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第三章 風子と小さなラーメン屋
ルイボスティー
しおりを挟む明るい家の中に入ると、ハート柄のパジャマを着た莉乃ちゃんが出迎えてくれた。
「風子ちゃんおかえりー!ね、宗ちゃんからは逃げられないって言ったでしょ?」
にぱっと笑って先輩風を吹かせる莉乃ちゃんの後ろから、達也さんが顔を覗かせた。
「おかえり、風子ちゃん。初追いかけっこおめでとう。僕も今まで何回追いかけられたか……あはは……あ、お風呂沸いてるよ?」
宗一郎さんは全員を追いかけたことがあるのかと思うと、また可笑しかった。さっき帰ってきた時よりずっと馴染んだメゾンの温度を感じながら、私は皆にただいまですと笑った。
みんな上手くいかないことがあって、逃げて足掻いて、なんとか暮らしている。メゾンにいるとそういう温度がよくわかる。
莉乃ちゃんと達也さんが二時間のスマホタイムを過ごすリビングで、宗一郎さんが湯上りの私を呼んだ。檜のテーブルを挟んで宗一郎さんと向かいあって座ると、彼が私に現金を渡した。
「風子、これここに来てからのカフェ貯金代や」
「え!すごい!1000円!」
「10日目やからな。いつでもカフェ行けるで」
さっそく「毎日100円貯めていましたよ」という体で現金を支給してもらうと、嬉しさがこみ上げた。私の毎日のがんばりがまとめて返ってきたようだった。宗一郎さんが表に「カフェ貯金」と書いた桜色の封筒をくれた。
「そこに毎日100円貯めや。貯まったら両替したるわ」
「可愛い袋ですね」
「お年玉のポチ袋の残りや。メゾンに正月までおったら、お年玉やるで」
海街メゾン、お得だなと思いながら私は桜色の封筒に入った1000円を見てにやついた。
今度いつ豆の木に行こうか。しんどい日のために置いておこうか。いや、次の休みかと考えるだけでうきうきした気持ちが止まらない。
「風子、どうぞ」
封筒を見てにやにやし続けていると、宗一郎さんがテーブルに私のスマホと、湯気を上げるマグカップを置いてくれた。
ずんぐり大き目フォルムが愛しいお気に入りの雪色マグカップだ。マグの大きい口から上る湯気は、すっとミントみたいな香りがした。
「ルイボスティーやで。今日は俺のせいでコーヒー飲まれへんかったから、これで勘弁してや」
「え、あ、お気遣いありがとうございます」
宗一郎さんはふっと笑って、廊下の奥の自室へと行ってしまった。
静かにソファやラグの上で寝転がってスマホを見る父娘のスマホタイムが終わったら、二時間きっかりでまた宗一郎さんは登場するだろう。
私はずんぐりマグカップを引き寄せて、湯気を吸いながら深く息をした。良い香りだ。ずっと吸い込んでいたくなる。
「あ、そうだ」
私は一度部屋に戻って、ラーメン屋の研修のときにもらった「白良浜のみちびきコースター」を持ってきた。温かいマグカップの下に敷いてしばらく待つ。
ほどよくコースターが温まったのを見定めて、マグカップを持ち上げた。
コースターは色が変わり、エメラルドグリーンの硬いゴシック文字で「話せ」と浮かび上がっていた。色が変わるのは、何度見ても口角が上がる。
コースターを眺めながら、ゆっくりルイボスティーに口をつける。香り高い熱さが喉を通り、胃に落ちてすっきりした。
熱いルイボスティーを何度も口に運んで息を繰り返し、天井を見上げて深い息をした。イライラしたときは、コーヒーだけでなく、ルイボスティーでも良いな。
「あ、あれも欲しいかも」
なぜか急にあれが欲しいと思った。それが私を癒すと知ってるような体の動きに従う。
私はリビングの本棚に一緒に並べていた本を一冊持って来て、マグカップの横に置いた。榎本君と一緒に選んだ薄青の幾何学模様の名言集。借りて来た日から毎日ぺらぺら捲っている。
テーブルに並ぶ、コースター、名言集、ルイボスティー。
「……うん、お気に入りいっぱいな感じ、良いね」
莉乃ちゃんや達也さんの邪魔をしないようにぼそりと呟く。
両手で大きなマグカップを包んで持ちながら、お守りみたいな名言集に目配せして、コースターの「話せ」を見てくすりと笑った。
「話しや」と言う宗一郎さんの声を思い返しながら、彼の過去話を思い出してつい頬が緩む。
ルイボスティーも良い、可愛い本も良い、走るのも、宗一郎さんに愚痴るのも良い。彼ならいつでも聞いてくれると、今日はよくわかった。
こうやって、カフェ以外にも小さく良い気分になる方法を、たくさん持てばいいのか。
ルイボスティーの熱さとともにお腹の奥で、しっくりきた。
貴重なスマホタイムの二時間が過ぎていくというのに、私はマグカップを握ったままにやついていた。
時間がおっとり、のんびり、優しく過ぎていく。
温まったお腹の中から、明日もがんばろう、そんな小さな芽が自然に生まれていた。
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