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第三章 風子と小さなラーメン屋
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しおりを挟む仕事を終えた私は、紗理奈さんのカフェ「豆の木」に足を運んでしまっていた。
仕事がワンオペで忙しいのは全く問題ない。飲食店での接客自体は楽しい。でもあの客の感触が、私を腐らせる。私は気がつくと左手首を何度も擦っていた。
カフェではいつものように紗理奈さんがふっくらした笑顔で迎えてくれた。
「風子ちゃん、いらっしゃい。ちょっとバタついてるけど、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます、お言葉に甘えます」
白良浜が近くても店から海は見えない。だが、夕暮れの日差しが大きな窓からすっと綺麗に入る時間だ。この時間を狙ってきたのだろうカフェ好きの観光客で賑わっていた。
私はカウンター席でお気に入りの青い椅子に重い腰を預けた。ラーメン屋で受けた穢れから逃れて、一息つきたかった。
でも今日はどうにも、青い椅子に座るお尻のおさまりが悪かった。
自家配合のスパイスがきいた夜カフェ彩り野菜カレーを食べ終えた私は、冷たいお冷やのグラスを手で包んだ。
いつもなら食後のコーヒーは必須なのに、注文できない。だって、手持ちのお金がないからだ。私の一日の持ち金は2000円、昼代を抜いて1500円しかなかった。ぎりぎりカレー代しか払えない。
私は冷やした手のひらで、嫌な感触が消えない左手首を擦った。仕事終わりに大好きなカフェで回復したかった。
なのに、肝心のスペシャリティコーヒーが頼めない。
猛烈にひもじい。メゾンのルールに嫌気がさしてムカムカする。
しかも、さっきから、ガラホが着信を告げて震え続けている。せっかく豆の木に来ているというのに、落ち着くどころか、どんどん追いつめられていた。ガラホをパカッと開いて、薄眼でそーっと画面を見てみる。
着信画面には「宗一郎さん」の表示。
「そ、そうなりますよね……」
私はパタンと画面を閉じた。二週間カフェには行かないと宗一郎さんと約束していた。けれど今日は、10日目だった。
きゅっと左手首を自分で握った。私なりにカフェに来た正当性はある。
私は今までずっと嫌な客が来た日はカフェで自分を慰めてきたのだ。そうやって立ち直って歩いてきた。だから今日くらい、ご褒美があったっていいに決まっている。
でもそうやって言い訳は並べてみても、楽しかったのはカレーを食べていた一瞬だけだった。
帰宅予定時間に帰らない私に業を煮やしたのだろう宗一郎さんから「いつ帰るんや」のメールが届き、着信が鳴り始めた。
出ないでいると、莉乃ちゃんから「宗ちゃんが風子ちゃんのこと鬼探してるの面白すぎるんだけど。どこいるの~?連絡してね!」とメールが来た。
ますます帰りにくくなっている。
そういえば、ルールを破ったらどうなるかという説明は聞いていない。
「約束やで」と言われただけだ。ペナルティで利息がつくとか、ありそうだ。でもお知らせしてないのは違和感だ。
「風子ちゃん、大丈夫?具合が悪いの?」
私はいつの間にか、カウンターに額をぶつけてしまうほど項垂れていたようだ。
カウンターの中から紗理奈さんが声をかけてくれる。
「見てあの人……」という小さな声が背後から聞こえた。取り乱してしまった。紗理奈さんの店の風紀を乱してはいけない。姿勢を正して紗理奈さんに返事をした。
「いえ、大丈夫です。ちょっとメゾンに帰りたくないなと思って……」
「あ、わかる~私もしょっちゅう逃亡しては、宗ちゃんに首根っこ掴まれて連れ戻されてたわ」
「ほ、本当ですか?」
「私って堪え性なくてねぇ」
あははと笑い飛ばす紗理奈さんと一緒に少し笑えた。
紗理奈さんがお客さんに呼ばれて接客に戻った。これ以上注文もしないのに、長居はいけないと腰を上げて店を出た。紗理奈さんの話を聞いて幾分か帰りやすくなった。
叱られはするだろうが、私は初犯なので、宗一郎さんに許されるだろうという見通しが立って気が楽になった。
店を出るともう日が暮れていた。
重い足を動かしながら、海街メゾンへ向けて帰り道を歩き始める。豆の木から白良浜まで10分、ビーチ横の歩道をまっすぐ15分歩いて帰り着いた。
メゾンの玄関灯がぽんと光り、サーモンピンクのドアを照らしている。
宗一郎さんに何て言おうかとドアの前で考えていると、ドアの方が先に開いた。ドアから出てきたの宗一郎さんだった。
「あ、風子。莉乃!風子帰って来たわ!」
宗一郎さんはすぐ振り返り、メゾンの中に向かって声を上げた。
莉乃ちゃんと達也さんの「良かったー」という声が聞こえてきて、ぱたぱたと玄関に集まって来る足音が聞こえる。
「風子、どこ行ってたんや」
宗一郎さんのぴんとした声に、居たたまれなさが膨らんでいく。そうだ、連絡くらいすべきだった。今からルール破ってカフェに行きますと。
いや、言えるわけがない。
宗一郎さんが私に向かって次の口を開こうとした瞬間、私の罪悪感が先に破裂してしまった。
「カフェ行っちゃってごめんなさい!」
きちんと謝らなくてはと思っていた。だが、いざ宗一郎さんを前にするとやっぱり情けなくて顔も見られなかった。きっとメゾンから離脱した榎本君もこんな気持ちだったのだろう。
私は宗一郎さんに背を向け、走って逃げ出した。
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