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第五章 風子と小さな嵐
湯
しおりを挟む健康診断の話があってから初めての週末、今日は達也さんが病院へ精密検査に行く日だ。
達也さんに莉乃ちゃんのことを見ていて欲しいと頼まれ、快く引き受けた。何かできることがあるのは純粋に嬉しかった。
ちょうどアルバイトが休みだったので、朝から莉乃ちゃんと咲きの湯に浸かっていた。
湯舟と海を岩一枚で隔てただけの咲きの湯。
この湯から見える景色は、今日も波飛沫を上げていて雄大だ。二人っきりで湯に浸かり、青空とエメラルドグリーンの海の境目を眺めながら、莉乃ちゃんは私の話に聞き入っていた。
「大学の時にね、彼氏の身の回りの世話とか、課題とか全部私が引き受けたの。そしたら彼氏はどんどん成績が落ちて……お前といるとダメになるとか言われてフラれた」
「風子ちゃんの優しさって、もしかしてダメ男製造機なんじゃない……?」
「そんなこと……え、そうなの?」
莉乃ちゃんが冷ややかな薄目で私を見ているので、居たたまれなくなってしまった。
あの日から元気がない莉乃ちゃんを励まそうとして、私のダメエピソードを披露したのだが話題を間違ったかもしれない。
達也さんのためにも、人の役に立つのは良いことだよという話の方向に持っていきたかったのに、私はどうも下手だ。
湯の中でしゅんと肩を竦めると、莉乃ちゃんがフハッと吹き出した。
「風子ちゃんってばもう、しっかりしてよ!今度の彼氏は宗ちゃんレベルのキッチリした人にしよ?!じゃあ大丈夫!」
私の肩をぽんと叩いて、莉乃ちゃんがいつもの笑顔を見せてくれた。莉乃ちゃんに笑ってもらえるなら、私の失敗なんていくらでも差し出せる。
達也さんの精密検査の結果が出るのはまだ先だ。莉乃ちゃんはその日までずっと緊張して暮らすのだ。笑える回数は多い方が良い。
やっと笑ってくれた莉乃ちゃんと、湯の中で肩を寄せ合う。
「あ、でも宗ちゃんはダメだよ。宗ちゃんは言い方がキツいから。彼氏になったらもっとキツいよ。ショック受けてる女の子にド正論刺すのは優しさじゃないから!」
莉乃ちゃんはあの夜の宗一郎さんの言葉が受け入れられず、不満を言い続けている。けれど、宗一郎さんが矢面に立ったおかげか、達也さんに向けた苦言は聞かなかった。
「また偶然やなぁ」
宗一郎さんの話をしていると、後ろから女性の声がかかった。私と莉乃ちゃんは揃って振り向いた。
「でもうちがここに来るの知ってて来たんやからな。もううちとあんたらはプライベートでは友だちってことやで?」
にっこり笑いながら現れたのは水玉シャワーキャップのミカミカさんだ。ミカミカさんは仕事前にここでひとっぷろ浴びるのだ。
「うちも混ぜてや」
湯に浸かったミカミカさんに、莉乃ちゃんはすぐ寄って行った。
「ミカミカさん!聞いてよ~!」
「あ、まさか宗一郎の口が悪さしたんちゃう?」
「どうしてわかるの?! さすがミカミカさん!」
風呂に響き渡る声で文句を言っていた莉乃ちゃんの話は、おそらくミカミカさんに筒抜けだっただろう。メゾンの外の人にも言いたくてたまらなかったらしい莉乃ちゃんは、ミカミカさんに怒涛の勢いで宗一郎さんへの不満を言い続けた。
宗一郎さんのお母さんに向けて言ってしまうところが、潔い。莉乃ちゃんの話を聞いて、ミカミカさんは渋い顔をする。
「ほんまごめんやで、莉乃ちゃん。宗一郎はそんなんやからモテへんねん」
「いや、ミカミカさんは悪くないけど。やっぱり宗ちゃんモテないんだ?」
「あれでモテるわけないやろ?」
お母さんからもモテない認定されているのかと思うと可笑しくて、女三人の湯舟で大笑いしてしまった。けれどきっと、ミカミカさんは莉乃ちゃんの鬱屈を晴らすために、あえて愚痴に付き合ってくれたのだろう。
宗一郎さんは自ら悪者になって、ミカミカさんは息子をネタに心を解く。正面ではなく、違う方向から相手を支える。そういう采配が、この親子の似たところだなと思う。
湯で緩み、思いっきり湯の中で澱みを流しきった莉乃ちゃんを挟んで、私とミカミカさんの三人は湯舟の縁に座った。火照った体を海風に晒しながら、莉乃ちゃんは深く大きな息をついて海の先を見つめた。
声の響きが一段、落ち着いていた。
「でもほんとはね……宗ちゃんが正しいって、わかってるんだ」
莉乃ちゃんはきゅっと眉間に皺を寄せる。
「だってこのまま私が文句言うだけで……な、何にもしなかったらさ」
見る間に莉乃ちゃんの瞳に涙が溜まった。
達也さんを罵ったあの夜、意地でも泣かなかった莉乃ちゃんの猫目からはらはらと涙が落ちた。
「お父さんが……死んじゃうかもしれない……!」
両手で顔を覆ってわぁと泣き出してしまった莉乃ちゃんの両側で、私とミカミカさんは顔を見合わせた。ミカミカさんも私も眉尻を下げたまま、莉乃ちゃんの背中に手を当てる。
莉乃ちゃんは涙と鼻水まみれの顔で、ぐちゃぐちゃの心を教えてくれた。
「もし、もしそうなったらどうしようってずっと考えて、言ったら本当になりそうで、怖くて……でも、もう私、どうしたらいいか」
莉乃ちゃんの切実な涙声が胸に痛かった。
心の底に埋めていた不安が湯でほぐされて流れ出てしまったかのようだった。彼女の気が済むまで、私たちは彼女の背を撫で続けた。私は莉乃ちゃんの涙が湯に溶けて、海に流れていくことを願いながら、ずっと波音を聞いていた。
しばらくして、観光客が続々とやって来る時間になった。
私たちは揃って湯から上がった。
脱衣所を出たところにある売店で、ミカミカさんが私たちに瓶入りのミックスジュースを買ってくれた。ミカミカさんはシャワーキャップを脱いで、いつものショートボブパーマと黒ワンピース姿に戻っていた。
莉乃ちゃんは腫れた目を冷えた瓶で目元を冷やした。その横で、ミカミカさんが私にこそっと声をかける。
「風子ちゃん、うちはこれから仕事や。莉乃ちゃんのこと頼むで」
「はい、宗一郎さんからも重々言われてます」
ミカミカさんは何度も頷いて私の肩をぽんと叩いてから、莉乃ちゃんに声をかけた。
「莉乃ちゃん、困ったらこのミカミカさんに何でも言っておいでや」
「……ありがとう、ミカミカさん」
ミカミカさんは莉乃ちゃんの湿った髪を荒っぽく撫でてから、仕事に向かって行った。
頼もしい背中に宗一郎さんが重なる。
あの晩、宗一郎さんの部屋に呼ばれた達也さんは「何があっても全力で支援するから大丈夫やで」と言ってもらったそうだ。
達也さんはちょっと泣いたと冗談交じりに話していたが、事実だろうと思う。
だって、言ったのは宗一郎さんだ。
きっと本当に、全力なのだ。
心強いと、そう思わせてくれる人だ。私も、そんなこと言われたら泣いてしまう。
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