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第三章 風子と小さなラーメン屋
水
しおりを挟む私は宗一郎さんに背を向け、走って逃げ出した。
「あ、風子ちゃん!それダメ止まって!絶対逃げ切れないから!」
背後で莉乃ちゃんの声が聞こえたが、無視した。逃げたってダメなことはわかってる。でも止まらなかった。
仕事で愛用のスニーカーのまま潮の香りの強い方へ走る。白良浜まで続く夜の遊歩道を脇目も振らずに走っていると、真後ろから声がかかる。
「風子、白良浜まで競争しよか」
「え?!」
宗一郎さんが後ろから一緒に走って来ていたらしい、目を剥いて二度見直した。走るのに必死で気づかなかった。宗一郎さんは競争と言い残すと、私を追い越して白良浜へ走って行ってしまう。
「ちょっと、宗一郎さん?!」
宗一郎さんの背中がぐんぐん遠ざかる。
紗理奈さんが首根っこを捕まえに来ると言っていたのは、文字通り追いかけてくるという意味だったのか。
私は追い越されたのがなぜか腹立たしくて、本気で彼の背中を追いかけた。
足の裏で地面を強く蹴って、スピードを上げる。自分の息が耳の中で聞こえるくらい荒くなって、心臓がばくばくした。
息が苦しい。なのに、足は止めなかった。
競争なんて子どもみたいなこと、何をしているんだと思いながら、全身で潮風を切った。
いつも在るはずなのに、意識しない自分の身体が、確かにここに在る感じがした。
走り続けるうちに、身体を動かす感覚だけに支配される。頭に重くもたげていたものが遠くなる。息が苦しいというその一点に、私が小さく収まっていく。
この、今だけ、な感じ。
すごく「私、生きてるな」って感覚だった。
白良浜ビーチの端っこまで、私は走り切った。両膝に手をついて肩で息をする。肺が痛くて、喉がひりひりして火傷したみたいに熱かった。上半身を持ち上げ、額ににじんだ汗を左手で拭う。
不思議なことに左手首のぞわぞわした感じは、どこかに行ってしまっていた。あまりの身体の重さに夜空を見上げて声を上げた。
「あー!なにこれ、しんどー!何でこんなことしたの私ー!」
近くのホテルの灯りで白良浜は夜でもぼんやりと明るい。ついに道の端っこの段差にしゃがみ込んで休憩していると、頭の上に宗一郎さんの声が降って来た。
「こんな遅い時間に、こんなとこおったら危ないで風子」
宗一郎さんの注意に反射神経で声が出た。
「いやいや!誰が競争しようって言ったんですか!」
「俺やな」
ふはっと笑う宗一郎さんの額にも汗が滲んでいた。微笑みくらいは見たことがあったけれど、こんなに大らかに笑ったりもするのかと、つい見入ってしまった。
宗一郎さんは腕で汗を拭いながら、私に水のペットボトルを一本手渡した。宗一郎さんは自分の分をもう一本持っていた。自販機で買って来たのかもしれない。
「飲みや」
「あ、ありがとうございます」
立ち上がって、乾いた喉にペットボトルの冷えた水をぐびっと流し込む。喉が求めるままにごくごく水を流し込むと、妙にスッキリした。
一杯のコーヒーが飲めなくてイライラしていた。
なのに、こんなただの水で、身体が満ち渡った。
私は隣で同じように水を飲んだ宗一郎さんの横顔をちらりと見た。走っているうちにどうして宗一郎さんの顔を見られなかったのか、が薄れてしまった。
走っただけだけど、なぜか色んなことが上書きされた気がする。
私って、意外と単純。いや、シンプルにできているようだ。
「宗一郎さん、足速いですね。私、高校の頃は陸上部だったんで自信あったのに」
「俺も足には自信あんねん」
「陸上部ですか?」
「いや、剣道部」
平然と言い切った宗一郎さんの顔を見て、私は思わずぶはっと噴き出してしまった。
「え、剣道部って足の速さいらないですよね?!」
「別にいらんな」
「じゃあ何でその部にしたんですか」
「何でって、剣道の防具ってかっこええやろ?」
高校の頃の宗一郎さんがとても少年らしい理由で部活を選んでいて、ツボにハマってしまった。私はお腹を抱えて笑ってしまう。宗一郎さんはきょとんとしながら、そんな笑うとこやったかと首を傾げていた。
「ちなみにラーメン屋の東郷は、剣道部の後輩やで」
「東郷さんは足遅そう!」
「あいつめちゃ遅いな」
どうでもいい会話でひとしきり笑ってから、ビーチの端のなだらかな石垣に二人で並んで腰を下ろした。走って重くなった身体を地面に落ち着けたかった。
固い石の感触はお尻に優しくない。けれど、カフェの青い椅子よりずっと堂々と座れた。
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