10 / 56
第二章 風子と小さな図書館
小さな図書館
しおりを挟むサーモンピンクのドアの前で細雨を降らす灰色の空を見上げて、傘を広げた。
買っただけで埃を被っていたレインブーツで初めてのお出かけだ。まだ固い真新しいレインブーツで一歩踏み出し、ぴちゃぴちゃと雨の道を進む。
歩きながら、先ほどの宗一郎さんとの会話を反芻する。
宗一郎さんは経済的に余裕があるからこそ、困っている私を助けてくれているのだ。
なのに、私の胸は雨さーさーで湿気がひどい。
感謝すべきなのにじめじめ。そんなくだらない自分に嫌気がさす。
でも、海街メゾンは実際とても窮屈で、生まれつきの金持ちは羨ましくて、やっぱりちょっと妬ましい。そんな濁りが私の繕わない気持ちだ。
資産家の宗一郎さんが教える小さな暮らしなんて「貧乏人は贅沢言わずに枠内で暮らせ」と解釈してしまう。
がんばろうと思って海街メゾンに来たのに、もう萎えている自分の頼りなさも堪える。
「ああもう……しんどいなぁ」
私は、じめじめを抱えながら、雨のぬかるんだ道をゆっくり歩いた。
ぱしぱしと傘に打つ雨音を聞きながら、レインブーツで徒歩10分。白浜市立図書館はあった。私は平べったくて長い石造りの建物を見て、ふうと息をついた。
「古いし、小さい……これで図書館?」
古めかしい石壁に橙色の瓦屋根だ。レトロ可愛いというには足らず、どうも陰気に見える。大した本はなさそうだと予想しながら、重いドアを開けて中に入った。濡れた顔をハンカチで拭きながら、図書館の中を見回す。
ワンフロアの館内は、一目で奥まで見渡せるほどの大きさだ。どれほど汚いかと思ったが、中は小綺麗で明るかった。
一番に目につくのはカラフルな絵本で、種類も豊富そうだ。
学校の時間だからか、絵本コーナーには誰もいない。閲覧テーブルの周りに高齢者男性が数人、新聞を読みながら座っているだけでひっそりとしたものだ。
小さな図書館だ。だがそれでも私には、本が無数にあるように思えた。特に何の本を読みたいわけでもないので、入口で立ち尽くしてしまう。
すると、貸出カウンターの中から声をかけられた。
「何かお手伝いしましょうか」
「あ、その……恥ずかしながら、何の本を読んでいいかわからなくて」
私は助かったと思いながらカウンターの中に顔を向ける。すると、そこには最近見た顔があった。思わず声が零れる。
「あ、あの時の」
目の下の隈が濃い彼のネームプレートには「司書 榎本大和」と書いてある。
私と同年代くらいの榎本君は、私が海街メゾンに見学に行った日にリタイアして出て行った、あの猫背の彼だ。
宗一郎さんは彼がここで働いているのを知っていただろう。一言、言っておいてくれたら良かったのに。
「どこかでお会いしましたか?」
新聞を読むおじいさんたちの視線がちらりとこちらに注がれたのを感じた。地元の小さな憩いの場だ。余所者の登場には敏感だろう。
それに、海街メゾンは借金持ち専用の住居だ。外聞が悪いかもしれない。榎本君のプライバシーに配慮して、私は小声で言った。
「あの、海街メゾンで、すれ違ったんですが……」
「え、あー……あのときの、あー……レファレンスをお受けしますね。奥へどうぞ」
榎本君はぎこちなく微笑みながら私を案内した。返却カウンターをぐるっと回った裏には、レファレンスと立て札が置かれたカウンターがあった。
「レファレンスって、何ですか」
「本に関する相談を受けることですよ。この本はどこだ、から、こういう本はあるかとか。おすすめはとか。何でも聞きます」
そんな仕事があるのかと感心しながら席に着いた。私にはとても助かるサービスだ。私たちはカウンターを挟んで向かい合って座った。パリっとはしていない白ワイシャツの榎本君が咳払いしてから、こそこそ話し始めた。
「もしかして宗さんに言われて来たんですか?僕をメゾンに連れ戻せとか……?」
宗さんとは宗一郎さんのことだろう。榎本君がやや怯えたように言うので、私は素早く首を振った。
「いえ、宗一郎さんは何も」
「そう、ですか……」
榎本君はほっとしたような息を吐いたが、ハの字に下がった眉は残念そうにも見えた。
途中で辞めたのは彼だけれど、彼は宗一郎さんに気にかけても欲しかったのかもしれない。メンドクサイ人だなと思いながらも、彼の気持ちはわかる。
私も似たようなものだ。
「私は、私の読む本を探しに来ただけなんです。本なんて読んだことがないのに週に一冊読めって言われて、困ってしまって」
「あーわかります……宗さんのルールってもう、本当にその……強烈ですからね。僕は週に七冊読めって言われてました」
「一日一冊……!」
海街メゾンのルールの大枠は全員に課せられるが、宗一郎さんは人によってルールを多少カスタマイズしている。私たちは深いため息を交わし合った。
そして顔を見合わせて、ふっと笑い合ってしまった。
「僕はもう出ましたが、大変ですよね」
「そうなんですよ、全然慣れなくて」
宗一郎さんのルールに対する愚痴は万能だ。住人であれば、あの自由を奪われた気詰まりな感覚が何を言わずとも伝わって、つい親近感が湧いてしまう。
榎本君はくっきりした隈を携えた顔で笑いながら、カウンターに置いたノートパソコンに手をかけた。
「さっきは口実っぽく言いましたけど、良かったらレファレンスしてみますか?」
「いいんですか?助かります」
「じゃあご相談は『どんな本を読めばいいかわからない』でよろしいですか」
「あ、はい。お願いします」
不健康そうに笑う榎本君は、私にいろんな角度から質問してくれた。何が好きかとか、何に一番お金をかけるかとか、好きな歌や出身地なんかも聞かれた。
「自己紹介みたいなのを聞いて、読みたい本がわかるんですか?」
「ドンピシャで当てるのは難しいですけど、あたりをつけて色々おすすめしますね。こちらへどうぞ」
立ち上がってカウンターの中から出てきた榎本君の背中について行く。
海街メゾン繋がりなので、榎本君は借金持ちのはずだ。
借金があると聞けば、ダメな人のイメージになる。私は文字通りだが、司書のお仕事中の彼は中々テキパキとしていて頼りがいがある。
榎本君の案内で私はエッセイや写真集、ビジネス書などが並んだ棚の前にやってきた。小さい図書館なのでカテゴリの幅が狭くて密集している。
榎本君はスラックスを履いた脚でしゃがみこみ、下の棚から数冊本を取り出した。
58
あなたにおすすめの小説
イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。
楠ノ木雫
恋愛
蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……
紙の上の空
中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。
容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。
欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。
血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。
公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。
わたしを幸せにする25のアイテム
白川ちさと
ライト文芸
宮下みやび、二十五歳、は外車専門の中古車販売店に勤めていた。支店に転勤してきた岩梨悟という男に一目ぼれする。彼はミニマリストで部屋には何もない。彼に好かれようと、みやびもドンドン物を減らしていく。
しかし、ある日、岩梨悟が女性と仲良く歩いているところを目撃。失恋のショックと何もない部屋に愕然とする。
そんな折、みやびはコンビニで万引きをしようとしている女子高生を見つけてしまう。すんでのところで止めたみやび。彼女は失恋のショックで道を踏み外そうとしていたのだ。
失恋話で意気投合するみやびと、女子高生の翠。
翠は空っぽの部屋を見て、恩あるみやびを幸せにするための物を集めようと奮起する。
真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~
水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。
アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。
氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。
「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」
辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。
これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness
碧井夢夏
ライト文芸
<第五回ライト文芸大賞 最終選考・奨励賞>
住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。
看板娘の利津(りつ)は毎日忙しくお店を手伝っている。
最近隣にできたコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」。
どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……?
神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく――?
定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと挫折の物語。
過激表現はありませんが、重めの過去が出ることがあります。
地味男はイケメン元総長
緋村燐
青春
高校一年になったばかりの灯里は、メイクオタクである事を秘密にしながら地味子として過ごしていた。
GW前に、校外学習の班の親交を深めようという事で遊園地に行くことになった灯里達。
お化け屋敷に地味男の陸斗と入るとハプニングが!
「なぁ、オレの秘密知っちゃった?」
「誰にも言わないからっ! だから代わりに……」
ヒミツの関係はじめよう?
*野いちごに掲載しているものを改稿した作品です。
野いちご様
ベリーズカフェ様
エブリスタ様
カクヨム様
にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる