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第一章 風子と小さなご褒美
宗一郎さん
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「紗理奈、あかん。叱る相手を間違ってるわ」
紗理奈さんがぱっと振り返る。文庫本を読んでいた男性は、すっかり本を閉じて私たちの方に身体を向けて座っていた。同じカウンター席で話しているのだ。話は筒抜けだっただろう。
紗理奈さんの声がぽとりと落ちた。
「宗ちゃん……」
すっと背筋が伸びてしゃんとした彼は、三十代くらいに思う。爽やかで品の良いポロシャツが白くて眩しい彼は、きっぱりと通る声で言った。
「誠実じゃない振る舞いをした方が悪いに決まってるやろ。何でええ子にしてたその子が『もっと怒れ』なんて責められんねん」
紗理奈さんを諭すような彼の口調には、ピンとした圧がある。
「その子は裏切られてるのに、それでも好きやったって、そいつらのええとこを必死で見ようとしてんやで?」
迷いのない声に、一瞬で惹きつけられた。
「その子の持ってる優しい想いは人間的に褒められるべきで、美しいところやろ」
私の甘さではなく、私の価値そのものを丸ごと見てくれたかのような言葉に、うっと涙がこみ上げた。見知らぬ彼の真っ直ぐな意見に、紗理奈さんが頷く。
「……そっか、そうだよね」
紗理奈さんが私の背に、改めて手を添えてくれる。
「風子ちゃんごめんね、宗ちゃんが正しい。私、もっと怒らないとなんて……押し付けたこと言っちゃった」
私はぶんぶんと首を振った。紗理奈さんは何も悪くない。ごめんねなんて言わせて、私の方が申し訳ない。
「風子、やな」
彼は武士みたいにきりりとした顔で、私に名前を確認する。そして私に澄んだ声を向けた。
「話を横から聞いただけやけど。詐欺は言語道断として、俺はカフェオーナーが悪い人には思わんで」
私はきょとんとしながらも、彼の話に集中した。
「金がなくなったときに本性が出る、なんて世間では言うけどな。俺は違うと思う。金がないってのは、生命の危機や。生き残ろうとしてはみ出したことするのは、理屈として理解できる」
悪いことしてええって言うてるんちゃうでと彼は付け足した。彼の言葉に紗理奈さんが頷く。
「そう言われたらそうね。普段暴力を振るわない人だって、ピンチなら戦うもの」
「そうや。だから余裕がある時の振る舞いこそ、その人間の本性やと思うんや。風子が好きやったオーナーとの時間こそが、オーナーの本性とちゃうか」
目の前の靄を切り裂くように明解な彼の理論を聞いて、私の胸がすーっと晴れ渡った。
このままではオーナーと笑い合った仕事の時間が全部、汚れたものになってしまいそうだった。でもオーナーとの思い出を信じてもいいと言われた気がした。
オーナーは悪人ではなく、ちょっと脆い人だっただけ。
そう思うと、気持ちが軽くなって、オーナーとの時間に優しい色が戻ってきた。
「そんな風に言ってもらって、ありがとうございます」
やっと少し笑えた私に、彼は何にもしてへんよと短く答えた。紗理奈さんが彼を改めて紹介してくれた。
「風子ちゃん、紹介が遅れてごめんね。彼は神木宗一郎さん。変わったメゾンを運営していて……なんて言うか、私の恩人よ」
「あれ、旦那さんではないんですか?」
紗理奈さんは結婚していると聞いていた。私の疑問に紗理奈さんは大笑いした。
「宗ちゃんが夫だったら、私はストレスで倒れちゃうわ」
「いらんこと言わんでええねん。私にはもったいないって言うとき」
「いい言い方ね、そうするわ。大変もったいないでーす」
二人は何でもないように言い合い、元は知り合いの知り合いだと語った。
そんな話の中、宗一郎さんの鷹みたいな目が私を真正面に見据えていた。全部見透かされてしまいそうな目の強さがある。
恩人という関係についてもっと聞きたかったのだが、宗一郎さんが先に口を開いた。
「今までの話聞いた俺の予想やけど、もしかして風子……金に困ってんちゃうか」
ド直球の鋭い指摘に、どきんと胸が跳ねた。
「ど、どうしてそう思うんですか?」
「詐欺に解雇、ええ子やからこそ脇の甘さがある。風子が今の状況を乗り切れるほど貯金持ってそうには見えへんわ」
どくどくする心臓を射抜くように、宗一郎さんの的確な分析が刺さった。図星を突かれた私はこくりと頷いた。
私の隣で紗理奈さんが身を固くする。私は息を整えて明かした。
「実は今月、家賃が払えそうにないんです」
詐欺より解雇より、私を追いつめるのは生活費だ。
紗理奈さんが大きくのけぞって口に手を当て、驚きを抑え込んでいる。
「今月働いた分の給料は払うけど、ちょっと待って欲しいってオーナーに言われて。貯金なんてあるはずもなく……今月の生活費とリボ払いの返済を、またリボ払いで借りようかなって思ったんですけど……」
紗理奈さんの顔色がみるみる青くなっていく。私の声が私の声ではないみたいに細く震えた。
「そうやってリボで借りて、リボを返すサイクルが始まるのかと思うと、60万円の借金が急に怖くなっちゃって……!」
今まで平気だったのに、仕事を失った瞬間にリボ払いの現実が急に私の中に立ち上がった。ユン君のことも、解雇のことも、もう終わったことは仕方ない。
けれど、目の前の膨らんでいく借金のことを考えると眠れなくなった。
紗理奈さんが私の両肩を掴み、必死の形相で私に迫る。
「風子ちゃんダメダメ!もうそれ以上借りちゃだめ!リボで借りてリボを返すのはリボ地獄だからね!?」
店に紗理奈さんの声が響いた。
魔法の錬金術だと思っていたリボ払いの正体を、私はここまで落ちてやっと、知ったのだ。
リボ払いは複利で利子が増え続け、毎月少額返済するだけでは元金が全く減らないという恐ろしい泥沼の制度だった。
「でも私、お金を借りないと……どうにもならなくて」
紗理奈さんは私にぐいぐい身体を傾けながら、親身になってくれる。
「実家に帰るのはどう?」
「実家とはその……今、連絡を取ってなくて」
紗理奈さんの表情がまた曇る。一つずつ話すごとに、私は自分がどんなに考えなしで生きてきたのかをまざまざと思い知らされる。
順調に回っているうちは何も感じない。だが、いざ歯車が一つ狂うと、一気に崩れる。
私はそういう危うい暮らし方をしていたのだ。
紗理奈さんは隣でどうしようと言いながら顔を覆ってしまった。すると、黙って話を聞いていた宗一郎さんがさらりと一言放った。
「風子、俺のうちに来るか?」
あまりに驚いてぽかんと口が開いてしまった。
紗理奈さんがぱっと振り返る。文庫本を読んでいた男性は、すっかり本を閉じて私たちの方に身体を向けて座っていた。同じカウンター席で話しているのだ。話は筒抜けだっただろう。
紗理奈さんの声がぽとりと落ちた。
「宗ちゃん……」
すっと背筋が伸びてしゃんとした彼は、三十代くらいに思う。爽やかで品の良いポロシャツが白くて眩しい彼は、きっぱりと通る声で言った。
「誠実じゃない振る舞いをした方が悪いに決まってるやろ。何でええ子にしてたその子が『もっと怒れ』なんて責められんねん」
紗理奈さんを諭すような彼の口調には、ピンとした圧がある。
「その子は裏切られてるのに、それでも好きやったって、そいつらのええとこを必死で見ようとしてんやで?」
迷いのない声に、一瞬で惹きつけられた。
「その子の持ってる優しい想いは人間的に褒められるべきで、美しいところやろ」
私の甘さではなく、私の価値そのものを丸ごと見てくれたかのような言葉に、うっと涙がこみ上げた。見知らぬ彼の真っ直ぐな意見に、紗理奈さんが頷く。
「……そっか、そうだよね」
紗理奈さんが私の背に、改めて手を添えてくれる。
「風子ちゃんごめんね、宗ちゃんが正しい。私、もっと怒らないとなんて……押し付けたこと言っちゃった」
私はぶんぶんと首を振った。紗理奈さんは何も悪くない。ごめんねなんて言わせて、私の方が申し訳ない。
「風子、やな」
彼は武士みたいにきりりとした顔で、私に名前を確認する。そして私に澄んだ声を向けた。
「話を横から聞いただけやけど。詐欺は言語道断として、俺はカフェオーナーが悪い人には思わんで」
私はきょとんとしながらも、彼の話に集中した。
「金がなくなったときに本性が出る、なんて世間では言うけどな。俺は違うと思う。金がないってのは、生命の危機や。生き残ろうとしてはみ出したことするのは、理屈として理解できる」
悪いことしてええって言うてるんちゃうでと彼は付け足した。彼の言葉に紗理奈さんが頷く。
「そう言われたらそうね。普段暴力を振るわない人だって、ピンチなら戦うもの」
「そうや。だから余裕がある時の振る舞いこそ、その人間の本性やと思うんや。風子が好きやったオーナーとの時間こそが、オーナーの本性とちゃうか」
目の前の靄を切り裂くように明解な彼の理論を聞いて、私の胸がすーっと晴れ渡った。
このままではオーナーと笑い合った仕事の時間が全部、汚れたものになってしまいそうだった。でもオーナーとの思い出を信じてもいいと言われた気がした。
オーナーは悪人ではなく、ちょっと脆い人だっただけ。
そう思うと、気持ちが軽くなって、オーナーとの時間に優しい色が戻ってきた。
「そんな風に言ってもらって、ありがとうございます」
やっと少し笑えた私に、彼は何にもしてへんよと短く答えた。紗理奈さんが彼を改めて紹介してくれた。
「風子ちゃん、紹介が遅れてごめんね。彼は神木宗一郎さん。変わったメゾンを運営していて……なんて言うか、私の恩人よ」
「あれ、旦那さんではないんですか?」
紗理奈さんは結婚していると聞いていた。私の疑問に紗理奈さんは大笑いした。
「宗ちゃんが夫だったら、私はストレスで倒れちゃうわ」
「いらんこと言わんでええねん。私にはもったいないって言うとき」
「いい言い方ね、そうするわ。大変もったいないでーす」
二人は何でもないように言い合い、元は知り合いの知り合いだと語った。
そんな話の中、宗一郎さんの鷹みたいな目が私を真正面に見据えていた。全部見透かされてしまいそうな目の強さがある。
恩人という関係についてもっと聞きたかったのだが、宗一郎さんが先に口を開いた。
「今までの話聞いた俺の予想やけど、もしかして風子……金に困ってんちゃうか」
ド直球の鋭い指摘に、どきんと胸が跳ねた。
「ど、どうしてそう思うんですか?」
「詐欺に解雇、ええ子やからこそ脇の甘さがある。風子が今の状況を乗り切れるほど貯金持ってそうには見えへんわ」
どくどくする心臓を射抜くように、宗一郎さんの的確な分析が刺さった。図星を突かれた私はこくりと頷いた。
私の隣で紗理奈さんが身を固くする。私は息を整えて明かした。
「実は今月、家賃が払えそうにないんです」
詐欺より解雇より、私を追いつめるのは生活費だ。
紗理奈さんが大きくのけぞって口に手を当て、驚きを抑え込んでいる。
「今月働いた分の給料は払うけど、ちょっと待って欲しいってオーナーに言われて。貯金なんてあるはずもなく……今月の生活費とリボ払いの返済を、またリボ払いで借りようかなって思ったんですけど……」
紗理奈さんの顔色がみるみる青くなっていく。私の声が私の声ではないみたいに細く震えた。
「そうやってリボで借りて、リボを返すサイクルが始まるのかと思うと、60万円の借金が急に怖くなっちゃって……!」
今まで平気だったのに、仕事を失った瞬間にリボ払いの現実が急に私の中に立ち上がった。ユン君のことも、解雇のことも、もう終わったことは仕方ない。
けれど、目の前の膨らんでいく借金のことを考えると眠れなくなった。
紗理奈さんが私の両肩を掴み、必死の形相で私に迫る。
「風子ちゃんダメダメ!もうそれ以上借りちゃだめ!リボで借りてリボを返すのはリボ地獄だからね!?」
店に紗理奈さんの声が響いた。
魔法の錬金術だと思っていたリボ払いの正体を、私はここまで落ちてやっと、知ったのだ。
リボ払いは複利で利子が増え続け、毎月少額返済するだけでは元金が全く減らないという恐ろしい泥沼の制度だった。
「でも私、お金を借りないと……どうにもならなくて」
紗理奈さんは私にぐいぐい身体を傾けながら、親身になってくれる。
「実家に帰るのはどう?」
「実家とはその……今、連絡を取ってなくて」
紗理奈さんの表情がまた曇る。一つずつ話すごとに、私は自分がどんなに考えなしで生きてきたのかをまざまざと思い知らされる。
順調に回っているうちは何も感じない。だが、いざ歯車が一つ狂うと、一気に崩れる。
私はそういう危うい暮らし方をしていたのだ。
紗理奈さんは隣でどうしようと言いながら顔を覆ってしまった。すると、黙って話を聞いていた宗一郎さんがさらりと一言放った。
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