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第五章 風子と小さな嵐
莉乃ちゃん
しおりを挟む私は莉乃ちゃんを連れて、咲きの湯のすぐ側にある、綺麗に整った岩場へ向かった。
日陰の平らな岩場に並んで座り、波風に撫でられながら冷たいミックスジュースで喉を潤した。素朴な甘い香りと馴染みあるフルーツの風味にほっとする。莉乃ちゃんが海を見つめながら若くて綺麗な唇を開く。
「ねぇ風子ちゃん、聞いてくれる?」
「もちろん、何の話?」
「んー私の話かな」
「莉乃ちゃんの話、何でも聞きたいよ」
ふふっと笑えるくらいに落ち着いた莉乃ちゃんは、海を見ながらぽつぽつと語ってくれた。
「私とお父さんね、一年前にメゾンに来たんだ。離婚したからなんだけど、受験があったからドタバタだったよ」
莉乃ちゃんはぬるくなっていく瓶を両手で握りながら、水平線を見続ける。感情が全部流れ出たあとだからこそ、話せることもあるのかもしれない。
「私、したくもないのにお母さんの言いなりに中学受験したんだ。お父さんはあんな感じでしょ?全部お母さんの言いなりでさ」
私はゆっくりミックスジュースを飲みながら、莉乃ちゃんの声に集中した。宗一郎さんはいつも私たちの話を遮らずに最後まで聞く。そうしてもらうと、最後には自分の言葉で前が向ける。
だから私も莉乃ちゃんの話に声を挟むのは止めて、しっかり話を聞く。
「私は知らなかったんだけど……学費がすごく高かったらしくて。お父さん、ダブルワークしてた。それで、お父さんしんどくなって入院して」
達也さんは娘のため、奥さんの望みのために必死で働いていたのだろう。身体を壊すところまでいってしまったのか。
「お父さんが入院しても学費の支払いは止まらないから。私がぼんやり学校に通っているうちに、どんどん借金はかさんでいったみたい」
しっかり働けているときは大丈夫だったのに、何か一つが狂った途端に全て歯車が合わなくなる。
そういう脆い場所にいたことが、ある時突然、明るみに出る。そうして気づいたときには借金は膨らんでしまっている。
私も達也さんと全く同じ経験をした。
「お父さんは仕事辞めて、お父さんとお母さんはお金の言い争い……まあ前からそんなに仲良い夫婦じゃなかったんだけど、愛想尽きたのかな」
莉乃ちゃんはミックスジュースをこくりと一口飲み込んだ。
「お母さんは出て行っちゃった……借金も私も、お父さんに覆いかぶせてね」
莉乃ちゃんも負債の一部だと聞こえるような言い方だった。彼女は甘いミックスジュースとともに、そんな苦い気持ちを飲み込んでいるのか。
「でもまあ、お父さんは私がいないと寂しがるからちょうど良かった気もしてる」
自分を慰めるように話す莉乃ちゃんの苦味を想うと、胸が痛い。それでも彼女はまた顔を上げて海の先を見つめる。
「お父さんの前の職場の人がさ、お父さんのこと心配して海街メゾンのこと教えてくれたの」
人の縁を辿って、達也さんは藁にも縋る想いでメゾンにやって来たのか。
「宗ちゃんはお父さんに仕事を紹介してくれて、私の受験も見てくれて……一年ですごく楽になった……だから……」
莉乃ちゃんは海を見ていた視線を私に向けて、恥ずかしそうに笑った。
「気が抜けて、ちょっとお父さんにも宗ちゃんにも、風子ちゃんにも。甘えてたみたい。子どもみたいにぎゃあぎゃあ言ってごめんね」
莉乃ちゃんが情けなさそうに口を歪める。涙を噛み殺したような大人ぶった顔をするので、私は思わず彼女を両腕で抱きしめた。
「莉乃ちゃんは悪くない!」
私は周りで海の写真を撮っていた観光客がびっくりするくらい大きな声を出した。
「莉乃ちゃんだって、すーっごくがんばったんだから!」
私の腕の中にいる莉乃ちゃんは、私の耳元で小さな声を紡ぐ。
「でも……お父さんのこと、私が支えなくちゃいけないのに、イラついてばっかりで。宗ちゃんの言う通り、もう、大人だっていつも……言ってるくせに」
「まだ成長中だからいいの!」
私は莉乃ちゃんを抱き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。
「子どもみたいに甘えたり、ちょっと大人ぶったり、行ったり来たりしながらみんな大人になるんだよ。だから、急がなくていい」
「風子ちゃん……」
莉乃ちゃんは私の背中の服をきゅっと握って、私の肩に額を預けて泣き始めた。
そういえば、莉乃ちゃんは私にいっぱいくっついて懐いてくれた。
お母さんがいないことが堪えていて、無意識に私に体温を求めていたのかもしれない。
「莉乃ちゃんが全部背負う必要はないからね」
莉乃ちゃんはいっぱい傷ついて、いっぱいがんばってきた。今も達也さんをいっぱい想っている。
こんな愛しい子が泣いてるよと、達也さんに伝えたかった。
莉乃ちゃんをしっかり抱きしめながら、私は海を見つめた。うろうろしながらでも、私はもう大人になったのだ。今はこの腕にいる子にできることをしたい。宗一郎さんが言うように、全力でだ。
今まで使い方を間違えてきた私の優しさは、この子にこそ向けるべきだ。
「莉乃ちゃんが全部背負う必要はない。でも達也さんは大事な人だから……小さくても何かできることがあるか、一緒に考えよ」
「うん……ありがとう、風子ちゃん」
汗びっしょりになるまで泣いてから、莉乃ちゃんは立ち上がった。
「風子ちゃん、帰りに魚屋に寄って帰ろうか」
微笑む莉乃ちゃんの周りを、励ますようにくるりと海風が回った気がする。
莉乃ちゃんの顔は湯に入る前より随分すっきりして見えた。
「お父さん、検査終わって帰ってきたら好きなもの食べたいと思うから。私が……新鮮な刺身を選ぶ!」
「それはすごくいい考え!」
莉乃ちゃんは今、小さくても彼女にできることをやろうと、懸命に立ち上がったのだ。莉乃ちゃんの目は腫れていたが、彼女の笑顔は夏空よりも晴れやかだった。
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