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第六章 風子と小さな勇気
焦り
しおりを挟む白良浜の夏は観光シーズンのピークだ。
私が勤める白良浜ラーメン屋さんは連日大繁盛で、客足は途絶えるどころか行列待ちが続いている。
滞在時間に制限をお願いすることもあり、お客様からのお叱りも増えている。白良浜ラーメン屋さんは宗一郎さんのルール徹底で残業はない。だが、暑さも心労も重なって、疲労度は極度に高い。
近頃の私は、夜のリビングでぐったりしていることが多かった。スマホをスクロールして無味な時間を過ごすくらいしかできない状態だ。
海街メゾンではスマホタイムが終わると、途端にすることがなくなる。消灯まで本を読むか、もう寝てしまうしかない。
達也さんは寝るために部屋に戻って、宗一郎さんはお風呂へ行った。リビングには私と莉乃ちゃんの二人きりだ。
莉乃ちゃんはついに倉田君から本を借りることに成功したと言って、毎晩嬉しそうにページをめくっている。
私はそんな莉乃ちゃんの側でソファに座り、宗一郎さんに薦めてもらった本を開く。
だが、まるで何も頭に入ってこない。同じ行を何回も読んでしまい、意味が理解できない。
せっかく宗一郎さんに夢を語って、色々教えてもらった。なのに、そもそも字すら読めないことに罪悪感がこみ上げる。
だんだんと身体中に焦燥が這い上がる私は、ふわふわラグでビーズクッションを枕に寝転んでいる莉乃ちゃんに声をかけた。
「莉乃ちゃんどうしよう……」
「どうしたの風子ちゃん?」
莉乃ちゃんは倉田君から借りた大事な本を読書中の至福タイムだ。だが、私の声にすぐ反応してくれる。莉乃ちゃんの気づかわしげな猫目を見て、私はきゅっと目頭に熱がこもった。
メンタルがぐらぐら荒れている自覚はあったのだが、止められなかった。
私は読もうとしていた本を莉乃ちゃんに向けて突き出した。
「本が難しくて読めない……」
「え?」
「宗一郎さんに借りた本、何を言ってるか全然わからない。やっぱり私にはカフェ経営なんて無理かも……!」
疲れも重なり、急にあふれ出た私の弱音に莉乃ちゃんの目がぱちくりした。涙をこぼすのは拒んだが、目には水分が溜まってしまった。莉乃ちゃんはそんな私の様子を見て、本を丁寧に置いて起き上がり、隣に座ってくれた。
いつか私が莉乃ちゃんにしたように、今度は彼女が私の背中を撫でてくれる。
「風子ちゃん、それは宗ちゃんが悪い」
「……どういうこと?」
「読めないくらい難しい本を渡した宗ちゃんが悪いんだよ。榎本君はそんなことしないもん」
司書の榎本君は本人の意向に合わせて本を勧めるという莉乃ちゃんの言い分には、多少頷くところがある。けれど、私は宗一郎さんが悪いのではないとわかっていた。
悪いのは私の「心持ち」だ。
莉乃ちゃんが真剣に宗ちゃんが悪いともう一度言ったとき、ちょうど宗一郎さんが風呂から帰ってきた。宗一郎さんと莉乃ちゃんの目がばっちり合う。
「莉乃、俺の陰口は俺がおらんとこで言い」
「陰で言う気なんてないから、堂々と言いたいの」
「ほな、何の話やねん」
「宗ちゃんのせいで、風子ちゃんが泣いたってこと」
「は?」
宗一郎さんの物騒な「は?」は初めて聞いたなと思いながら、私はつい熱くなってしまった目頭をきゅっと拭いて弁明した。
「違うんですよ、宗一郎さんは全然悪くなくて」
「えーでも風子ちゃん、宗ちゃんが貸した本読めないって泣いてたよ?」
「本の話か?」
莉乃ちゃんと宗一郎さんの視線が、一身に私に集まり、私はぐうの音も出なかった。
「いや、そのあの……はい」
「ほら、宗ちゃんのせいじゃん」
「……風子、ちょっと話しよか」
「……はい」
ソファに座る私と莉乃ちゃんの前、ラグの上に宗一郎さんはどんと胡坐をかいて座った。宗一郎さんの視線が下から刺さる。宗一郎さんは私が持つ本を指さした。
「泣くほど難しいなら、今は読まんでええで?まだ時期やないだけや」
「でも将来、カフェやりたいって思ってますから。私はみんなみたいにすごくないので、しっかり勉強しないと……」
みんな、の中に、紗理奈さんや莉乃ちゃんが浮かんで──さらに親友の顔が浮かんだ。
「勉強せなあかんと思うのは立派やけど、そんな焦らんでええんちゃうか?今は仕事も忙しい時期やろ。疲れてるのは字が読まれへん理由として大きいで?」
宗一郎さんのいつも通り真っ当なご意見に、私は黙り込む。莉乃ちゃんと宗一郎さんが顔を見合わせているのがわかる。宗一郎さんの心配げな声が、私の耳にゆっくりと届いた。
「何かあったんか?風子を焦らすようなことが」
宗一郎さんの核心を突く言葉にどきりと胸が跳ねた。強く口を引き結んでしまう。これを口にするのはあまりにも大人げない。
私の沈黙がリビングを埋めた。
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