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第二章 風子と小さな図書館
レインブーツ
しおりを挟む閲覧テーブルにいた新聞おじいさんたちはもう帰ったみたいだった。小さな図書館はしんと静かで、私と榎本君しかいない。
このほとんど人が来ない図書館で一日過ごす榎本君の孤独もわかる気がした。
榎本君は手早く私の貸出カードを作って、本のバーコードをピッと読みこむ。
「本を読むには、まず本を探さなくてはいけませんよね」
私の選んだ三冊の本をとんとんとカウンターの面に打って、榎本君は本の端を綺麗に整える。榎本君は本を優しく見つめた。
「何を読もうかには、何が好きかの問いが付きまといます。だから、宗一郎さんが本を読めっていうのは、たくさん読んで、その中で『僕自身の好きを取り戻せ』って……ことだったんじゃないかなって」
榎本君は自信なさげに微笑みながら、私に三冊の本を丁寧に差し出した。
私はカフェ好きが明確だから、宗一郎さんが私に本を読めというのはまた違う意図かなと思う。スマホから離れて違う時間潰しを覚えろ、みたいな。
でも、榎本君は宗一郎さんの意図を「好きを取り戻せ」と受け取った。
それって、一冊の本から何をどう受け取るかは人によって違うことと、同じかもしれない。宗一郎さんの教える小さな暮らしは人によって全く違う形になるのだ。
「宗さんの意図に今さら気づいても……遅いですね」
私は三冊の本を両手で受け取った。榎本君の顔を見上げた私は、静かな図書館に通る声で言った。
「遅すぎるってことは、ないんじゃないでしょうか」
榎本君の目が見開いた。私は自分にも、そう言いたい。遅れを取り続けてきた私は、胸にぎゅうと三冊の本を抱きしめた。
「受け取る準備ができた時にしか、わからないことだってありますよね。だからメゾンから出ても、これから榎本君なりに頑張ればいいと思います」
私は小さな図書館をぐるりと見回した。
入る前は大したことなさそう、と予想した。
けれど、彼の寄り添ったレファレンスのおかげで、本が可愛いことや本の中に自分がいることを知った。この小さな図書館は予想よりずっと面白かった。それに、これから読書を始める私には、この小ささがちょうど良い。
「この図書館、榎本君には物足りないかもしれないですけど、私は読んでみたい本と出会えました」
私は本を胸に抱きながら、榎本君に丁寧にお辞儀をした。
「ありがとうございます、司書の榎本君。きっと榎本君がいなかったら私、何も借りずに帰ったと思います。榎本君がここにいてくれてよかったです」
私は顔を上げてにかっと笑った。三冊の本を榎本君に見せつける。
「読んだら、また来ますね。今度もレファレンスお願いします!」
一瞬で榎本君の目に潤いの膜が張った。何か余計なことを言ったかと首を傾げると、榎本君は目元をぐいと拭って笑った。
「その三冊の中で、どれが好きだったかまた今度教えてくださいね」
「そういうの言えるの楽しみです」
「なんだか風子さんを見ていたら、小さい図書館だからできることがあるのかもって思いました。僕もう少しここで、がんばってみます」
目の下の隈が全く気にならないほど明るく榎本君が笑ったので、私は気持ち良く図書館を後にした。
図書館の外に出ると、雨が止んでいた。
閉じた傘を手に引っかけたまま、私はレインブーツでまだすっきり晴れない曇天の下を歩きだす。帰っても暇なので、足を伸ばして白良浜のビーチまでのんびり歩いた。
白良浜のビーチは白砂がきめ細かく美しい。
晴れていれば裸足で白砂に足を埋めて遊び、エメラルドグリーンの海と白砂のコントラストに癒される。
だが雨上がりの白良浜はどんより灰色がかった紺碧色。観光客も少なく、何人かが散歩している程度だ。
「うーん、さすがの白良浜も今日は映えてない」
絶景と褒められる海だって、つまらない顔をする日がある。普通の人間が上がったり下がったりするのは当たり前だなと妙に納得した。
歩き疲れたので、もう雨が乾き始めたビーチの端の段差に腰を下ろした。
スマホもないから手持ち無沙汰だ。
規則正しい波音に耳を傾けながら、薄青色の名言集を鞄から取り出して捲ってみる。ある一節でふと目が留まる。
『虹を見たければ、ちょっとやそっとの雨は我慢しなくちゃ』
「……あーはい、ごめんなさい」
あまりに的確なことを言う本に苦笑いしてしまった。
偶然にもとれるが、実は私の目がこの言葉を選んでいる。名言集という短い言葉が羅列される本の中で、目が滑らずにぴたりと合ったところだけを読んでいるのだから。
本がくれた言葉を受け取って飲み込むと、ぐーとお腹が鳴いた。
「よし、帰ろう」
腰が自然に上がった。
現金2000円で明日の朝までのご飯を買って、窮屈で息苦しい海街メゾンへ帰ろう。
私は虹が出るまで、ちゃんと雨を我慢できる人生を生き直したいから。
メゾンのルールがしんどいからって、宗一郎さんの裕福さに八つ当たりするのはもうやめよう。僻んだって、私がお金持ちになれるわけではない。
だから私は、私をがんばれよ。
私は本を閉じて立ち上がり、レインブーツで海街メゾンを目指す。
新米のレインブーツは一度雨を経験して、足に馴染んできた。海を横目に、ふふっと笑みがこぼれてしまった。
「本っておもしろ」
人が本を好きになる気持ちが少しわかった、雨上がりの午後だった。
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