店内ではフィンランド産の椅子やソファが待ち構えている。
デザイン性豊かな色とりどりの椅子に身体を預け、焙煎したてのコーヒー豆の香りが満ちる贅沢な空間でランチタイムを過ごすのは私の至福だ。
私が住む和歌山市から白浜までは、特急電車に乗って二時間かかる。
同じ県内だと言っても小旅行くらいの距離があり、交通費は往復5000円弱。
安くはない。だがそれでも私は、白浜町に毎週、通い詰めていた。それに毎朝駅前のお洒落なコーヒー店で一杯のカプチーノも欠かせない。
カフェ代は月にざっと4万円はいくだろう。
この積み重ねで、リボ払いの借金が少しずつかさんでいた。友だちにはカフェ依存ではないかと笑われたこともある。
でも必要経費なのだ。
だってカフェ代は毎日懸命に働く私への「ご褒美」。
世の中のみんなが日々小さなご褒美で、自分を奮い立たせているはずだ。
それに、私はいつか自分のカフェを持ちたいという夢だってある。そのためにカフェに通うのは勉強代のような側面もある。
「風子ちゃん、遠くから来てくれるのは嬉しいけど。お金もかかるだろうから無理しないでね」
豆の木の店主、紗理奈さんは私によくそう声をかけてくれていた。でも私はいつも笑って首を振るのだ。
「お金がなくても、カフェで過ごす時間みたいなご褒美がないと、私は幸せになれないです」
私の返答を聞いた紗理奈さんは、ふっくりしたほっぺたを少し傾げて困ったように微笑む。
「お金がないなら、お金がないなりに幸せに暮らしたらいいと思うわよ?」
紗理奈さんはカフェに通い詰める私を見て、よくそう言った。
私は紗理奈さんの声を思い出しながら、豆の木で特にお気に入りの青い椅子に体重を預けていた。怒涛の一週間を生き抜いた私へのご褒美に浸る。
「ああ……美味しい」
胡桃の木のカウンター席で、食後にスペシャリティコーヒーを飲んで深い息をつく。どんなに追い詰められた状況でも、この一時だけは楽になれる。
これがカフェの魅力であり、抜けられない沼だ。
ランチの騒がしさが落ち着き、店内から客がどんどん引いて行った。もう店に残っているのはカウンター席にいる私と、もう一人男性だけだ。
彼はカウンター席の端っこで、コーヒー片手にずっと文庫本の字を追っている。私が来るときによく見かける常連さんだ。
「風子ちゃん、なんだか顔色が悪いように思うけど何かあったの?」
カウンターの向こう側から店主の紗理奈さんが話しかけてくれた。ぽちゃっとした紗理奈さんの包容力あふれる声に労わってもらって、ふと力が抜けた。私は喉に堰き止めていたものをつい口にしてしまう。
「実は……彼氏に詐欺られたみたいで」
「え?!」
紗理奈さんはカウンターを乗り越えそうなほど、上半身を乗り出した。私はユン君とさよならした後に何があったか、ぽろぽろ涙をこぼしながら語った。
「リボ払いで借りたお金を、詐欺られて……がんばって働かなくちゃって思ってたら職場のカフェが突然閉店するって……!」
「あ、あのお店……大変そうだったものね……」
飲食の同業者である紗理奈さんは私の職場、和歌山市のグルテンフリーカフェのことも知っていた。グルテンフリーは小麦粉を使わないという意味だ。健康志向の人に人気がある考え方で、私も大学時代に特にハマっていた。
草を食べているみたいなヘルシー食ではなく、しっかり味でかつ健康的を貫いたグルテンフリーカフェに心底惚れ込んだ。私はそのカフェで働くために、地元に帰らなかった。
カフェオーナーは私の情熱を買ってくれて、雇って可愛がってくれた。けれどグルテンフリーカフェは食材にこだわり抜くがゆえに、経営はずっと苦しかった。
ユン君とお別れした翌日の勤務で、カフェ閉店を告げられ即日解雇になった。紗理奈さんが呆気に取られた顔をする。
「そんなに急に辞めさせるのは法律上、問題があるわよ?」
紗理奈さんは他のスタッフさんにもう上がってねと言ってから、カウンター奥から出てきて私の隣に座ってくれた。スタッフさんは挨拶をしてすぐに帰って行った。
店に残ったのは私と、紗理奈さん、そして文庫本を読む彼だけ。
仕事の邪魔をして申し訳ない想いでいっぱいなのだが、私の背を撫でる紗理奈さんのふっくらした厚みのある手に涙の速度は増すばかりだ。
スマホでAIに聞いてみたところ、紗理奈さんの言う通り、解雇は一ヶ月以上前に勧告すべきだと法律上定められている。
文庫本を手にする男性の視線が、紗理奈さんを越えて私に刺さっていた。けれど、紗理奈さんに事情を語る私の口は止まらない。吐き出すところが欲しくてしかたなかったのだ。
「でも、オーナーは泣きながら謝ってくれたんです……私、今までたくさんお世話になってきたので、最後に言い争いなんてしたくなくて……」
紗理奈さんは大ため息をつきながら、私の背を撫で続けてくれる。
グルテンフリーカフェでの仕事は無償で残業なんてあたり前。でも、経営の苦しさの勉強になった。それにオーナーは奢りで飲みに連れて行ってくれる人情のある人だった。
だから、自分にご褒美をしながら、私は何とか踏ん張って働いてきた。
「ユン君に騙されたのは悲しいけど、かまってくれた時間のお礼だと思えば諦められます。オーナーにも今まで世話になった恩返しだと思えば、ちっとも恨みなんかないです」
紗理奈さんはますますため息をついた。甘いよと言いたげな太い息だ。
「風子ちゃん……良い子すぎるわ」
「良い子なんかじゃなくて……現実を見ないようにして美化してるって言われたらそうなんだろうなって、わかってるんです」
私は深く息をついて、心の奥の塊を紗理奈さんに見せた。
「でも私、ユン君もオーナーも本当に、好きだったんで……怒ったり恨んだりして終わるのが、どうしても嫌で……」
声が震えてしまい、またぽろっと涙が頬を伝った。
「でも風子ちゃん、もっとちゃんと、怒らなくちゃダメよ」
顔をぎゅぎゅっとしかめて痛そうな顔をする紗理奈さんの向こうから、突然、凛とした声が飛んで来た。
「紗理奈、あかん。叱る相手を間違ってるわ」
私はゴールデンウィークの熱気が収まった和歌山県白浜を訪れていた。
ここ一年ほど、最も惚れこんでいるカフェが白浜にあるからだ。
私の最推しカフェ「豆の木」は白浜最大の観光地である白良浜から徒歩10分。やや入り組んだ街並みの奥にひっそりとある一軒家の店だ。
栗皮色の壁面が渋い昭和二階建て建築に迎えられ、落ち着いた雰囲気の店内ではフィンランド産の椅子やソファが待ち構えている。
デザイン性豊かな色とりどりの椅子に身体を預け、焙煎したてのコーヒー豆の香りが満ちる贅沢な空間でランチタイムを過ごすのは私の至福だ。
私が住む和歌山市から白浜までは、特急電車に乗って二時間かかる。
同じ県内だと言っても小旅行くらいの距離があり、交通費は往復5000円弱。
安くはない。だがそれでも私は、白浜町に毎週、通い詰めていた。それに毎朝駅前のお洒落なコーヒー店で一杯のカプチーノも欠かせない。
カフェ代は月にざっと4万円はいくだろう。
この積み重ねで、リボ払いの借金が少しずつかさんでいた。友だちにはカフェ依存ではないかと笑われたこともある。
でも必要経費なのだ。
だってカフェ代は毎日懸命に働く私への「ご褒美」。
世の中のみんなが日々小さなご褒美で、自分を奮い立たせているはずだ。
それに、私はいつか自分のカフェを持ちたいという夢だってある。そのためにカフェに通うのは勉強代のような側面もある。
「風子ちゃん、遠くから来てくれるのは嬉しいけど。お金もかかるだろうから無理しないでね」
豆の木の店主、紗理奈さんは私によくそう声をかけてくれていた。でも私はいつも笑って首を振るのだ。
「お金がなくても、カフェで過ごす時間みたいなご褒美がないと、私は幸せになれないです」
私の返答を聞いた紗理奈さんは、ふっくりしたほっぺたを少し傾げて困ったように微笑む。
「お金がないなら、お金がないなりに幸せに暮らしたらいいと思うわよ?」
紗理奈さんはカフェに通い詰める私を見て、よくそう言った。
私は紗理奈さんの声を思い出しながら、豆の木で特にお気に入りの青い椅子に体重を預けていた。怒涛の一週間を生き抜いた私へのご褒美に浸る。
「ああ……美味しい」
胡桃の木のカウンター席で、食後にスペシャリティコーヒーを飲んで深い息をつく。どんなに追い詰められた状況でも、この一時だけは楽になれる。
これがカフェの魅力であり、抜けられない沼だ。
ランチの騒がしさが落ち着き、店内から客がどんどん引いて行った。もう店に残っているのはカウンター席にいる私と、もう一人男性だけだ。
彼はカウンター席の端っこで、コーヒー片手にずっと文庫本の字を追っている。私が来るときによく見かける常連さんだ。
「風子ちゃん、なんだか顔色が悪いように思うけど何かあったの?」
カウンターの向こう側から店主の紗理奈さんが話しかけてくれた。ぽちゃっとした紗理奈さんの包容力あふれる声に労わってもらって、ふと力が抜けた。私は喉に堰き止めていたものをつい口にしてしまう。
「実は……彼氏に詐欺られたみたいで」
「え?!」
紗理奈さんはカウンターを乗り越えそうなほど、上半身を乗り出した。私はユン君とさよならした後に何があったか、ぽろぽろ涙をこぼしながら語った。
「リボ払いで借りたお金を、詐欺られて……がんばって働かなくちゃって思ってたら職場のカフェが突然閉店するって……!」
「あ、あのお店……大変そうだったものね……」
飲食の同業者である紗理奈さんは私の職場、和歌山市のグルテンフリーカフェのことも知っていた。グルテンフリーは小麦粉を使わないという意味だ。健康志向の人に人気がある考え方で、私も大学時代に特にハマっていた。
草を食べているみたいなヘルシー食ではなく、しっかり味でかつ健康的を貫いたグルテンフリーカフェに心底惚れ込んだ。私はそのカフェで働くために、地元に帰らなかった。
カフェオーナーは私の情熱を買ってくれて、雇って可愛がってくれた。けれどグルテンフリーカフェは食材にこだわり抜くがゆえに、経営はずっと苦しかった。
ユン君とお別れした翌日の勤務で、カフェ閉店を告げられ即日解雇になった。紗理奈さんが呆気に取られた顔をする。
「そんなに急に辞めさせるのは法律上、問題があるわよ?」
紗理奈さんは他のスタッフさんにもう上がってねと言ってから、カウンター奥から出てきて私の隣に座ってくれた。スタッフさんは挨拶をしてすぐに帰って行った。
店に残ったのは私と、紗理奈さん、そして文庫本を読む彼だけ。
仕事の邪魔をして申し訳ない想いでいっぱいなのだが、私の背を撫でる紗理奈さんのふっくらした厚みのある手に涙の速度は増すばかりだ。
スマホでAIに聞いてみたところ、紗理奈さんの言う通り、解雇は一ヶ月以上前に勧告すべきだと法律上定められている。
文庫本を手にする男性の視線が、紗理奈さんを越えて私に刺さっていた。けれど、紗理奈さんに事情を語る私の口は止まらない。吐き出すところが欲しくてしかたなかったのだ。
「でも、オーナーは泣きながら謝ってくれたんです……私、今までたくさんお世話になってきたので、最後に言い争いなんてしたくなくて……」
紗理奈さんは大ため息をつきながら、私の背を撫で続けてくれる。
グルテンフリーカフェでの仕事は無償で残業なんてあたり前。でも、経営の苦しさの勉強になった。それにオーナーは奢りで飲みに連れて行ってくれる人情のある人だった。
だから、自分にご褒美をしながら、私は何とか踏ん張って働いてきた。
「ユン君に騙されたのは悲しいけど、かまってくれた時間のお礼だと思えば諦められます。オーナーにも今まで世話になった恩返しだと思えば、ちっとも恨みなんかないです」
紗理奈さんはますますため息をついた。甘いよと言いたげな太い息だ。
「風子ちゃん……良い子すぎるわ」
「良い子なんかじゃなくて……現実を見ないようにして美化してるって言われたらそうなんだろうなって、わかってるんです」
私は深く息をついて、心の奥の塊を紗理奈さんに見せた。
「でも私、ユン君もオーナーも本当に、好きだったんで……怒ったり恨んだりして終わるのが、どうしても嫌で……」
声が震えてしまい、またぽろっと涙が頬を伝った。
「でも風子ちゃん、もっとちゃんと、怒らなくちゃダメよ」
顔をぎゅぎゅっとしかめて痛そうな顔をする紗理奈さんの向こうから、突然、凛とした声が飛んで来た。
「紗理奈、あかん。叱る相手を間違ってるわ」
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