海街メゾンで、小さく暮らそ。

ミラ

文字の大きさ
17 / 56
第三章 風子と小さなラーメン屋

ルール

しおりを挟む

 
 やっと白良浜の夜の潮騒が聞こえるようになるほど落ち着きを取り戻したタイミングで、宗一郎さんが私の顔を覗きこんだ。

「風子、帰りが遅くなるんやったら電話せなあかんで。心配するやろ」

 宗一郎さんの目はいつだって鋭いのに、言葉は意外と、やわらかい。

「何かあったんやったら、話しや」

 走ってほぐれた身体が水で満ちて、その声をかけられると、蛇口が開いたよう弱音が流れ出た。

「……実は」

 私は品のない客に与えられた澱みと、その反動でご褒美を求めてカフェに行ったことを一気に話した。宗一郎さんは頷きながら一言も挟まずに聞ききってくれた。

「風子、今日はようがんばったんやな」

 宗一郎さんは最後にぽんとその一言を置いてくれた。

 しっかり受け止めてもらって愚痴もからっぽになる。一口水を飲んだ私の口からは、するりと謝罪が出た。

「約束破って……ごめんなさい」

 宗一郎さんは首を横に振って即答した。

「謝らんでええよ。こっちのルール不備や。不出来なルールを課して悪かったわ」
「どういうことですか?」

 私が目を瞠ると宗一郎さんはうんと一つ頷いた。

「俺はルールで風子を縛りたいんと違う。ルールで風子を楽にしたいんや」
「楽に?」

 ルールは窮屈だ。だが、ラーメン屋のルールは私が働くのを楽にしていると実感していた。海街メゾンもやはりそうなのか。

 夜の海辺で、規則正しい波音と、宗一郎さんが淡々と説明する声が混じる。

「風子が今日、カフェに行ったのは当然や。悪いことやない。それを縛ってたルールに柔軟性がないのがあかんねん」
「柔軟性……?」
「仕事で嫌なことあるのがいつなんて、想定でけへんやろ。だからカフェに行く頻度は調整しつつ、突然行きたい日は行けるようにする」

 宗一郎さんは私から事細かくカフェに行った話を聞き出し、スペシャリティコーヒーが飲めなくてものすごく嫌だった点に注目した。

「ほな今日はもう1000円あったら、充分楽しめたってことやろ?」
「もう1000円あれば、デザートセットにできました!」

 豆の木の、夜カレーデザートセットの豪華さを思い出してふにゃりと顔が緩む。宗一郎さんは私の締りない顔を見てくすりと笑う。

「そんな顔ができるようになるんやったら、行った方がええわ。今まで風子はその頻度が高すぎただけや」
「……そうですね。リボ払いしてまでいっちゃダメですよね」
「せやな。だから、毎日積み立てしい」
「積み立てって?」
「カフェ貯金やな」

 宗一郎さんは食費とは別に毎日100円を支給するので、その100円をカフェ代として貯金箱にでも貯めるように指示した。

 そうすれば10日で足りない1000円が貯まる。

 月に3日は、カフェで好きなものが食べられる。さらに金額の制御が効いているから行き過ぎることもない。

「すごい、一日100円で、嫌なことがあった日に備えるってことですね?」

 毎日100円なら貯められる。積み立てると唐突に降って来る嫌な日のご褒美に対応できる。簡単なことだが、意外と考えつかない。ルールって面白いなと素直に思った。

「それでも足らんくらい、嫌なことが続くんやったら。もっと別の方法も考える」
「別の方法って例えば、どんなことですか?」

 浜辺の石垣に並んで腰掛けて、潮の夜風に吹かれながら話すのは暮らし方だ。色気はないが、私は真剣に聞いた。宗一郎さんは秘密を話すように教えてくれる。

「さっきみたいに走ったらええで」
「え、走るんですか?もうしんどいのは嫌ですよ?」
「でも……おもろかったやろ?俺がいつでも相手になるで」

 宗一郎さんがイタズラをするみたいに笑って、またペットボトルの水をごくりと飲んだ。彼の喉仏が上下するのを見ながら、走っていたときの高揚や喉を通った水の気持ち良さを思い浮かべる。

 たしかに、ちょっと面白かった。

「運動はええことばっかりやで。元運動部やったら特にええわ。運動したらすぐ、学生時代のキラキラみたいな気持ちになれるからな」
「あ、それさっき感じました!私まだ走れるんだ現役!みたいな」
「せやろ、雑念も飛ぶしな」
「わかります!」
「運動には色んな効能があるって証明されててな」

 私は宗一郎さんの「運動良いよ講義」に夢中になった。

 走っていたあの瞬間の感覚を宗一郎さんがぽんぽんと言い当て、その原理を解説する。実際に身体で感じたことには理解があってしっかりと耳に届いた。

「だから、カフェでご褒美が足らん時の場合は、運動したり、本読んだり、別のご褒美回路も複数持つようにしい。そうしたら折れにくくなる」

 宗一郎さんが言うことは全部真っ当だ。

 私は今まで無計画にカフェだけに傾倒したから、リボ地獄手前まで行ってしまった。私自身への解像度が上がったというか、いなし方のようなものがわかった気がする。

 ルールは私を度が過ぎるご褒美から遠ざけつつ、未来の私を助けるものとして設定するのだ。暮らし方の知恵って、こういうことか。

「本を読めって意味不明なルールだと思ってましたけど……別のご褒美回路ってことで、そう繋がってくるわけですね」
「まあ、ルールの意図はぼちぼち、それぞれの解釈や。先に枠に慣れる。理解は後でええ」
「先に理解したくなりますけど……理解を待つ時間を持てるなんて、なんだか大人ですよね、宗一郎さんは」
「小学生のときはあだ名が中身ジジイやったわ」

 私はついけらけら笑った。宗一郎さんは軽く眉を顰めるだけで、全く怖くない。

「小学生、的確すぎます!」
「失礼やな。そんなことないですよって言うとき」

 宗一郎さんがペットボトルの水を飲み干して、ポケットからガラホを取り出した。パカッと開けて確認した宗一郎さんが立ち上がる。

「莉乃が早く帰って来て、スマホ出せって怒ってるわ」
「あ、それは申し訳ない……帰りましょうか」

 宗一郎さんに続いて立ち上がり、私もペットボトルの水を飲みきってから白良浜の海を背にした。空っぽのペットボトルを片手に持ったまま、宗一郎さんと並んで海街メゾンまでの夜道を歩き始める。
しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。

楠ノ木雫
恋愛
 蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

紙の上の空

中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。 容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。 欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。 血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。 公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。

わたしを幸せにする25のアイテム

白川ちさと
ライト文芸
 宮下みやび、二十五歳、は外車専門の中古車販売店に勤めていた。支店に転勤してきた岩梨悟という男に一目ぼれする。彼はミニマリストで部屋には何もない。彼に好かれようと、みやびもドンドン物を減らしていく。  しかし、ある日、岩梨悟が女性と仲良く歩いているところを目撃。失恋のショックと何もない部屋に愕然とする。  そんな折、みやびはコンビニで万引きをしようとしている女子高生を見つけてしまう。すんでのところで止めたみやび。彼女は失恋のショックで道を踏み外そうとしていたのだ。  失恋話で意気投合するみやびと、女子高生の翠。  翠は空っぽの部屋を見て、恩あるみやびを幸せにするための物を集めようと奮起する。

真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。 アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。 氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。 「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」 辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。 これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏
ライト文芸
<第五回ライト文芸大賞 最終選考・奨励賞> 住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。 看板娘の利津(りつ)は毎日忙しくお店を手伝っている。 最近隣にできたコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」。 どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……? 神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく――? 定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと挫折の物語。 過激表現はありませんが、重めの過去が出ることがあります。

地味男はイケメン元総長

緋村燐
青春
高校一年になったばかりの灯里は、メイクオタクである事を秘密にしながら地味子として過ごしていた。 GW前に、校外学習の班の親交を深めようという事で遊園地に行くことになった灯里達。 お化け屋敷に地味男の陸斗と入るとハプニングが! 「なぁ、オレの秘密知っちゃった?」 「誰にも言わないからっ! だから代わりに……」 ヒミツの関係はじめよう? *野いちごに掲載しているものを改稿した作品です。 野いちご様 ベリーズカフェ様 エブリスタ様 カクヨム様 にも掲載しています。

処理中です...