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第六章 風子と小さな勇気
悩み
しおりを挟む火曜日の仕事の後、私は十日ぶりに紗理奈さんの店「豆の木」を訪れた。
カフェ貯金は仕事で嫌なことがあった日に備えて貯めている。だが、私は1000円貯まるとすぐに豆の木に来てしまう。定期的なガス抜きの方が私に合っているからだ。
紗理奈さんがいつもの笑顔で私にデザートセットを運んで来てくれた。
「風子ちゃん、いつもご来店ありがとうございます。こちらデザートセットに、ミニランタンです」
夜の豆の木はやや照明が落ちて昼間よりも雰囲気が大人っぽくなる。そしてデザートセットを頼むと、小さなランタンランプが付いて来るのだ。
小さく淡く揺らぐミニランタンの灯りを眺めながらのディナーは格別だ。紗理奈さんの小さなおもてなしに心安らぐ。私は待ち侘びた時間を前に声が大きくなる。
「ランタンが今日も可愛い!楽しみにしてました!」
「楽しんでもらえると嬉しいわ。今日はもう客足も落ち着いてるからゆっくりしていってね」
紗理奈さんの笑みにお礼を言うと、彼女はカウンターの奥へ戻って行った。
今夜は一度メゾンに帰ってから出直したので、すでに客足のピークは過ぎていた。時間をずらすだけで、客と客の距離が広く、豆の木をゆったり味わえるのだ。
私はカウンター席のお気に入りの青い椅子に座って、デミグラスオムライスを頬張る。
「美味しい……!」
バター香るチキンライスを包むのは半熟のやさしい卵焼き。その上に紗理奈さんの笑顔みたいにまろやかな甘みのデミグラスソースがかかった一品だ。
すべてが夜の癒しのひとときに相応しい。
「私にはこのオムライス、作れないな」
つい小声で本音が漏れた。紗理奈さんと私の料理の腕の違いを思い知る。
大好きな紗理奈さんのオムライスを堪能しながら、豆の木をぐるんと見渡した。
当然のように美味しい料理と、栗皮色の壁や床を基調に紗理奈さんのこだわりが行き届いた極上の雰囲気。ゆったりと動く店員さんの微笑みまで完璧だ。
これぞ私の理想とするカフェの在り方である。
「紗理奈さんはすごいなぁ……」
今まで何となく気に入っていただけの紗理奈さんの店を「もし私がカフェを経営するなら」という視点で見直す。するとあまりによくできた店だと気づかされる。
私は食後のコーヒーを飲みながら、「小さな店のつくり方」の本を静かに捲り始めた。
夢はカフェ経営。
そう言いながらカフェ巡りだけは続けてきた。だが、ただの夢想だった。本当に何か起こそうとしたことはない。
でもこの本を読みながら、たくさん考えるのだ。
紗理奈さんのレストランカフェ、前職のグルテンフリーカフェ、そしてお母さんの小さな喫茶店。
もし、私がカフェをするなら、どんな店──と。
しばらく本の字を追っていると、うっかり時間が過ぎていた。顔を上げるともう客はすっかり引いていて、私一人になっていた。慌てて本を閉じて帰り支度を始める。
最後の客になったので、紗理奈さんがレジで会計をしてくれた。紗理奈さんは現金を受け取りながら私に話しかける。
「風子ちゃん、宗ちゃん最近変わったところない?」
私は予想外の質問を受けてよく考えてみたが、思い当たらなかった。
「いや、別に……元気ですよ?」
宗一郎さんはいつも通り淡々としている。紗理奈さんも私と同じように考えているようだ。
「宗ちゃんね、ここに来て本を開くけど、一ページも進まないの。あれは何かお悩み?かな」
「宗一郎さんって即断即決って感じで、悩むことなそうですけど」
「それね。宗ちゃんって出会った時からずっとそう」
紗理奈さんがくすくす笑いながら立ち話を始めた。私が最後の客なので他の人に迷惑になることもなかった。
話を聞くと、宗一郎さんと紗理奈さんは大学の頃の友人を介して知り合ったそうだ。
紗理奈さんは起業セミナーで大金を騙し取られ、海街メゾンで立て直しを図ったという。メゾンを卒業してから結婚して、店を持った経緯までをさらっと教えてくれた。
「宗ちゃんのおかげで、店持って、結婚もできてね。宗ちゃんに直接言わないけど、感謝してるのよ」
紗理奈さんは懐かしみながらそう語った。同じようにメゾンで立て直し中の私は、彼女が宗一郎さんに寄せる気持ちがよくわかる。
「何かわかったら教えてね。今度は私が、宗ちゃんの役に立ちたいから」
紗理奈さんは大げさにウインクして笑った。宗一郎さんに悩みがあるなんて発想もなかったが、私も心に留めておくことにした。
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