海街メゾンで、小さく暮らそ。

ミラ

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第三章 風子と小さなラーメン屋

ルール

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 やっと白良浜の夜の潮騒が聞こえるようになるほど落ち着きを取り戻したタイミングで、宗一郎さんが私の顔を覗きこんだ。

「風子、帰りが遅くなるんやったら電話せなあかんで。心配するやろ」

 宗一郎さんの目はいつだって鋭いのに、言葉は意外と、やわらかい。

「何かあったんやったら、話しや」

 走ってほぐれた身体が水で満ちて、その声をかけられると、蛇口が開いたよう弱音が流れ出た。

「……実は」

 私は品のない客に与えられた澱みと、その反動でご褒美を求めてカフェに行ったことを一気に話した。宗一郎さんは頷きながら一言も挟まずに聞ききってくれた。

「風子、今日はようがんばったんやな」

 宗一郎さんは最後にぽんとその一言を置いてくれた。

 しっかり受け止めてもらって愚痴もからっぽになる。一口水を飲んだ私の口からは、するりと謝罪が出た。

「約束破って……ごめんなさい」

 宗一郎さんは首を横に振って即答した。

「謝らんでええよ。こっちのルール不備や。不出来なルールを課して悪かったわ」
「どういうことですか?」

 私が目を瞠ると宗一郎さんはうんと一つ頷いた。

「俺はルールで風子を縛りたいんと違う。ルールで風子を楽にしたいんや」
「楽に?」

 ルールは窮屈だ。だが、ラーメン屋のルールは私が働くのを楽にしていると実感していた。海街メゾンもやはりそうなのか。

 夜の海辺で、規則正しい波音と、宗一郎さんが淡々と説明する声が混じる。

「風子が今日、カフェに行ったのは当然や。悪いことやない。それを縛ってたルールに柔軟性がないのがあかんねん」
「柔軟性……?」
「仕事で嫌なことあるのがいつなんて、想定でけへんやろ。だからカフェに行く頻度は調整しつつ、突然行きたい日は行けるようにする」

 宗一郎さんは私から事細かくカフェに行った話を聞き出し、スペシャリティコーヒーが飲めなくてものすごく嫌だった点に注目した。

「ほな今日はもう1000円あったら、充分楽しめたってことやろ?」
「もう1000円あれば、デザートセットにできました!」

 豆の木の、夜カレーデザートセットの豪華さを思い出してふにゃりと顔が緩む。宗一郎さんは私の締りない顔を見てくすりと笑う。

「そんな顔ができるようになるんやったら、行った方がええわ。今まで風子はその頻度が高すぎただけや」
「……そうですね。リボ払いしてまでいっちゃダメですよね」
「せやな。だから、毎日積み立てしい」
「積み立てって?」
「カフェ貯金やな」

 宗一郎さんは食費とは別に毎日100円を支給するので、その100円をカフェ代として貯金箱にでも貯めるように指示した。

 そうすれば10日で足りない1000円が貯まる。

 月に3日は、カフェで好きなものが食べられる。さらに金額の制御が効いているから行き過ぎることもない。

「すごい、一日100円で、嫌なことがあった日に備えるってことですね?」

 毎日100円なら貯められる。積み立てると唐突に降って来る嫌な日のご褒美に対応できる。簡単なことだが、意外と考えつかない。ルールって面白いなと素直に思った。

「それでも足らんくらい、嫌なことが続くんやったら。もっと別の方法も考える」
「別の方法って例えば、どんなことですか?」

 浜辺の石垣に並んで腰掛けて、潮の夜風に吹かれながら話すのは暮らし方だ。色気はないが、私は真剣に聞いた。宗一郎さんは秘密を話すように教えてくれる。

「さっきみたいに走ったらええで」
「え、走るんですか?もうしんどいのは嫌ですよ?」
「でも……おもろかったやろ?俺がいつでも相手になるで」

 宗一郎さんがイタズラをするみたいに笑って、またペットボトルの水をごくりと飲んだ。彼の喉仏が上下するのを見ながら、走っていたときの高揚や喉を通った水の気持ち良さを思い浮かべる。

 たしかに、ちょっと面白かった。

「運動はええことばっかりやで。元運動部やったら特にええわ。運動したらすぐ、学生時代のキラキラみたいな気持ちになれるからな」
「あ、それさっき感じました!私まだ走れるんだ現役!みたいな」
「せやろ、雑念も飛ぶしな」
「わかります!」
「運動には色んな効能があるって証明されててな」

 私は宗一郎さんの「運動良いよ講義」に夢中になった。

 走っていたあの瞬間の感覚を宗一郎さんがぽんぽんと言い当て、その原理を解説する。実際に身体で感じたことには理解があってしっかりと耳に届いた。

「だから、カフェでご褒美が足らん時の場合は、運動したり、本読んだり、別のご褒美回路も複数持つようにしい。そうしたら折れにくくなる」

 宗一郎さんが言うことは全部真っ当だ。

 私は今まで無計画にカフェだけに傾倒したから、リボ地獄手前まで行ってしまった。私自身への解像度が上がったというか、いなし方のようなものがわかった気がする。

 ルールは私を度が過ぎるご褒美から遠ざけつつ、未来の私を助けるものとして設定するのだ。暮らし方の知恵って、こういうことか。

「本を読めって意味不明なルールだと思ってましたけど……別のご褒美回路ってことで、そう繋がってくるわけですね」
「まあ、ルールの意図はぼちぼち、それぞれの解釈や。先に枠に慣れる。理解は後でええ」
「先に理解したくなりますけど……理解を待つ時間を持てるなんて、なんだか大人ですよね、宗一郎さんは」
「小学生のときはあだ名が中身ジジイやったわ」

 私はついけらけら笑った。宗一郎さんは軽く眉を顰めるだけで、全く怖くない。

「小学生、的確すぎます!」
「失礼やな。そんなことないですよって言うとき」

 宗一郎さんがペットボトルの水を飲み干して、ポケットからガラホを取り出した。パカッと開けて確認した宗一郎さんが立ち上がる。

「莉乃が早く帰って来て、スマホ出せって怒ってるわ」
「あ、それは申し訳ない……帰りましょうか」

 宗一郎さんに続いて立ち上がり、私もペットボトルの水を飲みきってから白良浜の海を背にした。空っぽのペットボトルを片手に持ったまま、宗一郎さんと並んで海街メゾンまでの夜道を歩き始める。
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